◆ 罰としてのボランティア:  nando ブログ

2008年12月30日

◆ 罰としてのボランティア

 罰としてのボランティアを刑事犯罪者に施そう、という制度が導入されるらしい。しかしこれは、物事の本質を誤るもので、非常に有害である。

 ──

 刑事犯罪者に、(懲役のような)刑罰でなく、社会奉仕を施そう、という制度が導入されるそうだ。記事を一部抜粋しよう。
 犯罪者を刑務所に入れずに街で清掃などをさせる「社会奉仕命令」と、刑期の途中で刑務所から釈放して社会のなかで更生させる「一部執行猶予」の制度が、日本で初めて導入される見通しとなった。
 受刑者の再犯防止と社会復帰を効果的に進めながら、刑務所の「過剰収容」も解消する狙い。硬直化していると言われてきた日本の犯罪者の処遇政策を多様化させる転換点になりそうだ。 
 「社会奉仕命令」は一部の先進国ですでに導入されている。刑罰の一種とする国もあるが、法制審はドイツに近い「保護観察の条件」と位置づける方向。保護観察付きの執行猶予判決を受けた被告や仮釈放で保護観察となった受刑者から、奉仕活動で立ち直るきっかけがつかめそうな若年層を中心に選ぶことになりそうだ。
 具体的な奉仕の内容は、老人ホームでのボランティア活動や街中での清掃作業を想定している。
( → 朝日新聞 2008-12-30


 ──

 このような方針には、次のような反対意見が来るものだ。
 「ボランティア(自発活動)を、義務づけるというのは、言葉が矛盾している」
 つまり、「自発性」と「強制性」との矛盾だ。言語矛盾。……ただ、その矛盾を避けるために、「社会奉仕」という言葉を使えば、言語矛盾は避けられる。
 とはいえ、たとえ言語矛盾は避けられても、ここでは物事が本質的に矛盾しているのだ。そのせいで、ボランティアというものが歪んでしまう結果になる。

 ──
※1

 そもそも、このような発想をすること自体が、根本的におかしい。
 「罰としてボランティアをやらせる」
 という発想は変だ。なぜか? ボランティアというのは、「つらくて苦しいこと」ではなくて、「楽しいこと」「充実感を得ること」であるはずだからだ。
 実際、ボランティアをした人ならば、その充実感をありありと感じているはずだ。困っている人のために奉仕して、「ありがとう」と感謝される。その実感は、はっきりとわかるはずだ。

 似たことに、「小さな親切」というのもある。たとえば、
  ・ 電車で席を譲ること。
  ・ 階段で重い荷物を持つ老人を助けてあげること。
  ・ 道に迷っている人に道を教えてあげること。
  ・ お金を落として帰れなくなった子供に切符を買ってあげること。

 こういうことをすれば、自分が良いことをしたという充実感を得ることができるはずだ。たとえ相手がぺこぺことお礼を言わなくても、ちょっと微笑してくれただけで、「いいことをしたな」と嬉しい気持ちになれるはずだ。
 他人のために働くというのは、こういう充実感をもたらす。

 ──

 その一方、自分の利益のために働くのは、どうか? 「自分の利益のために働けば、社会は改善する」と古典派経済学者は言う。しかし、次のことはどうか?
 「マネー・ゲームで、他人の富をかすめとって、自分ばかりが1億円を稼ぐ。会社に 20億円の利益をもたらし、他人に 20億円の損をさせ、あちこちの会社を破綻させるが、自分だけは歩合給として1億円を稼ぐ」
 こういうことをする連中は、たくさんいる。彼らはどんどん金を稼ぐが、いくら稼いでも、自分のエゴイズムが満たされるだけで、社会に損をもたらしているという後ろめたさを免れない。だから彼らは誰一人として、「この仕事に充実感を感じる」とは思わない。彼らの誰もが「適当に稼いだあとは、一刻も早く足を洗って、バカンスを楽しみたい。昔の仕事を一切忘れてしまいたい」と願う。

 こういうふうに「自分の利益のために働く」ということをいくらやっても、ボランティアの反対である。つまり、充実感を得るかわりに、虚しくなり、良心の呵責に耐えかねてしまう。
 具体的に言えば、米国の金融バブルのときの金融業者だ。彼らはバブル期にさんざん甘い言葉を言って、大儲けした。しかし、そのせいで、現在では世界経済が破壊された。退職金をすべて失った年金生活者もいる。自己破産したサラリーマンもいる。もちろん、会社が倒産して失業した人々もいる。……それでも、バブル期に嘘をついて、金融商品をさんざん売りつけたペテン師のような業者だけは、ボロ儲けした。他者に莫大な損をさせ、世界経済を破壊して、それでも自分だけは大儲けした。悪魔のように。
 それが「自分の利益をめざして行動する」という意味だ。そのことは、やればやるほど儲かるが、やればやるほど虚しくなる。
 「自分の利益を増やすために行動すれば社会が良くなる」
 というようなことは成立しない。(それは泥棒の論理だ。合法的な泥棒。)
 なのに、自分の利益を増やそうとしてばかりいても、虚しくなるばかりなのだ。

 ──

 ここまで読めばわかるだろう。
 「自分の利益をめざすために働くのが、すばらしい」
 「他人の利益を増やすために働くのは、馬鹿らしい」
 というふうな、そういうエゴイスティックな発想は、人間性というものを根本的に誤解している。そういうのは、身勝手な泥棒の論理であり、悪魔の論理だ。
 人間の存在価値は、金で決まるのではない。社会における貢献度で決まる。他人の富を減らすという形で(泥棒のような真似をして)金ばかりをいくら増やしても、人間はちっとも幸福にはなれない。むしろ、困っている不幸な人々のために奉仕してこそ、社会に貢献することができて、自分という人間の社会的な存在価値が高まる。(それゆえ自分のなしたことに充実感を感じる。この世界に対して有益なことをなしたという喜びを得られる。)
 これが物事の真実であるはずだ。

※2
 ──

 「罰としてボランティアをやらせる」という発想をする人は、ボランティアというものを根本的に間違えている。
 比喩的に言うと、「結婚は市民の義務だから、強制的に結婚させる」という発想に似ている。しかし、結婚は、「つらいけれども我慢してやるべきこと」ではないはずだ。「ときどきつらいこともあるが、それを補って余りある充実感を得られるから、結婚する」というのが本来の姿だ。そういう形で結婚するのでなくては、意味がない。
 ボランティアもまた同じ。ボランティアを「罰のかわりにやらせる」という発想は、ボランティアを「つらくて苦しいこと」と見なす発想だ。物事を根本的に勘違いしている。

 ──

 なお、以上の見解には、次の反論が来るはずだ。
 「ボランティアをやらせるのは、罰のかわりではなく、教育の一環だ」
 しかし、このような主張は、成立しない。この件は、「教育としてのボランティア」について述べた項目を参照。下記。
  → 泉の波立ち(2004年12月24日)
 ここでは、教育の場では、ボランティアを強制してはならない、と述べている。かわりに、次のことを提案している。
 生徒を奉仕活動の場に置く。ただし、その場にいることは義務づけるが、その場で奉仕活動をするかどうかは、自発意思に任せる。何もしないでただ立っているだけでもよい。
( ※ もっと詳しい話は、リンク先を参照。)
 とにかく、教育としてのボランティアでは、強制はあってはならない。やってもいいし、やらなくてもいい。また、「評価する」ということもあってはならない。最初から最後まで自発性に任せるべきなのだ。(そういう教育をする。)
 なぜ評価しないのか? それは、次のことによる。
 「ボランティアは、自分のためにするものではない」

 ここが根本的に重要なことだ。老人への介護であれ、街中の清掃であれ、それは、自分の利益のためにするのではなく、他人の利益のためになす。それがボランティアだ。
 一方、自分の利益のためにやるのであれば、それは「利益を目的とする労働」であるにすぎない。老人への介護であれ、街中の清掃であれ、賃金をもらうことを目的としてなすのであれば、それは、労働だ。
 また、犯罪者が刑罰のかわりに、老人への介護や、街中の清掃をするのであれば、それもまた、「自分の利益のため」(刑罰を減らすため)であるにすぎない。これでは全然、ボランティアになっていない。

 ──

 それでも、次の効果はあるだろう。
 「労働という形で、老人への介護や、街中の清掃をやらせる」

 そういうことは、あってもいい。その効果までを、否定するつもりはない。
 ただしそれを「社会奉仕」「ボランティア」と呼ぶのは、とんでもない間違いだ。あくまで「労働」「懲役」と見なすべきだ。なぜなら、当の犯罪者は、そのことによって利益(刑罰の免除)を受けるからだ。自分の利益を目的とする行為を、「社会奉仕」「ボランティア」と呼ぶのは、とんでもないことだ。
 こんなことを「社会奉仕」「ボランティア」と呼ぶとしたら、介護労働者や、清掃業者は、みんな「ボランティア」と呼ばれてしまうことになる。馬鹿馬鹿しい。

 ──

 要するに、こういう馬鹿げた混同をなすのは、政策担当者が「ボランティアとは何か?」ということを、根本的に誤解している(理解していない)からだ。
 私が思うに、こういう人々(政策担当者)は、ボランティアの経験がまったくないのだと思う。だから、勘違いしているのだ。
 とすれば、犯罪者にボランティアをやらせるよりは、こういう勘違いした連中に、ボランティアを(自発的に)やってもらう方がいい。そのことで、彼らも「ボランティアとは何か」を理解するようになるだろう。 

 ボランティアとは何か? それは、先に述べたとおりだ。つまり、「自分では犠牲を払うが、多くの人々のために奉仕することで、充実感を得る」ということだ。
 一方、「自分の利益を増すことだけが大切だ」とだけ考えて、「他人の利益のために働く」という発想が根本的に欠落しているような、エゴイストの連中もいる。そういう連中が物事を考えると、「罰としてのボランティア」という発想が生じる。
 
 ──

 こういうふうに「罰としてのボランティア」という発想を社会にひろげることは、著しく有害である。そういう発想がひろがると、「ボランティアというのはつらくて損をするばかりだ」というふうに見なされるようになり、「他人のために働いて充実する」ということが見失われてしまう。
 つまり、「罰としてのボランティア」という発想のせいで、囚人は更生するかもしれないが、その反面、社会全体にボランティアへの誤解を広げてしまう。

 具体的に言おう。公園でゴミ拾いをしたり、駅前で清掃したり、というふうにボランティアをやる人がいる。そういう人を見ると、どう思うか? 
 現状では、「ご苦労様」「ありがとう」と思いながら、「頭を下げたい」という気分になるのが普通だろう。
 しかし、「罰としてのボランティア」という発想がひろがると、「あいつはきっと悪いことをしたんだな。だから、つらいことを無理やりやらされているんだな」と軽蔑するようになる。
 つまり、ボランティアの価値が、正反対になる。「気高い人のやる尊いこと」から「下賤な連中のやる罰」になってしまう。社会におけるボランティアの価値が、正反対になってしまう。
 このような有害な効果があるのだ。社会的に。(そのせいで誰もボランティアをやりたがらなくなる。あえて罰をやる人はいないだろう。マゾヒストは別だが。)

 ──

 なるほど、
 「犯罪者の更生のため」
 という意識は、あってもいい。しかしそれは、「刑罰のかわり」であってはならないのだ。
 禁固刑の連中が、禁固の時間のかわりに、ボランティアをやらせてもらえる、ということならば、あってもいい。しかしそれは、「ボランティアというすばらしいことをやらせて上げる」という、お恵みの形で与えるべきだ。「牢屋に閉じこもっているよりは、ボランティアで人に喜ばれる方が、百万倍もすばらしい」ということを体験させるために、やらせてあげるべきだ。
 そして、それは「強制」であってはならず、あくまで「恩恵」の形で施すべきだ。従って、「志願制」が原則となる。「ボランティアをやらせてください、お願いします」と望んだ囚人に対してのみ、「そうか、それじゃ、おまえには特別にやらせてやるぞ、ご褒美として」というふうにするべきだ。……これこそが、教育的効果というものだ。

 ──

 「罰としてのボランティアを」ないし「罰のかわりのボランティアを」
 というような発想をする連中は、根本的に狂っている。こういう連中には、ボランティアを強制的にやらせるべきだ……と主張すると、(私の)自己矛盾になってしまいますね。  (^^);
 はっきり言おう。こういう連中には、ボランティアをする資格はない。ボランティアというのは、高貴なことであるのだが、そういう高貴なことをする資格がないのだ。こういう卑しい連中には。
 では、こういう連中は、どうすればいいか? 「ボランティア教育」を施すといいだろう。そして、「ボランティア教育」の要点は、「決して利益を与えないこと」「あくまで自発性に任せること」だ。……このことは、先のリンク先の記述からもわかる。(つまり、「その場で奉仕活動をするかどうかは、自発意思に任せる。何もしないでただ立っているだけでもよい。」ということ。)

 「ボランティア」という言葉は、決してただの言葉の事柄ではない。そこでは「自発性」というものが、本質的に重要なのだ。
 社会奉仕活動を、「労働」ないし「作業」という面だけから見て、「自発性」という精神面をないがしろにするようでは、物事の本質を見誤ることになる。そして、そういう方針は、社会制度を歪めて、社会に有害な毒を振りまくことになる。

( もしかしたらそのせいで、そのうち誰もがボランティアを嫌がるようになるかもしれない。「おれは犯罪者でもないのに、どうしてボランティアをしなくちゃいけないんだ」というふうに思う若者が、どんどん増えていくだろう。)



 [ 付記1 ]
 記事との関連で言おう。記事には、「社会奉仕命令」という言葉がある。ここには「命令」という形の強制性がある。ゆえに、これは駄目だ。
 また、「保護観察の条件」とという言葉もある。これも、「条件」という形の強制性がある。ゆえに、これも駄目だ。
 この二つはいずれも、「強制性」がある。だから、「自発性」が欠落している。このような方針は根本的に駄目だ。
 どうしても強制性をもたせたければ、「ボランティアの場に来ること」だけを強制すればいい。そこから先の行動は、あくまで自発性に任せる必要がある。さもなければ、「要領よく刑罰を逃れようとする悪ガキ」ばかりを増やす結果になるだろう。善人を育てるよりは、ずる賢い悪党を育てる結果になる。
( ※ 強制的に社会奉仕をさせられた犯罪者は、何を考えるか? 「いかにしてサボるか」ということばかりを考えるようになる。これでは、逆効果だろう。社会に出てからも、「いかに労働をサボるか」ということを考えるようになるだろう。)

 [ 付記2 ]
 ついでに一言。はっきり言って、ボランティアをしないことで損をするのは、本人自身なのである。
 第1に、人間が卑しくなる。「自分の利益だけが大切だ」と思うようになって、卑しい人間になる。そのせいで、まわりの人々から軽蔑されるようになる。
 第2に、そのせいで、犯罪をやらかしたり、犯罪まがいのことをやらかすようになる。……そういうふうに、自分が損をするばかりなのだ。
 たとえば、2ちゃんねるで他人を攻撃してばかりいるような連中がいる。「おまえはトンデモだ! このバカ野郎!」と怒鳴り散らすような連中がいる。……そういう連中は、自分がどんどん下品になるばかりで、自分がどんどん損をするばかりなのだ。そのうち誰からも相手にされなくなるだろう。
 「他人のために奉仕しよう」と思わない人間は、かえって損をするばかり。昔の人は、いいことを言った。「情けは人のためならず」と。その言葉を理解することから始めた方がいいですね。政策担当者は。

 [ 付記3 ]
 余談だが、「クリスマス・キャロル」という物語がある。「金儲けのことしか考えない守銭奴の中年男が、クリスマスを機に、おのれの人生を反省する」という趣旨の物語。
 子供向けの童話みたいなものだと思っていたのだが、あにはからんや、これを読んで学んだ方がいい大人が、とても多いようだ。
 「人生に大切なのは金儲けだけです」
 「自分さえ儲ければよく、他人のことなんか知ったこっちゃない」
 こういう大人が多すぎる。「クリスマス・キャロル」を読んだ方がいいだろう。彼らは子供レベルの「優しさ」さえない。人間としての欠陥品。子供に戻って、人生をやり直した方がいい。
 それにしても、こういう連中が他人に「ボランティアを」と勧めるというのだから、ちゃんちゃらおかしい。おかしくて、ヘソが茶を沸かす。(省エネ?  (^^); )

 [ 付記4 ]
 本文中では、「罰としてのボランティアを」という方針を取る連中に対して、
 「こういう連中には、ボランティアを強制的にやらせるべきだ」
 と冗談っぽく語ってから、それを否定した。
 しかし、改めて考えると、それもいいかもしれない。こういうバカ連中に、ボランティアを強制的にやらせるといい。
 ただし、目的は違う。彼らにやらせるとしたら、その目的は、
 「ボランティアの有意義さを教えるため」

 ではなくて、
 「強制されたボランティアの虚しさを教えるため」

 である。
 具体的に言おう。たとえば、公園の公衆便所の掃除を強制する。クソまみれにしてやる。
 そうしたら、彼らは、どうなるだろうか? 次の三つが考えられる。
  1. 「ボランティアはすばらしい」と実感する。以後も自発的に行なう。(キリストみたいな聖人になる。右手をぶたれたら左手をぶたれたがる。)
  2. 「ボランティアを強制することを主張した自分はバカだった」と反省しする。(独りよがりな尊大な人間から、他人の意見を聞く謙虚な人間へと、更生する。)
  3. 「ボランティアなんか、まっぴらだ。もう二度とボランティアなんかするものか」と思う。(= 逆効果)
 どうなるかと言えば、3番目になるに決まっている。しかし、彼らは「教育効果がある」と信じて、1番目や2番目を主張する。
 そういうバカ連中に、自己の誤りを教えるには、
 「それなら、おまえがやって見ろ。ボランティアを強制されて、どういう思いになるか、実感してみろ!」
 と告げて、やらせてみるのがいいだろう。そのとき初めて、彼らは真実に気づくはずだ。



 【 関連項目 】
  → 泉の波立ち(2004年12月24日)
     ( ※ 本文中にあるリンクと同じ。)
 
posted by 管理人 at 19:35 | Comment(6) | 一般 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
どこかの教育に携わる方が、
「喜んでやるべきことを罰として行わせるのは最悪だ」
という趣旨のことを言っておられたのを思い出しました。
Posted by けろ at 2008年12月30日 21:15
なるほど。示唆に富む言葉ですね。
たしかに、「罰としての教育」なんてのがあったら、日本は滅茶苦茶になりそうです。誰もが教育を受けたがらなくなる。  (^^);
Posted by 管理人 at 2008年12月30日 21:36
(ピンクの文字で印をつけた)
※1 から ※2 まで
を加筆しました。

タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2008年12月31日 18:49
 最後に [ 付記3 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2009年01月01日 11:47
 最後に [ 付記4 ] を加筆しました。
 タイムスタンプは上記 ↑
Posted by 管理人 at 2009年01月02日 00:15
刑のかわりに清掃を、という安直な思考に憤りを感じました。
私は清掃業者。清掃をして、報酬を得ています。
罰則のかわりにやられたのでは……私の同業者、犯罪者と同列ですか?ということになります。
もしも罰則として清掃させる制度を導入するのなら、一目見て『コイツ犯罪者!』とわかるとうにしていただかないと、職業としてやってる人に迷惑がかかるということを認識してほしいものです。
Posted by 清掃作業員 at 2015年01月13日 02:32
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