◆ 死刑囚の更生:  nando ブログ

2008年06月22日

◆ 死刑囚の更生

 死刑廃止の根拠は、「死刑は残酷だ」ということだろう。ならば、「残酷ではない」というふうにする方法がある。死刑囚を更生させることだ。

 ( ※ 死刑自体については、最後の 【 関連項目 】の箇所を参照。)

 ──

 死刑執行は、通常、「いきなり通知して執行する」というふうになる。それまで死刑囚は常に恐怖に苛まれている。「明日死ぬかもしれない」というふうに。その間、ずっと恐怖に怯えているので、非常に残酷である。また、死刑の執行も、いきなり絞首刑や電気イスなどになるので、残酷である。

 しかし、私は次のことを提案したい。
 (1)「死刑の執行の直前に、生の充実を味わわせる」
 (2)「そのあとで、死刑囚の望む方法で、死刑を執行する」


 これには次の意味がある。

 ──

 (1)「死刑の執行の直前に、生の充実を味わわせる」

 いきなり死刑を執行するのでは、死刑の意味がない。その前に、「生のすばらしさ・大切さ」を教えるべきだ。そのために、生の喜びを味わわせるべきだ。
 たとえば、繁華街に出掛けさせて、人々の生きている情景を見させる。また、豊かな自然のなかで散歩させて、緑の多い風や葉々や花々などに触れる喜びを感じさせる。犯人が田舎の出ならば、ふるさとに戻らせて、そこにある田畑などを見させる。また、おいしいものを食べさせたり、ビールを飲ませたり、裸の女の写真を見せたり、ダンスを見せたりする。……このようにして、「生きるということがいかにすばらしいか」を実感させる。
 そして、その上で、こう告げる。
 「被害者はこういうすばらしい人生を送るはずだった。それをおまえは勝手に奪ったのだ。どう思う?」

 このとき、死刑囚は、次の二者択一になる。
 (a)「済みませんでした。私は何と罪深いことをしたのだろう。私が死ぬのは当然です」と涙を垂らす。(更生する)
 (b)「うるさい。他人がどうなろうと、おれの知ったこっちゃない。とにかくおれは生きたいんだ! ここら出せ! 馬鹿野郎! おれを生きさせろ! 死刑は残酷だ! 死刑廃止論者の言うことを聞け! わかったか、馬鹿野郎!」


 どちらにしても、死刑囚は好き勝手に感じることができる。そして、結果は、どちらも同じで、死刑の執行である。ただし、そのときの心理状態は、次のいずれかになる。
 (a)おのれの罪深さを感じて、清らかな安らかな気持ちで、命を差し出す。「これはおのれの罪の償いだ」と感じて。
 (b)どうしても自分だけは生きたいという欲望とエゴイズムに駆られながら、無理やり殺されることで、ものすごく苦しみながら死ぬ。


 つまり、心理状態だけが異なる。そして、このように死刑囚を二分化することには、意味がある。
 (a)更生した死刑囚には、安らかな気持ちを与える。生の充実を味わわせることで、彼を更生させ、死刑を安らかなものとして自然に受け入れさせる。(残酷さが消える。)
 (b)殺人をしたことを恥じることもなくエゴイスティックでいる殺人者については、その苦しみをいっそう倍増させる。(残酷さを強める。)


 このようなことには、十分に意味がある。
  ・ 更生した死刑囚には、残酷さがなくなる。
  ・ 更生しない死刑囚には、残酷さが増す。
 このことで、死刑の問題は消えるし、効果も増す。
 しかも、である。建前の上では、「死刑囚のために、最後に生の充実を味わわせる」「楽しい思いをさせてあげる」ということであるから、別に、問題はないはずだ。ま、いやだったら、死刑囚はそれを拒むことはできる。だから別に問題はないはずだ。
( ※ むしろ逆に考えるといい。こういう「最後に生の充実を」というプログラムがあったとする。「それを廃止しよう」という運動があったら、たいていの人が反対するだろう。「監獄からそのまま絞首台へ」というふうに強く主張する人はあまりいないだろう。そのメリットは何もないのだから。)


 (2)「そのあとで、死刑囚の望む方法で、死刑を執行する」

 上記で (a)(b)の二つがあった。
 このうち、(a)の場合だけ、死刑執行の方法を選ばせる。通常、安楽死であろう。つまり、こうだ。
 「最後においしいものを食べる。そのうちの最後の酒に、睡眠薬が入っている。酒を飲んで、眠る。眠っているときに、薬物注射で、安楽死する」
 これなら何も残酷なところはない。

 一方、(b)の場合には、死刑執行の方法を選ばせない。当然だ。その人は「おれは死にたくない」と言い張っているのだから、「死刑執行の方法」を選ぶはずがない。「生きたい、殺すな」と叫んでいるだけだ。
 そのあと、どうするかは、通常の問題である。いろいろな方法が考えられるが、ここでは特に論じない。

 ──

 本項で述べたことの意義は、次のことだ。
 「大切なのは、心だ」
 死刑囚の命を奪うかどうかが問題なのではない。死刑囚の命を奪うのは、裁判所でもないし、法相でもない。死刑囚自身である。「殺人は死刑」という法があるのに、あえてその法に引っかかるように殺人を犯した。この時点で、彼は自分自身で、「死刑」を選んだことになる。(殺しても死刑にならずに逃げおおせるぞ、と思い込んだとしたら、虫が良すぎる。)
 では、死刑そのものが問題ではないとしたら、何が問題か? 心だ。
 死刑廃止の是非で言うなら、遺族の心(愛と悲しみ)こそ、何よりも大切だ。
 死刑執行の方法で言うなら、死刑囚の心(反省か我欲か)こそ、何よりも大切だ。ここでは、死刑囚の命を救うことが大切なのではない。死刑囚の心を安らかにすることが大切なのだ。
 その意味で、死刑囚の前に現れることもある牧師の方が、たいていの死刑廃止論者よりは、よほど有益だ。牧師は死刑囚の心を救う。命を救えなくても、心を救う。これはとても大切なことだ。
 現代の人々は、心の大切さを見失っている。「命の大切さ」を訴える人ほど、「心の大切さ」を見失っているものだ。



 [ 余談 ]
 余談だが、あなたは (a)(b) のどちらを取るだろうか? 
 たとえば、あなたがオセロのような賢者であったとする。しかしイアーゴーのような悪知恵の働く悪党にだまされて、貞淑な妻を疑い、殺してしまったとする。そのあと、自殺しかけたところを、逮捕される。「妻殺しの疑いで逮捕する!」
 しかしその後、イアーゴーの悪巧みが露見する。それでもあなたの殺人という容疑は消えない。ついに死刑が宣告された。
 そのとき、あなたはどう思うか?

 仮に、私だったら、 (a) を選ぶ。「たとえだまされたとはいえ、最愛の妻を殺してしまった罪は許されない。おのれの命をもって罪を贖う。喜んで死刑台に上ろう」と。
 一方、死刑廃止論者だったら、(b) を選ぶだろう。「死刑は残酷だ! おれは生きたい! おれの命を奪うな! ギャー、ギャー」と泣きわめく。「おれだって好きで殺したんじゃないんだ、おれだって悲しいんだ、悪いのはイアーゴーなんだ。おれは妻をなくしたのに、何だって自分の命まで失わなくちゃならないんだ。二重に損だ。ちくしょう。どうしておればっかり損しなくちゃいけないんだ。この世は不公平だ。おればっかり損をするのはイヤだ。おれの命を救ってくれ! 残酷な死刑を廃止しろ! ギャー、ギャー」



 【 関連項目 】
 → 死刑と大量殺人事件
  …… 死刑の本質。単に「死刑囚はかわいそう」という感情論でなく、
     死刑という制度の本質的な意味を考える。
     (個別的な死刑執行の是非ではなく、制度としての意味を考える。)

 → 終身刑の是非
  …… 「終身刑は生命を奪わないから倫理的だ」という主張を否定する。
     そのような主張はあまりにも非人間的であるということを示す。

posted by 管理人 at 11:08 | Comment(3) | 一般 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
考えが偏りすぎ。

自己の正義を妄信し
疑う余地を自ら捨てる姿勢が良く現れている。

では
「私が間違っていました。
私はなんて残酷なことをしたのだろう。
だが、死をもって罪を償うより、自分が犯した罪を背負い償い生きていきたい」
と言う死刑囚がいた場合はどうする?

この死刑囚にとっては、酒に睡眠薬を仕込むことも問答無用に処刑することも残虐な行為では?

そもそも人の思考を二極化することが困難であることに気付くべきでは
Posted by at 2009年03月25日 01:04
ご安心下さい。
その場合には、殺人者があなたを殺してあげます。そのあとで殺人者が反省すれば、あなたは殺されても満足でしょう。

それから、勘違いしないように。誰かが勝手に人を選んで処刑するわけじゃありませんよ。その人を処刑することを決めたのは、殺人者自身です。

たとえば、あなたを殺した殺人者がいるとしたら、彼が処刑されることを決めたのは、その殺人者自身です。
本人は「死刑になる」とわかっていて殺人をしたわけです。なのに他人が口を挟んで、「死刑になるつもりでやったことでも、オレが口出しして、減刑してやろう」と言い出すのは、いらぬおせっかいでしょう。

 ──

 注記。
 本項は「死刑の是非」ではありません。死刑存廃論をやりたいときには、別のところでやってください。



Posted by 管理人 at 2009年03月25日 06:16
 くだらないコメント(ろくに読まないで勘違いして文句を言うコメント)が多く寄せられるので、本項はコメントの受付を中止にします。
Posted by 管理人 at 2009年05月05日 21:28