( ※ あらかじめ小林の原文を読んでおくことが必要。以下の解説は原文と照合しながら読んでください。)
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小林秀雄の「無常という事」は、難解であるので有名だ。かつては高校の現代文の教科書に取り上げられたり、大学入試の問題に出されたりした。しかし高校生のレベル低下に応じて、最近では教科書は平易な文章ばかりになったので、この文章が取り上げられることもほとんどないようだ。それでも、中高年の人ならば、この文章に触れて、その息づきを味わった人も多いだろう。
ただ、たとえ触れても、その真意がわかっていない人が多いはずだ。実際、この文章は、レベルがすごく高い。難度が最高レベルだ。はっきり言って、大学院レベルである。高校生にわかるはずがない。
実際、どこかの気鋭の哲学者や、どこかの気鋭の文芸評論家は、「こんなものは意味もないデタラメだ」というような言葉で批判している。「自分にはわかりません」と語るかわりに、「この文章はデタラメだ」と語るわけだ。情けない話だが。
とはいえ、少しでもセンスのある人ならば、この文章にはとても美しいものが込められているのがわかるはずだ。実際、そこには、大切なことが語られているのである。
ただ、それが、うまくつかみにくい。そこで、本項で、解説をしておこう。
──
まず、あらかじめ大切な枠組みがある。それは、次のことだ。
「この文章は論文ではない。エッセーだ」
これは決して学術論文ではない。仮にこれを学術論文だと見なせば、「論旨は不鮮明で、何を言っているのかもわからない」ということになる。これを学術論文として見るなら、意味がゼロの落第文となる。
だから、これは「学術論文ではない」ということを、はっきりと理解しておくことが必要である。
では、学術論文ではないとしたら、何であるのか? エッセーだ。つまり、何らかの感想だ。
ただし、注意。エッセーとは言っても、ここでは、身辺雑記のような事柄が書かれているのではない。むしろ、非常に大きな事柄が書かれている。それは宇宙規模の大きな事柄だ。
それは、あまりにも大きな事柄なので、もともと解決がつくはずの問題ではない。だから、仕方なく、エッセーないし感想文となる。とはいえ、エッセーないし感想文だからといって、見くびるわけには行かない。なぜか? 違いを対比すればわかる。
・ 学術論文は、非常に小さなテーマについて厳密な説明を書く。
・ 小林の本稿は、非常に大きなテーマについて印象的な感想を書く。
このような違いがあるのだ。
この違いを無視して、「そこには厳密な学術論議がない」と批判するのは、およそお門違いのことだ。それはいわば、「塩は甘くない」と批判するようなもので、まったくお門違いである。
小林の本稿がどのようなものであるかを、大枠で理解しておこう。彼はそこで、厳密でなく曖昧な形で語るが、しかし、非常に大きな事柄を扱っているのだ。
──
では、彼は、何を扱っているか?
ここでは問題となるのは本稿(無常という事)の「テーマ」だ。その「テーマ」が何であるかをはっきりと理解しておく必要がある。
ただし、その「テーマ」は、本稿において明示されていない。そのせいで、何について語られているかが、とてもわかりにくい。
普通の学術論文ならば、最初に「テーマ」が示される。しかし本稿では、そのテーマが明示されていないのだ。
そこで、以下では、「テーマは何か」ということから、解説していこう。
──
最初に、テーマを明かす。テーマは「無常という事」である。
ただし、注意。ここでいう「無常という事」を、そのまま言葉で理解してはならない。それではテーマを見誤る。というのは、「無常」というのは、現代の言葉にはなっていないからだ。この言葉はもはや今日では「死語」も同然だ。従って、現代語に翻訳される必要がある。すると、次のように言える。
テーマは「生と死」である。
はっきり言っておこう。この文章のテーマは、「生と死」である。これが最初から最後まで覆っている。このテーマを見失ってはならない。すべてはこのテーマの周辺で語られる。
たいていの人は、このテーマを理解していない。小林が何について語っているかを理解していない。だから、文章が難解なのだ。「何について語っているか」を理解しないままに文章を読むから、何のことやらさっぱりわからないのだ。
そこで、「この文章のテーマは生と死である」ということを念頭に置いた上で、あらためて読み直してほしい。文章がかなりはっきりとわかるはずだ。
──
・ 昔のなま女房が、生の世界よりも死後の世界で、救済を望んだこと。
・ 青葉が太陽に光る様を見て、生を感じながら、死を思ったこと。
・ そのとき同時に、失われた過去の歴史を思ったこと。
・ すでに死んだ歴史の人々がかえって生き生きとして感じられること。
・ それに比べれば、現実の世界の人々の生き方が中途半端であること。
こういう構造がわかる。すると、この文章の筋道もわかる。こうだ。
「生と死をめぐって考えていると、歴史というものに思いを馳せる」
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この文章のテーマは、実は、二つある。次のことだ。
・ 生と死
・ 歴史とは何か
実を言うと、小林秀雄はこのころ、「歴史とは何か」ということを考えていた。昔の人の話などを読んできたが、しかし「歴史とは何か」ということがよくわからなかった。そこで、ああだ、こうだ、と頭を思い悩ませていた。
そんなある日、なま女房の話を読んだ。そのときはそのまま、忘れていた。
その後、ある日、散歩をしていて、青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔の付き具合やらを一心に見ていた。すると突然、なま女房の話が思い浮かんだ。鮮やかな生を感じているときに、生よりも死後の救済を願うという話が思い浮かんだ。そのとき、生と死の対比をありありと感じた。
すると突然、「歴史とは何か」ということがわかりかけたと感じた。
──
そこまでは、話の前段だ。小林は、「何を書こうとしているのか判然としないままに書き始めている」と語ったが、そういう前段を書くうちに、だんだんわかってくる。そこで、一挙に、話の中段に飛ぶ。
生と死を感じるうちに、「歴史とは何か」ということがわかりかけたと感じた。そこで、その内容に踏み込む。(ここから哲学的な話になる。)
歴史とは何か? それは哲学的に「歴史とは何か」「歴史とはこういうものだ」と考えればいいものではない。そのように考えること自体が間違っている。
われわれが歴史を考えるとき、歴史上の人々を「すでに死んだ過去の人」として扱う。しかし、歴史上の人々は、当時まさしく生きていたのだ。鮮明に。
それに比べると、われわれの方は、まともに生きているとは言えない。生きているのか生きていないのかわからないような、いい加減な生き方をしている。人間ではなく、中途半端な人間のようなものだ。
小林はここまで考えた。ただ、そこで、考えは中断した。考えの糸は切れたままだった。
──
このあと、話の後段に移る。中段の話を引き継ぎながら、初めのテーマを受け入れる。
歴史において大切なのは、何か? その当時の人々がまさしく生きていたということだ。しかも、あまりにも溌剌として生きていたのだ。歴史上の人物を理解するには、もはや死んだ人として扱うよりは、今の人間以上に鮮やかに生きている人間として扱うべきなのだ。そうしてこそ、歴史というものを理解できるし、歴史上の人物を理解できる。
人には生死がある。人は生きて死ぬ。この世は無常であり、人もまた無常である。そこを理解することに、人間理解の鍵がある。
モーツァルトであれ、実朝であれ、彼らを考えるときには、「歴史上の偉人」というふうに扱うべきではない。まさしくわれわれと同じ悲しみなどの感情をもつ生身の人間として扱うべきなのだ。モーツァルトや実朝の作品に触れるときは、「その作品を人類の文化の一つとして享受しよう」などと思うのではなく、一人の人間がいかに苦しんでその作品を結晶したかを感じ取るべきなのだ。
彼らは生きて死んだ。そしてその成果として、永遠の作品が残る。それは無常ではない。常なるものだ。しかし、そういう常なるものが生まれた裏には、一人の人間の生と死がある。それを感じ取るべきなのだ。作品の背後にあるものとして。
モーツァルトや実朝の作品に触れると、たいていの人は「美しい作品だな」と感じるだけだ。しかし彼らは、美しいものを作るために、自分の人生を削り、自分の生命を削った。彼らの生と死の結晶として、美しい作品が残った。
そういう美しい作品を見たとき、人々は単に作品の美に感動するだけだ。しかし、その裏にあるものを、見失ってはならない。一つの作品に触れたとき、「昔の天才が作品を残してくれたんだな」と思うだけでなく、彼らがいかに生き、いかに死んだかを、感じ取るべきなのだ。
小林秀雄は、そういうことを理解した。青葉や石垣の光を見て、生の充実を知ったときに。そして、その生の充実を理解したのは、昔のなま女房の話を思い出したからだ。生の苦しみと悲しみを思い、死後の救済を願ったなま女房。そのことを思い出したときに、生とは何かということを、鮮やかに理解できた。
ひるがえって、たいていの人々は、生とは何かということを、ろくに理解できない。生と死というような事柄を考えることもなく、その日その日の現実生活のことばかりにとらわれているからだ。「今日は売上げを増やすためにどうしようか?」「今日の番組は何だっけ?」「ケータイの着信はどうかな?」……そんな日常的なことばかり考えている人々は、昔のなま女房ほどにも、生とは何かということを、ろくに理解できない。
──
以上で、小林が何を語ったか、理解できるだろう。
彼はとても大きなテーマについて語っているのだ。「生と死」「歴史」「美」というテーマについて。
そして、それについて語るには、論文の形で書くことはできない。その問題は、何らかの学術的な事実ではないからだ。むしろ、「心構え」とか「感じ方」とか「美的感覚」に関することだからだ。
小林の扱ったことは、「美的評論」の分野に含まれる。彼は文芸評論家であり、ときには音楽評論家であった。その枠内で、あれやこれやと考えた。そして、考えたことを、短い短文で書き留めた。
そこでは、とても大きな話題について、断片的なことが書かれてある。それは他人をねじ伏せるような論理的な論文ではなく、あくまで感想の形の文章だ。
とはいえ、そこには珠玉の美がある。その美を、感じ取れる人は感じ取れる。ただし、たいていの人は、その美を感じても、その趣旨は理解しにくい。というのは、「テーマが何であるか」ということすら、小林は示していないからだ。
小林の「無常という事」は、誰にもわかりやすいような文章ではない。しかし、それはそれで、仕方ない。その文章は、たいていの人にとっては、意味のないことだ。小林の考えていることを理解できるような、特別に感性の鋭い人だけを対象にして書かれた文章だからだ。
だから、その意味で、これを「高校の教科書」に掲載しないのは、妥当である。この文章は、大学院レベルの文章であって、高校生には理解できるはずがない。
ただし、理解できる人には、この文章ではとても大切なことが暗示されている、とわかる。
この文章は、何らかの事実を伝えようとしているのではない。むしろ、われわれの「心構え」「感じ方」について、「こうするべきだろう」という指針を示しているのだ。
その指針を、理解できる人は理解すればいいし、理解できない人は理解できなくていい。万人が理解するべきことだとは言えない。わかる人だけがわかればいいのだ。
それはいわば、モーツァルトの音楽に似ている。モーツァルトの音楽を聞いて、「美しい」「楽しい」「すばらしい」と感じる人は多い。あるいは、何も感じない人も多い。しかし、モーツァルトの音楽には、ある特別な悲しみがある。それはあまりにも透明で美しい悲しみだ。「つらくて苦しくて悲しい」という種類のものではなく、あまりにも美しいがゆえに涙が知らず知らずこぼれる、という種類の悲しみだ。黒雲と豪雨のような悲しみではなく、晴れ渡る青空のような悲しみだ。
そういうものを、理解できる人は理解すればいい。しかし、理解できない人も多いだろう。理解できない人に向かって「理解しろ」といっても、馬の耳に念仏にすぎないだろう。
だから、小林は、無駄なことを書かない。しょせんわかりもしない人に向かって、わかりやすく書くような愚はしない。わかる人にとってのみわかるような、純粋な書き方をする。
そういうふうにして、「無常という事」という文章はできた。
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[ 余談 ]
そのあとで、どこかの阿呆が、5500字(原稿用紙換算18枚)という大量の言葉を費やして、「わからない人にもわかるようにするための文章」を書く。まったく余計なことだが。……その余計な文章が、本項(このページ)だ。
【 追記 】
ネット上に、次の質問が見出された。
「常なるものとは何のことか?」
この質問に答えよう。
原文を見ればわかるように、次の文章がある。
「(現代人は)常なるものを見失った(からである。)」
ここでは、
「『常なるもの』とは何か?」
を質問すること自体がおかしい。それは誤読である。正しくは、
「『常なるものを見失った』とはどういうことか?」
と質問するべきなのだ。そうしてこそ初めて、質問として意味をもつ。
「『常なるもの』とは何か?」という質問は、それ自体が、意味をなさない。強いて言えば、「常なるもの」とは、字義通りであり、「永遠のもの」である。それ以上でもなければ、それ以下でもない。別の言葉に置き換えられるものではない。たとえば、「生」とか「死」とか「美」とかいうものを、わざわざ別の言葉に言い換えたわけではない。「常なるもの」とは、字義通り、「永遠のもの」である。
だから、「常なるものを見失った」とは、「永遠のものを見失った」ということであり、「非・永遠のものばかりにとらわれている」ということだ。つまり、「そのとき限りのものばかりにとらわれている」ということだ。
現代人は、目先の刹那的なことばかりにとらわれている。「お金を千円儲けるにはどうしたらいいか?」「お金を百円節約するにはどうしたらいいか?」というようなことばかりを。しかし、昔のなま女房は、そうではなかった。「今日どう過ごすということなどはどうでもいい、それよりは、死後の救済をお願いします」と願った。目先の刹那的なことではなく、「死後の救済」という永遠のことを願った。
ここでは、「永遠のこと」とは「死後の救済」である。ただし、それをもって「常なるものとは、死後の救済のことだな」と思うのでは、浅はかだ。小林が言いたいのは、「現代人は常なるものを見失った」ということではない。それは結論ではない。「常なるものを見失ったからである」と書いてあるように、それは理由である。
小林の言いたいことは、別にある。「常なるものを見失ったから、……である」というふうに。では、「……」に相当する結論は、何か?
それは、本項の解説を見ればわかる。つまり、原文の「テーマ」だ。
小林が語りたいのは、「常なるもの」ではない。「常ならぬもの」だ。つまり、「無常」だ。そして、それが何を意味するかは、本項の本文を読めばわかるはずだ。
だから、どうせ質問するのであれば、「常なるものとは何ですか?」と尋ねるかわりに、「常ならぬものとは何ですか?」と尋ねるべきだったのだ。そして、その質問をしたとき、「自分はこの原文を何も理解していなかった」ということに気づくはずだ。
(そして、そういう人のために、本項の解説がある。)
《 オマケ 》
ついでに一言。
「無常という事」は、現代でも教科書に掲載されることもあるようだ。そのこと自体は、必ずしも悪いとは言えない。わけがわからないままでも、名文というものに触れることは、それなりに価値がある。下らない駄文に触れるよりも、ずっといい。
ただ、高校生が読むときは、「なんとなく、文学的な薫りがある」と理解するだけでいい。細かいことまで意味を理解しようとしなくていい。むしろ、細かいことまで意味を理解しようとすれば、本当はわかっていないくせに、わかったつもりになってしまう。それは一番危険だ。
「無常という事」は、難解である。たぶん、高校教師もまた、真意を理解していないはずだ。理解していないくせに教える、というのもおかしなことだ。
高校生は、「無常という事」を読んでも、理解しようと思わない方がいい。単にその文学的な薫りを感じ取るだけでいい。そして、それから何十年かたって、いろいろと人生を経験したあとで、「ああ、そういうものがあったな」と思い出しながら、本項を読み直せばいい。そのときようやく、「そうか、あれはこういうことだったのか」と氷解するかもしれない。
ただし、そこで氷解して理解したことは、「意味」ではないはずだ。そして、そのとき初めて、「無常という事」に書かれてあることは、ただの「意味」を越えたものだ、ということを、感じ取れるだろう。
そのときまた、
「××とは何のことですか?」
というふうに言葉の意味を尋ねることの無意味さも、理解するだろう。
モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)
タイムスタンプは上記 ↑
はっきり言って難しすぎましたが、これを読んで自分自身で「生と死」を見つめることができました。
小林秀雄さんの文章は、よくわからないけど好きです。
教科書で読んだだけですが、きちんと書籍で購入したいと思ってます!
なお、本文の最後を読めば、解答がわかるかもしれません。
そういったことから「無常ということ」は、意味を越えたというよりも、美なるもののみを有し、そもそも意味を有さないものだと考えます。
これを読んで、確かに美しい、とは感じました。その点では、他の文筆家には出せない素晴らしさがあります。が、とても空虚、そして言い切るのも心苦しいですが、間違った思想が語られている点もあり、名文であり、かつ悪文だとも感じます。
ただ私には、読み直し、考え直してみるうちに、美的要素よりも悪文的要素が鼻につき、「無常ということ」があまり良いものだとは思えません。
僕は、「生きている人間とは人間になりつつある一種の動物かな」の件が一番印象に残っています。この部分に触れられていない(見落しかもしれませんが)のが残念でした。
過去の人間はどうしてあれほど生き生きとしているのだろう。すでに死んだ人間の方が 生身の人間よりもいっそう生き生きとしているのは不思議なことだ……という見解(★)を、逆方向から言っただけです。
生きた人間は生きているし、死んだ人間は死んでいる、という当然の常識を越えた真実を探そうとしているのです。常識的な見解しか理解できないような頭の固い人には、「美的要素よりも悪文的要素が鼻につく」だけでしょうが、頭の柔らかな人には、常識を越えた真実を探ろうとする感覚が理解できるでしょう。
★ この見解は、モーツァルトや実朝の作品を知って、そこに作者の精神をありありと感じたからです。身近にいる現実の人間よりも、モーツァルトや実朝の精神の方がはるかに切実なものとして感じられたからです。モーツァルトや実朝は溌剌として感じられるのに、そこいらのあんちゃんの精神など半ば死んだようにしか感じられない、ということです。
またお話楽しみに致しております。
今、考えはじめた所です。
四半世紀前生徒の時筑摩の教科書で見かけたが
授業では扱われませんでした。
この作品は太平洋戦争開戦のすこし後、
四十歳の筆者が文芸誌に発表したものです。
山月記も同年に書かれているとは感慨深いものが
ありますが、
筆者は自分の死をどのくらい間近に意識していたのか、そこが気になるところです。
鎌倉時代のおそらく十代の女性が恋愛に血道を
あげるより来世(次のステージ)のことを思って
必死に仏にすがるというのは、どういうことなのだ、時代がつらいのか、彼女がつらいのか
小林氏同様、考えがはっきりしないまま
授業に突入の予定です。
http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-11846302398.html
に書いてみました。ご意見が聞けるとありがたいです。
私にはまだまだ難解な文章ですが、テーマが分かっただけで随分と読みやすくなりました。一貫性のある文章構造に気づけただけでも満足です。
原文で、「一言芳談抄(ここでは、なま女房)の文章が突然、絵巻物や古びた絵のように思い出される。」とあるのですが、なぜ絵巻物のような例えを出したのかが気になります。
哲学って何…妻曰く…人生や。翌日又聞いたら…人間学や。こんな会話を、一杯飲み屋で詩吟仲間に、しゃべったら、小林秀雄の名前が出た。自宅で、検索したら、生と死 が出てきた。大学院生が読んだらわかるが、高校生は、理解困難だろう…と。しかし読んですぐ、文章と解説をコピーした。感動した
しかし、テーマはわかりやすいが、小林の文章がわかりにくい。川端康成と親交があったという事からも想像できるが、美学に首を突っ込んだ人物の文章というのは、どうしても分かりにくくなります。言葉で説明できないものを、言葉で説明しようとするからですね。
授業で何回読んでも難しかったのですが、何か心惹かれるものがありちゃんと理解したいと思って調べていたところこちらに辿り着きました。
本当にわかりやすかったです。感動しました。
そして少しですが「無常ということ」の深さがわかった気がします。でも大人になってからもう一度ちゃんと読みたいと思います。
こちらの解説を読んで「無常ということ」の深みが好きになりました。ありがとうございました