◆ ウェブと日本語:日本語は亡びるか?:  nando ブログ

2008年11月30日

◆ ウェブと日本語:日本語は亡びるか?

 ウェブでは英語が圧倒的に有利だ。このことは日本語を衰退させるか? いや、その逆だろう。(ウェブとグローバル化とを混同してはならない。)

 ※ 本項は、話の内容がピンボケです。正しい話は、次の項目にあります。
    → ITと日本語(日本語が亡びるとき)


 ──
 ※ 以下は、全面削除の扱いとします。(間違いというより、ピンボケなので。)

 ウェブと日本語を論じる話題がある。
   水村美苗「日本語が亡びるとき」
 という本をめぐって、一部の書評ブロガーなどが、「これを買え、これを買え」を推奨した。
 で、それに端を発して、議論が生じた。

 ただし、注意。ここでは混乱が起こっている。それは、著作のタイトルが「羊頭狗肉」だということだ。
 タイトルは「日本語が亡びるとき」というセンセーショナルなものだが、中身はそんなにセンセーショナルではない。過激なのはタイトルだけだ。だから、タイトルを読んで、誤解しないように。
 別に、「英語が偉いから日本が滅びる」というような話は出ていない。勘違いしないように。

 ──

 では、何があるかというと、(実は私も読んでいないのだが  (^^); )、次の趣旨であるようだ。
 知識人の言葉と普通の人の言葉を分ける。知識レベルの書き言葉と、日常レベルの話し言葉を分ける。すると、前者については、ネットのせいで、英語が圧倒的に優位になりつつある。このような時代にあって、日常レベルのことがらを扱う小説は、危機に瀕する。
 以上は私なりのまとめだが、似た趣旨のまとめも、あちこちに見出される。たとえば、
 「英語がかつてのラテン語のように、「書き言葉」として人類の叡智を集積・蓄積していく「普遍語」になる時代を私たちはこれから生きるのだ、と水村は喝破する。」
 ( → http://anond.hatelabo.jp/20081108170922
 ただ、一番いいのは、池澤夏樹の書評だろう。私が上に書いたあとで、あらためてネットを探したら、次の書評が見つかった。とてもよくまとまっている。さすがに作家だ。
 とりあえず、下記に一部だけ引用するが、できれば全文を読んでほしい。(一部引用では足りないので。)
 人々とて日常は「現地語」で暮らしていたのだから、彼らは二重言語者だった。現地語生活をおくる者が叡智への欲求に目覚めれば、二重言語者にならざるを得ない(それを、彼らは普遍語の図書館に入り浸った、と水村は表現する)。やがてグーテンベルグの印刷革命が起こり、普遍語の書物がヨーロッパ全体に普及する。
 翻訳という知的営為を通じて、現地語と普遍語の間に橋が架けられ、話し言葉でしかなかった現地語が書き言葉として整備される。小国が乱立していた地域がある程度まで統一され、域内の言語が一つにまとまり、国民国家が成立する。そこで、普遍語で書かれた内容が現地語でも書き得るようになった時、「国語」が生まれる。出版文化はもちろんそれを後押ししただろう。
  要は大きな文化圏と小さな文化圏の間で言葉を介した行き来があり、それを担った二重言語者がおり、彼らの活動が歴史に大きな力を及ぼしてきたということだ。なぜならば「国語」は「国家」を強化するから。
 世界中の本を書く人々が、広く読者を得ようと思うなら英語で書くのが近道と思う。実際、ここ二十年ほどの英語文学の繁栄は旧植民地出身の若い作家たちに依(よ)るところが大きい。その背景には英語でしか読まない各国の二重言語者がいる。
 では日本は大丈夫か? 近代文学を成立させた好条件は安泰か?
 ( → 毎日新聞・書評 by 池澤夏樹・
 《 追記 》
 次のページでも、なかなか良い「まとめ」がある。俗っぽくて、面白いので、読むといいだろう。
 → http://chikura.fprog.com/index.php?UID=1226655874

 ──

 結局、水村は、一種の問題提起をしている。(日本語なんてダメだから亡びてしまえ、とけなしているのではない。勘違いしないように。)
 で、水村の指摘をもって、「小説家の言語意識の鋭敏さ」と称える人もいるし、「すべての知識人の共有するべき問題」と称える人もいる。で、彼らは、「この本を買え」と結論する。アマゾンのアフィリエイトを付ける人も多い。(そっちが目的?    (^^); )

 ────────────

 さて。私なりに論じよう。水村の主張は、おかしな点がある。次の二点だ。
 「ウェブという概念とグローバル化という概念とを混同している」
 「言語の比率絶対量を混同している」

 この二点について、次の (1)(2) で詳しく説明しよう。

 (1) グローバル化

 まず、英語が優位になるという点で言えば、これは、「ウェブ」という概念を用いずとも、「グローバル化」という言葉で説明される。
 ウェブがあろうがなかろうが、英語の優位性は、グローバル化した社会において進行しつつある。ベトナムなどの開発途上国では、確かに英語の優位性が成立しつつある。それは事実だ。しかしそれは、ネット時代だからではなく、グローバル社会時代だからだ。
 どうも、著者は、ビジネスのことを全然理解できていないようだ。ネットなどはあまり関係なしに、現代ではグローバル化が進行しつつある。そこでは英語が圧倒的に優位になりつつある。(たとえば歌だって英語の歌が圧倒的に有利だ。ビジネス面からも。)
 今になって、「ウェブ、ウェブ」と騒ぐほどのことではない。実は、このような「グローバル化」は、50年以上前から、ずっと進んでいることなのだ。今になって急に起こった事柄ではない。

 (2) 比率と絶対量

 もっと重要なことがある。英語が優位になるということはあるが、それは、「比較しての優位」という意味だ、ということだ。
 他の言語との比較で、英語は優位にある。その傾向も高まりつつある。世界中で、英語が優位となり、現地語は劣位となる。(比較して、だが。)
 では、そのことをもって、「現地語が滅びる」となるか? 否。なぜなら、「滅びるか否か」は、絶対量の問題であるからだ。
 たとえば、生物において、ある絶滅危惧種が絶滅するか否かは、その絶対量が非常に少なくなるか否かで決まる。
 一方、比率が少なくなっても、全体量が多ければ、滅びることはない。
 逆に、比率が多くても、絶対量が少なければ、滅びてしまいやすい。

 言語はどうか? たしかにネット時代において、英語の優位性は高まっている。では、日本語の量は、減りつつあるか? いや、逆だ。
 ネット時代において、日本語の量は爆発的に増えている。それまでは書物の図書館にしかなかった「日本語の叡智」が、ネット時代には「ネット上の仮想図書館(WWW)」の上に大量に公開されるようになった。
 たとえば、私のサイトの公開する「知識」だけでも、ものすごい分量になる。こういうことが日本中で行なわれた。
 もちろん、日本語以外の言語でもそうだ。特に、マイナーな言語は重要だ。ユニコードやその他の規格が普及したおかげで、マイナーな言語の発表が著しく容易になった。たとえば、チベット語。従来の出版システムでは、チベット語の出版は容易ではなかったが、現在では世界中の言語オタクの努力で、チベットをコンピュータで扱うことが容易になりつつある。(もちろんいプリンタで出力することもだ。)アフリカのスワヒリ語なども似た事情だ。これらの国では、とうてい容易ではなかった「出版」(大量印刷)という行為が、低コストで容易になされるようになってきた。
 こういう現実は、われわれもまた、日々に実感しているはずだ。オフィスではやたらと印刷物が出回る。自分で資料を作るだけでなく、外部の資料もネットから取り寄せる。現地語(日常語)のレベルでも同様だ。ネットには「ブログ」というものが氾濫して、そこいらの平凡な市民が日常的な感想を綴っている。現地語(日常語)は、滅びるどころか、爆発的に増殖している。もはや「情報の洪水」というありさまだ。

 以上から、次のように結論できる。
 「比率では、英語の比率がいくらか高まっているが、絶対量では、現地語(日常語)の量は爆発的に増えている」


 ──

 結論。

 ここまで見れば、水村美苗の懸念が杞憂だった、とわかる。
 彼女は、グローバル化とウェブとを、混同した。
 彼女は、比率と絶対量とを、混同した。

 そして、一部の書評家は、彼女の混同を額面通りに受け取って、大騒ぎした。そして、自分がアマゾンアフィリエイトで儲けようとした。  (^^);

 ──

 ただ、水村美苗の危機感が、まったくの当てハズレかというと、そうでもない。確かに、比率の点では、「英語優位」という現象は起こりつつある。ただし、その理由は、ウェブではなく、グローバル化だろう。
 もちろん、ウェブによる「英語優位」の効果も、あることはあるのだが、それは、グローバル化の影響よりは、ずっと小さいはずだ。
 また、ウェブ自体の効果は、「英語優位」をもたらす効果よりも、「現地語の爆発的増加」をもたらす効果の方が大きいだろう。その意味で、ウェブについては、危機感を持つほどのことはない。
 たとえば、私自身について言えば、ウェブ時代には、英語に触れる量がとても増えた。しかしながら、日本語に触れる量も、大幅に増えた。昔は本を読むぐらいだったが、今ではネットで大量の日本語に触れている。……こういうことは、多くの人々に当てはまるはずだ。

 ────────────

 では、問題は何もないか? いや、ある。
 実を言うと、問題は、もっと別のところにある。それは、「量の問題」ではなく、「質の問題」だ。
 今では、安価で大量の日本語が出回っており、それに触れる時間が増えた。しかしながら、その一方で、質の高い日本語に触れる機会が激減した。
 昔ならば、精選された質の高い日本語を、時間をかけてじっくり読んだ。「精読」である。しかし今は、質の低い日本語を、大量に読むばかりだ。「粗製濫造」と「乱読」である。……このようなことは、時代全体の趨勢ともなっている。そのせいで、優れた質の日本語が少なくなりつつある。量は増えても、質が低下しつつある。……書き手においても、読み手においても。
 問題は、量ではなく、質なのだ。


 水村美苗は、日本語の将来を憂える。「英語に侵食されるのでは」と危惧する。その危機感は妥当だろう。
 ただし、脅える相手を間違えている。日本語の将来に危機をもたらすのは、ウェブではない。ウェブは、敵というよりは、味方である。たとえば、ブログで文章を書く人が増えれば、その人の言語力は確実に高まるから、日本語の言語水準は高まる。

 一方、別のものがある。主として、次のようなものだ。
   ・ アニメ、漫画
   ・ ゲーム機
   ・ ケータイ

 このうち、1番目の「アニメ、漫画」は、昔からあった。とはいえ、最近では、子供だけでなく大人までもが、どっぷりとツボにはまりつつある。これが「オタク」という現象だ。こうなると、頭が幼稚化するので、言語水準もまた低下する。
 2、3番目の「ゲーム機」と「ケータイ」が言語水準を低下させるのも、いわずものがな。

 水村美苗が危機感を抱くのであれば、ウェブに対して抱くよりは、上記のものについて危機感を抱くべきだったのだ。彼女は「敵」と見なす相手を間違えている。
 なるほど、ネット時代には、英語がさんざんあふれている。しかし、日本人がいくら英語に触れても、たいていの人はろくに英語ができないのだ。そもそも、日本語すらまともにできないような人々が、英語をまともに駆使できるはずがない。

 ──

 ついでだが、「知の集積」という点で言えば、勇気づけられる点を教えてあげよう。次のことだ。

 「知の集積」という点は、Wikipedia において結実する。その成果は、英語版が圧倒的に強い。(ここまでは水村の懸念するとおり。)
 しかしながら、日本語版の Wikipedia も、非常に健闘しているのだ。日本語版の Wikipedia は、英語版に次いで、世界第2の地位を占めている。英語版を金メダルとすれば、日本は銀メダルぐらいの価値がある。そして、銅メダルとなるのは、群雄割拠だ。スペイン語とかドイツ語とかフランス語とか。
 世界の人口で言えば、英語人口が圧倒的に多く、次いで、中国語や、スペイン語や、ドイツ語や、フランス語などがある。しかしながら、Wikipedia を見れば、人口の少ない日本語の Wikipedia が英語版のすぐ後を追うぐらいの位置にある。特に大きく劣っていないのだ。
 ネット時代において、英語は「知の集積」を成し遂げつつあるが、同時に、日本語もまた「知の集積」を成し遂げているのだ。それも、高いレベルで。
 
 ──

 まとめて言おう。
 ネット時代には、情報の洪水が起こっている。そのなかで、大量の言葉が出回るようになった。そこでは、英語が圧倒的に多いが、だからといって、現地語が減ったわけではなく、現地語もまた増えている。そのなかでも、日本語はとてもよく健闘している。
 だから、問題は、「日本語が亡びるか」ということではない。爆発的にどんどん増えているのだから、亡びることなどはありえない。
 それよりも、問題は、「質の低下」だ。量は増えても、質が低下しているからだ。だから、「日本語が亡びるか」と論じるよりも、質的な意味で、
 「日本語はレベル低下するか」
 と論じるべきなのだ。これこそ、懸念するべき問題なのだ。言語のレベル低下は、思考のレベル低下をも意味するからだ。

 ここで、注意。質の低下は、ウェブのせいではなく、別のもののせいだ。ウェブは、むしろ、質の低下を減らす効果もある。毒よりも、薬になる。

 結局、われわれが日本語について心配するとしたら、心配するべきことは、「亡びるか否か」ではなく、「レベル低下するか否か」である。また、恐れるべきものは、ネットではなくて、別のもの(前述の三つ)なのだ。……日本語の敵を考えるのはいいが、敵を間違えてはならない。

 簡単に言うと、こうだ。
 「英語が増えたからといって、日本語が減ると思うべきではない。英語と日本語との関係は、たがいに食い合う関係ではない。むしろ、全体としての『言語力の低下』の方が心配だ。われわれが危惧するべきことは、(英語と比較しての)日本語力の低下ではなく、言語力の低下なのである」
 「そして、この問題への対処法は、英語よりも日本語力を優遇することではなくて、言語力そのものを鍛えることだ」


( ※ わかりやすく言えば、「マルチメディア化はすばらしい」というIT業界の宣伝は有害だ、ということだ。パソコンであれケータイであれ、やたらと画像が氾濫するようになったが、そのことでかえって知的レベルは低下してしまう。本を読まないでオタク漫画ばかりを見て、そのせいで漢字を読めなくなる……というふうに。別に、どこかの首相を批判したいわけではないが。   (^^);  )



 [ 付記1 ]
 水村の懸念がピンボケであることは、その主張を裏返して眺めるとわかる。
 「このままでは来世紀には、日本語は亡びるだろう(かもしれない)」
 これを裏返すと、次のようになる。
 「このままでは来世紀には、日本人は英語を使うようになるだろう」
 「このままでは来世紀には、日本人は英語がペラペラになるだろう」
 ありえなーい!! 
 日本語力の低下は、まさしく起こるだろう。しかし、だからといって、英語がペラペラになることなど、ありえなーい!
 要するに、「英語が優勢になるから、日本語が亡びるだろう」という理屈は、成立しないのだ。かわりに、「言語力が低下するから、日本語がメチャクチャになる」ということは起こりそうだ。
 日本語力の低下が到達する点は、英語力の向上ではなく、言語力の崩壊なのだ。

 [ 付記2 ]
 実を言うと、日本語よりも英語がいい、というような議論は、昔から何度もなされてきた。明治維新のころやら、終戦直後やら、何度もなされた議論だ。今になって、ネット時代という「第3の開国」を迎えて、同じ議論がなされたわけだ。……二度あることは三度ある。陳腐すぎる。

 どうせなら、別の視点から論じる方が面白い。
 「英語が亡びるとき」
 という論議だ。以下の通り。

 ──

 ネット時代に際して、英語は亡びるだろう。なぜか? 英語が使われなくなるからでなく、使われすぎるようになるからだ。
 その傾向はすでに現れている。ピジョン・イングリッシュという奴だ。東南アジアなどで、ネイティブでない人々が使うカタコトの英語。文法も発音も、英米の英語とは大きく違う。こうして、英語は、本来の英語から懸け離れてしまう。

 実は、これと似たことは、すでに歴史的に一度、経験している。
   英国イングリッシュ → 米国イングリッシュ
 という変化だ。今日では、「英語」とは、英国のイングリッシュではなく、米国のイングリッシュになってしまっている。
 そして、それと同様のことが、今後は世界規模で起こるはずだ。米国は世界のうちのたった2.5億人にすぎない。世界の多大な英語人口のなかで、呑み込まれてしまうだろう。
 つまり、英語が世界規模で使われるようになればなるほど、米国イングリッシュの地位は衰えてしまう。

 仮に、水村の意見のようになって、英語が世界の主導権を握るとしたら、英語の主導権を握るのはインド(人口 12億人)だろう。英語とは、かつては英国の言葉だったが、今では米国の言葉であり、将来はインドの言葉となる。かつては「インディアン」などと読んで馬鹿にしていたが、その「インディアン」の言葉になるのだ。(あれ? 違う?  (^^);  )

 そして、世界言語の標準が、米国からインドに移るにつれて、米国の「世界の中心」としての位置も、没落する。世界の標準言語は、英語という名前のインド語になるのである。   (^^)v

 ──

 ※ 上のことはもちろん、まともに論じてるわけではない。ジョークです。
   ま、実際、そうなるかもしれないが、大騒ぎするようなことじゃない。
   それが眼目だ。いくら騒いだって、何の意味もないのである。
 ※ どうせ心配して騒ぐなら、日本人自身が日本語を自壊させることだ。
   その方が心配だ。ネットの英語の影響なんて、無視しても構わない。

 ※ そもそも、今、ネットで英語をちゃんと読む人が、どれだけいるの?
   読み過ぎて困っているどころか、読めなくて困っているはずですよね。
 ※ そう言えば、似たことを考えた人がいた。
   「宝くじに当たって1億円をもらったら、どうしよう?」
   と必死に悩んで、もがき苦しんでいる。実際は貧乏なくせに。
 


 【 補足 】

 最後に、真面目に論じておこう。それは、経済学的なことからわかる。
 「インドが世界の標準言語になる」ということは、少なくとも当分の間は起こらないだろう。なぜか? 人口が理由ではなく、経済力の問題だ。いくら人口が多くても、経済力が小さければ、世界に影響をもたらすことはできない。
 このことは、日本にも当てはまる。日本の言語が世界に影響力をもたらすには、日本の経済力が決定的に重要となる。日本の経済力が非常に高まれば、放っておいても世界中でたくさんの人々が日本語を学ぶようになる。逆に、日本の経済力が没落すれば、世界の人々は日本語を学ばなくなる。
 ことは、ネットの問題ではないのだ。経済力の問題なのだ。あるいは、文化力の問題なのだ。
 昔、ドイツ語やフランス語が、日本で大いに流行ったことがあった。そのころ、ドイツの工業力や医学力は高く、フランスの人文力は高かった。だから人々はドイツ語やフランス語を学んだ。……しかし、今や、そうではない。ドイツやフランスの国力が衰えたからだ。
 日本が心配するべきことは、ネットによる侵食なんかじゃない。日本人自身が日本の経済力や文化力を損ねていることだ。── 敵は自らの内にある。敵は外側としての世界にあるのではない。
 このことに気づくことが、何よりも大切だ。



 [ 余談1 ]
 ついでに、感想を言おう。
 ネット時代における「ブログ」というのは、一般人にとって好ましいものだ、と思う。というのは、「言葉を書く訓練」という実践するようになるからだ。
 特に、誰にも見せない「日記」ではなく、他人に見せるのを前提とした「公的表現」になるからだ。
 ここで、「公的表現」というのは、昔の現代文の参考書のベストセラーに書いてあった、文章の要諦だ。独りよがりの文章でなく、誰にも理解されることを願う文章であること。……そして、そういうものを書く練習をするうちに、言語の伝達力が高まり、表現力が高まる。
 ブログというのは、言語力を高め、思考力を高めるために、とてもいい道具である。「ちゃんとした文章を書こう」と思って、ブログを書くことは、各人の思考力を高めるだろう。
( ※ ついでだが、しょこたんブログみたいなのは、ダメです。アレはかえって白痴化する。オタク化する、と言っても同じか。  (^^); )

 [ 余談2 ]
 なお、水村美苗の話は、特に批判するべきことでもないと思う。あれは、小説家の危機感を示したもので、ただのエッセーにすぎない。彼女が個人的にどんな危機感を感じるかは、彼女の勝手だ。たとえトンチンカンであるとしても。
 問題は、小説家のトンチンカンな危惧を、日本人全体の危機であるように吹聴した人々(というか、吹聴することで、アフィリエイトのお金を儲けようとした人々)にある。……連中の言葉に踊らされてはならない。
 書評家ブロガーが「これを買え」と言ったら、買ってはならないのだ。そういう原則を立てた方がいい。まともな人間は、特定の書評家ブロガーの話なんかに踊らされずに、ネット全体を Google で検索する。特定の一人の意見を信じず、多様な意見を聞く。……これがネット時代の正しいリテラシーだ。ここを間違えてはならない。

 [ 余談3 ]
 振り返って俯瞰してみよう。本項の話から言えることは、こうだ。
 「水村美苗は、ウェブのことを理解していない」

 彼女は小説家だから、いくらウェブと日本語の関係を論じても、ウェブのことについてはトンチンカンになってしまうのだ。
 ただし、それは、批判するべきことではあるまい。小説家がウェブのことを知らなくても、別に問題はない。
 問題は、水村でなくて、ネット上の評論家が、ウェブのことを理解していない、という点だ。あの人とか、この人とか。(特に名を秘す。)……こういう人々が、ウェブのことをろくに知りもしないで、「ウェブと日本語」なんてことを論じる。やめてほしいね。

 実は、舞台裏を見れば、こうわかる。
 「今回、水村の日本語論を『すばらしい』と称賛したのは、Google を『すばらしい』と称賛したのと、同じ人々である」

 あの人とか、この人とか(特に名を秘す)は、「 Google はすばらしい」とか、「自分を Google 化するのはすばらしい」とか、さんざん持ち上げた人々だ。
 冗談じゃないですね。そういうふうに人々を間違った方向に煽動するのは、やめてもらいたいものだ。
 ネット時代には、正しいリテラシーが必要だ。彼らはそのこととは逆の方向に人々を向けようとする。社会を誤誘導することで社会を悪化させる。ただし自分だけは儲ける。……まことに困ったことだ。
( ※ 参考 → Google and Me ブログ「Google の功罪」。なお、その続編は、近日中に公開する予定。)

 [ 余談4 ]
 このあとは、文学論を述べる。日本語と文学の関係を述べよう。
 水村は、日本語が衰退することで、日本文学そのものが衰退することを危惧しているようだ。しかし、それは、お門違いというものだ。理由は、二点。
 第1に、あらゆる言語はかならず亡びる。英語であれ日本語であれ、必ず亡びる。ここで「亡びる」というのは、「変質する」という意味だ。たとえば、源氏物語の当時の日本語は、今では通じない。英語だって、ウィリアム征服王のころの英語は今では通じない。言葉というものは時代のなかで必ず変質する。たとえば、シェークスピアやゲーテだって、今日では原文のままでは読まれなくなってきている。(イギリスやドイツで。)……当時の言語は、今日では生きながらえない。その意味で、あらゆる言語は必ず亡びる。(翻訳が必要になる。)
 第2に、たとえ「外国語訳」や「現代語訳」という翻訳を経ても、文学の基本的な生命は生き延びることが可能だ。ここでは、亡びるかどうかを決めるのは、言語が亡びるかどうかではなくて、作品に「永遠の生命」があるか否かだ。作品に「永遠の生命」があれば、たとえ言語が亡びても、作品は亡びないのだ。だからこそ、シェークスピアやゲーテは、今日でも世界中で読まれる。
 水村美苗は、「日本語は亡びないか」と心配する。しかし、心配する必要はない。なぜなら、彼女の作品生命よりも、日本語の生命の方が、ずっと長いからだ。日本語が亡びるよりもずっと早く、彼女の作品が亡びる。そっちの方を心配した方がいい。
 作家が考えるべきことは、日本語の運命なんかじゃなくて、自分の作品なのだ。日本語を長生きさせたいと望むよりは、自分の作品を長生きさせるように努力するべきなのだ。
 昔の彼女は、日本語の心配をするよりは、作品を書くことに集中していたはずだ。「日本語は亡びないか」と心配する彼女は、かつては創作意欲が旺盛だったのに、もはや創作意欲がなくなってしまったのかもしれない。そっちの方が心配である。
( ※ だから、この件は、文学論です。日本語論ではありません。冒頭で「文学論を述べる」と述べたとおり。)

 
posted by 管理人 at 09:54 | Comment(9) | 思考法 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
 最後に [ 付記 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2008年11月30日 14:37
 最後に 【 補足 】 を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2008年11月30日 16:50
 最後に [ 余談 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2008年11月30日 17:02
 最後に [ 余談3、4 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2008年12月01日 01:08
 なかほどに [ 付記1 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2008年12月01日 12:39
本テーマには関心も管理人殿に一言意見する知識もないが、まずは一読してから書評すべきではないか。 
Posted by no name at 2008年12月01日 14:28
書評ではなくて、私なりのエッセーだと思ってください。同じテーマをめぐって、私なりの考えを示したものです。
仮に、私なりの考え方を示したとして、水村さんの本のことに言及しなかったとしたら、おかしいでしょう? まるですべてが私の頭から出たことみたいに思えるし、著作権の侵害になってしまいます。だから水村さんの本についても紹介しました。

本項の内容は、書評ではありません。本自身については、良いとも悪いとも言っていないし、買えとも買うなとも言っていません。

Posted by 管理人 at 2008年12月01日 16:14
概ね、同意見ですね。


池澤氏の書評より。

>英語で書かれた小説は各国語に訳されるが、その逆はまこと少ない。文学としての価値を問う前にそういう流れができてしまっている。

いや、これは、日本語は結構いいポジションということなのでは?

相手の情報は筒抜けなのに、自分のことはあまり出ていかない。

オープンリーチ相手にダマテンしてるようなものかと。
Posted by 深海 誠 at 2008年12月01日 21:49
日本語にとってはともかく、一流半の日本作家にとってはいいことだと思いますよ。一流半の日本語作品でも、そこそこ売れて、有名になれますから。(非関税障壁があるようなもの。)

英語の小説だと、売れる小説はバカ売れしますが、一流半だと、ろくに売れないし、無視されるでしょう。

たとえると、一流半の日本プロ野球選手が、大リーグでは成功しないように。超一流の日本プロ野球選手なら、大リーグでも大成功しますが。

池沢さんや水村さんは、自分をどう思っているんでしょうか。興味深い。


Posted by 管理人 at 2008年12月01日 23:36
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