◆ リスボン条約とは:  nando ブログ

2008年06月15日

◆ リスボン条約とは

 リスボン条約とは何か? これについて、私なりに簡単にまとめてみる。
( ※ 時事的な視点から見るだけでなく、歴史的な視点や経済的な視点から、多角的に考察してみる。)

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 初めにお断りしておくが、私はこの問題の専門家ではない。泥縄的に勉強しただけだ。国際法の権威でも何でもないから、不正確な点もあるかもしれない。その意味で、まるごと信じないようにしてほしい。あくまで読者の参考の一助にしてほしい。
( ※ 以下の点をまとめるに当たっては、Wikipedia や各種新聞などを参考にした。読者の参考のためには、 知恵蔵 もある。)


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 まず、今回のリスボン条約の否決について言うと、
 「与党も野党も賛成していたのに、一般国民の素朴な感情で否決された」
 となる。その理由は、
 「不安ゆえにもたらされたものであって、合理的な理由からもたらされたものではない」
 と言える。たとえば、「安楽死や妊娠中絶の合法化」への不安があったようだが、これらは条約とは何の関係もないデマにすぎない。デマに基づいて国民投票で否決された、と言えそうだ。

 ただし、それで片付くかというと、そうでもない。次のことがある。
 「アイルランドはカトリックの国である」
 国の出自からして、アイルランドはカトリックである。この点では、イギリスと対比される。

( ※ 歴史的に言うと、アイルランドはスコットランドやウェールズと並んでケルト人の場所であるが、のちにノルマン征服のあとでイギリスはノルマン人に支配された。ノルマン化されたイギリスケルト人を弾圧して支配しようとした。さらに、イギリスが国教で宗教的に統一していくさなかで、カトリックを守るアイルランド人は宗教的にもイギリスから弾圧されることになった。民族・言語と、宗教との、双方の面で、アイルランドなどのケルト系はノルマン系のイギリスから弾圧されることになった。……こういう宗教的・歴史的な事情ゆえに、ケルト系のアイルランドはプロテスタントや欧州諸国を容易に信じない。これは重要なことだ。しかし新聞は、こういうことを報道しない。基本的な歴史的知識だから放っておくのか、そもそも基本的な歴史的知識が欠けているのか。……ともあれ、こういう背景を理解しておこう。)

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 さて。アイルランドによる否決はともかく、リスボン条約そのものについて説明しよう。これを知りたい人が多いはずだ。
 リスボン条約は、アイルランドでは否決されたが、他の欧州諸国では批准されている。だから、アイルランドの問題は、法的実効性には意味があるが、物事の本質を理解するためには、無視してもいい。どうせそのうちいつか可決されるだろうし。(私の見込みでは。)

 さて。リスボン条約とは何か? これを考えよう。
 リスボン条約の前身は、欧州憲法条約である。これも、批准されかかったが、2005年にフランスとオランダにおける国民投票でが否決された。
 このままでは可決の見込みが全然立たないので、欧州憲法条約を大幅に薄める形で、新たな条約が提案された。これがリスボン条約だ。

 リスボン条約が欧州憲法条約と違う点は、次の点だろう。
 「EU( or 欧州会議)から、国家的な色彩を薄める」

 そもそも、EU( or 欧州会議)には、国家的な色彩が強かった。それは「各国の主権を奪う超国家」と見なされた。そのせいで、各国の国民の多くは、自らの権利を奪われると恐れて、拒否反応を示すこともあった。

 そこで、リスボン条約では、この「国家的な色彩」を薄めることにした。次のように。
 「EUのシンボル(旗、歌、標語)や「憲法」といった、国家のような特徴を表す規定や表現を取り除く」
 「EUのさまざまな形態の法令に関して、従来の規則や指令といった用語が『EU法』というふうに改められることをやめる」
( ※ この二点は Wikipedia より)

 しかしながら、アイルランドの国民投票では、この点が誤解されて、否決されたようだ。何しろ「なぜ反対するか理由はわかっていて反対する」と答えた人はたったの5%しかいない。残りのほとんどは『わけがわからないから不安ゆえに反対する」と答えているのだ。(報道による)

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 以上のことは、ネットで調べれば、誰でもわかる。問題は、このあとだ。
 「そもそも、欧州共同体というものは必要なのか?」

 これが基本的な問題となる。この問題について考えよう。

 (1) 歴史的事情

 欧州共同体が必要とされたことには、歴史的事情がある。第一次大戦と第二次大戦という二つの惨禍を経たあとで、「もはや国家間の争いに基づく戦争を起こすまい。そのために国家を統合して、一つの欧州国家(超国家)をつくればいい」という理念があった。こうして「欧州共同体」という理念が発想された。
( ※ ここには日本人も関係する。その構想者は、リヒアルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵であり、その妻は、日本人のミツコである。彼女の名は香水の名前にもなっている。)

 (2) 経済的矛盾

 「一つの超国家(共同体)をつくろう」という理念はいいとしても、それを実現しようとすると、経済的な矛盾に直面せざるを得ない。次のことだ。
 「欧州には高所得の先進国と、低所得の後進国とがある。その両者のあいだでは、統一的な経済性政策は原理的に不可能である」
 具体的に言うと、先進国では「低成長・低金利・低インフレ」という政策を取るべきであるが、後進国では「高成長・高金利・高インフレ」という政策を取るべきだ。そのためには、前者では貨幣供給量をそこそこに絞るべきだが、後者では貨幣供給量を増やすべきだ。この二つは両立しない。無理に両立させようとすると、あぶはち取らずになる。特に、先進国では、不況時にも無意味に高金利にすることがあって、そのせいで慢性的な失業に悩むことになる。(ドイツやフランスがそうだ。)

 ──

 以上からわかるように、「一つの共同体」という理念はいいとしても、現実には難しい。無理にやれば、ひずみが出る。
 さらに言えば、福祉政策や文化政策も同様だ。北欧ふうの高福祉高負担は、人間にとってとても幸福な状況だが、EU諸国はそれを拒む。したがって、北欧諸国はEUに加盟することのメリットをあまり感じなくなってしまっている。また、無理やり高福祉高負担を廃止させられるのまっぴらだ、と思っている。

 こうして、「一つの共同体」という発想は今日では否定されてしまった。各国はそれぞれの国内事情にしたがって、それなりの文化政策や生活政策をとれる。
 そして、これはそもそも、当然のことなのだ。人々がどんな生活をするかは、各国ごとに文化や歴史的な事情によって決まる。「一つの共同体による統一的施策」というのは、それぞれの文化的事情を無視した政策であるから、そんなもので統一する必要はないのだ。
 だから、今回のリスボン条約もそうだが、EUに与えられた権限は、外交や安全保障など、限られた面のものにすぎない。文化や生活に関する規定はことごとく排除されている。「一つの共同体」という発想は、ごく限定されたものになってしまっている。
 そして、その限定されたものを受け入れるかどうか、というのが、リスボン条約だ。

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 こう考えてみると、「限定されたものであるならば受け入れてもいいだろう」と思う人が多いだろう。
 しかし、先に述べたことからもわかるように、それは妥当ではない。文化政策や生活政策だけでなく、経済政策もまた本来は各国に委ねるべきなのだ。特に、通貨政策がそうだ。
 しかしながら、現状では、「ユーロ」という統一通貨が採用されて、統一的な貨幣政策が実施されている。そのせいで、経済政策もまた、その大半がEUに委ねられていることになる。「これは好ましくない」というのが私の判断だ。
 一方、大方の経済学者は、私とは異なる判断をする。「通貨が統一されるのはいいことだ」というふうに。たとえば、「各国で通貨を換算する必要がなくなるので、とても便利だ」「メーカーも、国ごとに商品の値付けを変える必要がなくなり、統一価格を表示できる」というふうに。
 しかし、こういうふうに「統一価格ができる」というメリットこそがまさしくデメリットなのだ、と私は思う。なぜなら、統一価格ができることで、価格調整ができなくなるからだ。たとえば、次のことができなくなる。
 「経済不振の国は、通貨を下げる。輸出価格は下がり、輸入価格は上がる。そのことで、国民の生活レベルは下がるが、経済活動が活発になる。かくて、不況を脱する」
 たとえば、ドイツがマルクを採用していて、景気不振になったとしよう。ここでマルクの切り下げで、通貨レートを下げれば(下がれば)、ドイツ製品は安価に輸出されるようになり、外国製品は高価になってドイツに輸入されなくなる。かくてドイツは経済不振から脱する。失業も解決する。
 ところが、ドイツがずっとユーロという通貨で固定価格を守っていれば、価格変動がなくなるので、マルク切り下げのようなことはできない。かくて、いつまでも経済不振が続く。
 「経済的な統一政策を取るということは、経済的な可変政策を取れる自由度をなくすことだ」

 この意味で、統一通貨という政策は、よろしくない。むしろ、次の政策が好ましい。
 「同じレベルの所得をもつ国家同士でのみ、共通通貨をもつ」

 たとえば、次のように。
  ・ ドイツ、フランス、イタリアなど   …… 高所得
  ・ 中程度の国(チェコやスペイン) …… 中所得
  ・ 東欧の途上国(ボスニアなど)  …… 低所得
 このように、所得別に分けて、三つの共通通貨を取るのであれば、問題はないだろう。しかし、すべてをひっくるめて共通通貨にするのは、経済政策の手を自ら縛るようなものだ。そんなことをすれば、国民生活に歪みが生じる。
 そして、そのことを無視して、欧州統合に突っ走れば、一般庶民が欧州統合の不安を感じて拒否反応を示すのも、あながち不思議ではないのだ。むしろ、当然だとも言えよう。

 ──

 結語。

 「欧州統合はすばらしい理想だから、理想の実現をめざせ」
 というのは、頭でっかちの空想にすぎない。足が地に着いていない。
 経済というものは、理念だけで片付くものではない。現実的な経済政策が必要だ。なのに、マネタリズムのような妄想的な経済政策(*)に従えば、現実を肌で感じる国民が拒否反応を示すのも、おかしくはないのだ。

*)「経済政策は貨幣量の調整だけでいいのさ」という、単眼的思想。



 [ 補説 ]
 欧州連合は、「一つの巨大な超国家」という発想そのものが妥当ではない、と私は思う。
 そのような発想を取れば、小さな国家は「呑み込まれてしまうぞ」と恐れるのは当然だ。
 私としてはむしろ、「国家の解体」や「国家の分割」という道を考慮するべきだ、と思う。たとえば、自治を突き詰めて、国のかわりに市ぐらいの規模で行政をになう。
 とはいえ、「何でもかんでも小さくすればいい」というわけでもあるまい。国民生活はおおむね歴史的に言語単位で様式が定まっている。それは現存の国境におおむね近い。だから、生活については、現在の国家と同じ単位で決めてもいいだろう。
 とはいえ、「制度的な国境を低くした方がいい」というのが、私の立場だ。たとえば、パスポートをなくす、というふうな。……そして、それは、かなりの程度、欧州共同体で実現している。そして、ここが肝心なのだが、そのためには特に「欧州共同体」というシステムを必要としない。各国が共同協議で決めればいい。そして、そこでは、特に「欧州政府」というような超国家は必要ない。各国がたがいによく理解し合えばいいのだ。
 歴史的には、制度的な国境はとても高かった。現実に国境を越えることすらも困難だった。そこで、それをなくそう、という発想はいいのだが、だからといって、通貨の境界までもなくしてしまうのは、行き過ぎだろう。なぜなら、国民生活が違えば、経済状況もまた変わるからだ。
 経済というものは、かなりやっかいなものである。「通貨や政策を統一してしまえば経済活動も統一されるだろう」と思ったら、とんでもない間違いだ。経済は人間が容易に制御できるものではない。特に、経済学者が誤った経済政策を取っているときには、経済は必ず制御不可能になる。ここでやたらと「統一政策」にこだわると、人間はどんどん不幸になるばかりだ。……それを国民は実感している。



 【 関連項目 】
 欧州の共通通貨については、下記も参照。
  → 泉の波立ち
    1月02日c9月23日b9月24日3月04日b9月30日1月14日
posted by 管理人 at 14:45 | Comment(3) | 政治 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
補説の処で「何でも間手も小さくすればいい」と言う処「何でも間手」の読み方を教えてと質問してたら、今日見たら「ひらがな」に変ってました変えられたのですね?この事に付いて質問した時のコメント記事は削除されたのでしょうか?そして管理にんさん当てにメール送信としても、メールアドレスが間違ってますと言って受け付けてくれません、間違ってないのに此方からすると送信できるのです不思議ですね、だから此方からしました、お返事下さい  たん
Posted by たん at 2008年07月15日 15:49
漢字の誤変換だったので修正しました。

そちらの文章にある「に付いて質問した」「管理にんさん当て」というのと同様で、よくある誤変換の一つです。
Posted by 管理人 at 2008年07月15日 16:41
シェンゲン協定
Posted by だん at 2009年10月10日 12:14
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