◆ 封建制とは(歴史学):  nando ブログ

2009年04月22日

◆ 封建制とは(歴史学)

 前項の関連。
 封建制とはどういうものか、その本質を示す。歴史用語の解説。
( ※ ただし、既存の説の紹介ではなく、その本質を私なりに示す。)

 ──

 封建制について、普通の概説は、Wikipedia にある。大したことは書いてない。ただ、次の点が重要だ。(引用)
 西洋の史観では、封建制とは、国王・領主・家臣の間の緩い主従関係のこと。
 マルクス史観では、封建制とは、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のこと。


 この二点は、まったく別々のことである。なのにどうしてその両者が「封建制」という一つの言葉で呼ばれるのか? 単に、西洋史観とマルクス史観とが、同じ言葉に別の意味をつけるということか? いや、違う。

 実は、この両者は、たがいに密接に関連しているのだ。次のように。
 「封建制」の基本は、富裕層が一般国民から収奪することである。つまり、一般国民を奴隷化することである。奴隷化した国民は、農奴と呼ばれる状態にある。
 ただし、一握りの富裕層が国全体を統治しようとすると、一般国民の反逆が起こりやすい。つまり、革命が起こりやすい。
 そこで、反逆を抑止するシステムが必要となる。そのシステムは、警察ではない。なぜなら、警察にすれば、警察そのものが反逆しかねないからだ。
 そこで、国王・領主富裕層は、一般国民を統治するために、富の一部を分け与えて弱い富裕層とも言うべきものを作る。それが「家臣」である。国王・領主は、「家臣」を「収奪する側」に組み込むことによって、「収奪される側」を統治する役割を委ねる。そして、その場合、「家臣」は、民衆を実力で統治するために、武装する必要がある。これが、西洋では「騎士」と呼ばれ、日本では「武士」と呼ばれた。
 ただし、「騎士」や「武士」は、いくらかの富を与えられているとはいえ、多量の富を与えられていない。したがって、いつ国王・領主に反逆するかもしれない。そういう潜在的な危険を常に有する。それを国王・領主は常に感じている。そこで、国王・領主は、「騎士」や「武士」に対して、「忠誠」を第一義として要求する。……こうして、封建制における倫理観が確立する。
( ※ ただし西欧では、内面的な「忠誠心」だけでは不足なので、明文化した「契約」も重要であった。はっきりと契約で縛るわけだ。)
 
 結局、封建制というのは、富の収奪システムを確立するための、一種のピラミッド構造なのである。頂点の一部が全体を支配することはできないから、自らの権益と役割の一部を委ねて、「騎士」や「武士」を形成する。……ここでは、「騎士」や「武士」の存在と、富の収奪とは、一体化している。
 こうして、西洋の史観と、マルクス史観とは、一体化する。

 以上が、私の解釈だ。(封建制について。)



 [ 付記1 ]
 「ブルジョワジー」(都市の裕福な商工業者)は、収奪する側でもなく、収奪される側でもない。これは、封建制の外にある。(農業経済の外にあるから、土地を媒介とした収奪システムの外にある。)
 このような階層が拡大するにともなって、封建制は崩れていき、資本主義社会が形成されていく。それが歴史。

 歴史をちゃんと勉強しておくと、物事の本質を理解できる。歴史をちゃんと勉強できないと、「テロとの戦い」を叫んで、国家に莫大な損害をもたらすブッシュみたいになる。学校の落第生ほど、「テロとの戦い」を叫ぶ。(自民党にはそういう劣等生が多い。ナベツネもそうだな。)
 経済学だけ理解しておけばいいわけじゃない。政治を考えるには、歴史を学ぶことが必須だ。

 [ 付記2 ]
 あとで思ったのだが、本項の「収奪」という概念は、マルクスの「搾取」という概念に似ている。(「搾取」というのは「資本家が労働者の富を奪うこと」だが。)
 こうしてみると、マルクスの「資本論」というのは、かなり本質を突いた認識をなしていたことになる。彼はものすごく頭が良かったと思う。今にして考え直せば。
 マルクスの「資本論」というのは、ものすごく長たらしくて、いちいち読むのは大変なのだが、単に「富の収奪が歴史では重要であった」という一文だけで理解すれば、非常に重要な認識方法を示していたことになる。
 その点、「主従関係」なんてものを封建制の基本原理としてとらえる通常の史観は、全然物足りないと言えるだろう。「主従関係」が封建制の原理だとしたら、会社の上司・部下関係だって封建制だし、私と女房の関係だって封建制だ。(私が家臣で、女房が主人だ。  (^^); )
 社会構造の基盤には経済構造がある、と喝破したマルクスの認識は、非常に正しい。「主従関係」なんて、原理ではなく、副次的なものなのだ。基盤ないし原理としてあるのは、富の収奪なのだ。

 [ 参考 ]
 ついでに、封建制一般について。参考となるサイトがあるので、次の記述を引用しよう。
 諸侯・騎士は封土として与えられた土地を所領として支配する領主として、そこに住む農民を支配するようになった。彼らが領主として支配した土地は荘園と呼ばれた。
 荘園内の農民の大多数は農奴と呼ばれる不自由な隷農であった。農奴は移転の自由がなく、生涯その土地に縛り付けられ、職業選択の自由もなかった。また領主裁判権に服さねばならないなど様々な身分的な束縛を受けた。しかし、奴隷とは違って、家族を持つことが出来、住居や農具などの所有は認められていた。
( → 西ヨーロッパ封建社会の発展
 また、次のサイトにも、概説がある。
  → エンカルタ 「封建制」



 [ 補足1 ]
 「封建制」のに「絶対王制」が来る。では、「絶対王制」とは? 私としては次のように考える。
 封建制も絶対王制も、ともに富の収奪システムである。
 ただし、絶対王制の方では、国家体制がいっそう近代化している。富の収奪という原理はそのままに、収奪のシステムだけが近代化する。そのせいで、収奪はいっそう激化する。一人の王ばかりが絶対的に収奪し、末端の収奪システムとしての家臣はもはや王のための道具にすぎなくなっている。
 つまり、封建制と絶対王制の差は、家臣の差だ。家臣は、封建制では収奪システムの一部として有利な位置にあったが、絶対王制においてはただの警官や兵士みたいな公務員ふうに存在になってしまった。収奪する側ではなくて、収奪される側の管理職みたいになってしまった。そのことで、王は家臣の富をも奪い、収奪構造をいっそう高め、王の収奪力は激増した。
 これが絶対王制だ。そこには近代化が半分だけなされつつある。(システムだけの近代化。)
 このようにシステム(だけ)が近代化したことは、次の時代の準備となった。次の時代では、システムは近代化されたまま、原理だけを、富の収奪から富の分配へと変更した。そのような近代化された社会が、資本主義または社会主義だ。

( ※ ただし社会主義の場合、皮肉な結果になった。富の分配だけに目をとらわれて、富の総量には目を配らなかったせいだ。結果的に、いくら配分は平等でも、ともに貧しくなるというシステムになってしまった。その例は現代でもキューバに典型的に見られる。)
 
 [ 補足2 ] 
 「封建制」のには、何があったか? それは、どんな制度か?
 実は、封建制の前にあったのは、どんな制度でもない。そこには「制度」がなかったのだ。一種の無秩序状態である。正確に言えば、「領主の乱立」だ。そこには国全体を統率する「王」ないし「政府」が欠けている。

 その典型はイギリスに見られる(かもしれない)。
 ウィリアム征服王以前のイギリスは、領主が乱立していた。ウィリアム征服王がイングランドを支配することで、自らが王となり、封建制を確立した。しかけた。(この時点ではまだ封建制は十分に確立していなかった。封建制が十分に確立するには、そのあとさらに長い時間を要した。)
 封建制の確立する以前は、暗黒時代とも言われる。そこでは法の支配は十分になく、単純に暴力の支配する時代だった。人々は城壁のなかで暮らす。ときどき城を襲う強盗集団みたいなのが来ると、城壁のなかに隠れる。……こういう事情は、「大聖堂」という小説に詳しい。
( ※ これは、ウィリアム征服王が国家支配権を確立した後の話だ。その時点ではまだ封建制は十分に確立していなかったことになる。つまり、まだまだ地方は無秩序状態に近い状態が続いていたことになる。)

( ※ ただし、こういう「暗黒の中世」という史観は、近年ではくつがえされつつある。従来言われてきたほど 悪くはなかったらしい。)
( ※ 面白い話。当時のイギリスは、個人の家がなくて、みんなで雑魚寝していたらしい。夫婦の営みも、みんながいるときに、暗い闇のなかで。……ホントかね? 昔の感覚ではそれが当然なのかもしれないが。ま、見えなければ、恥ずかしくない? 誰がしているかもわからないし。)
 
 コメント欄で指摘を受けたが、ウィリアム征服王以前にもそれなりの統一王制が確立していたという。なるほど、その通り。してみると、「その典型はイギリスに見られる」という表現は、不適切だったかもしれない。
 考えてみれば、何かをきっかけに歴史的な制度が急に確立するはずがなく、逐次的に少しずつ変化していくだけだ。だから、あまり図式的な理解にこだわらない方がいいだろう。
 本項ではあくまで、おおまかな基本図式だけを提出した、と理解してほしい。実際に適用すると話はそんなに簡単ではない、ということは多々ある。
 

 [ 補足3 ]
 「領主の乱立する時代」というのは、過渡期とも見なせる。中世の暴力的な暗黒時代と、国王の存在する封建制の間に、「領主だけの封建制」とも言うべき時期があった。それは封建制への過渡期である。
 そこでは、「騎士」「兵士」という階級は、まだ確立していなかったようだ。対外的な戦争の際には、農民が一時的に徴発されて兵士になる、という形だったらしい。それでも、対内的には、農民を統率する領主一族の武器支配があったようだ。その意味でいくらか封建制らしさがある。
 このような過渡的な家庭は、イギリスにも日本にも見られるようだが、それぞれの国ごとに事情の差があるようだ。

 [ 補足4 ]
 特に日本では、「封建制」や「過渡的な時期」のは、事情がかなり異なる。
 日本では、鎌倉幕府が封建制だが、その成立前はけっこう複雑である。一筋縄には行かない。
 鎌倉時代の直前には、平家があったし、「過渡的な時期」とも言える。だが、平安時代には、天皇制と貴族社会があった。奈良時代もそうだった。そこでは無政府状態というわけではなかったし、「富の収奪」もなかった。仁徳天皇みたいな支配者は、「富の収奪」とは逆のことをした。
 となると、日本では「封建制」以前に「近代的な国家」があった、とさえ言えそうだ。一種の逆転。(歴史用語では律令制)
 日本という国は、世界の歴史とは、かなり異なる。比較的早く「国家統一」がなされていたし、富の収奪とは別の原理で歴史が推移した。(特に 12世紀以前。)聖徳太子は「和をもって尊しとなす」という方針を取った。
 昔の日本人は、ずいぶん立派だったんですね。現代のパキスタンやアフリカの人々よりも、はるかに賢明だったことになる。

( ※ 実を言うと、日本だけでなく、中国や他の東アジアでも、「律令制」が 10世紀以前に成立していた。欧州よりもずっとまとも。)
( ※ 進化論的に言えば、不思議ではないかも。 → 人種の進化
( ※ ただし、ダーウィン進化論を取る限り、日本のような国は駄目国家となる。なにしろダーウィン進化論では、「利己主義こそ進化の源泉」であるから、パキスタンみたいにエゴイズムのかたまりの連中こそ最も進化した人々であり、「和をもって尊しとなす」という日本人はエゴイズムに反するから最も不利で馬鹿な連中だ、ということになる。……利己主義にとらわれて、利全主義を知らないと、こういう馬鹿げた結論を出すようになる。)

 

posted by 管理人 at 18:28 | Comment(16) | 歴史 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
『富裕層が一般国民から収奪すること』が封建制であるならば、ここ数年に亘る政府の政策は「封建制への回帰」と言えるのではないでしょうか。
「冨の分配」から「富の収奪」へ移行しているような気がします。
Posted by けろ at 2009年04月23日 09:46
西洋でも帝国ローマは最盛期まで、比較的近代的な国家機能があったのではないでしょうか?
歴代のローマ皇帝は帝国内の"食と安全"を維持することが最重要な任務と心得ていて、どんなにできの悪い人でも必ず居心地のいい首都を出て、軍を率いて帝国の防衛線(ライン川やドナウ川、ユーフラテス川)で戦うことが多かったみたいですし
また、帝国内に住む人々はローマ街道を通って、広大な帝国をあちこち旅行することが多かったそうです
Posted by TRIPLE at 2009年04月23日 16:43
ローマ帝国は奴隷制国家ですよ。パキスタンよりももっとひどくて、昔のアメリカの黒人奴隷制みたいだった。もうちょっと前の「イギリスからの犯罪者を奴隷として使う」というのに似ている。
「奴隷の供給源は・・・」という話は、歴史の本に書いてあります。
ま、ローマ市民だけに限れば、結構近代的だったかも。パキスタンよりはマシですね。その意味で、ご指摘はいくらか正鵠を射ているかも。ゲルマン民族とラテン民族は区別して考えた方がいいかも。
Posted by 管理人 at 2009年04月23日 19:16
日本人の生活を規定するものに、仏教、神道以外に儒教的な物の考え方があると思いますが、現代の日本人にとって儒教の功罪はどうなんだろう。
封建制社会を維持するための最も利用された思想と思いますが。
Posted by lapis at 2009年05月22日 13:15
儒教の場合、為政者は民有のための政治を行うことになっていますね。
思うに、この考え方は欧米の民主主義にはないのではないでしょうか。

現在の民主主義の考え方では最大派閥の意見が通りやすくなっていますが、最大派閥の利益が国民全体の利益と常にイコールで結ばれるとは限りません。
たとえば、内部に民族問題等の深刻な対立がある場合には最大派閥の意見が通りやすい状況はかえって対立が激化しかねないと考えています。

たしかに、儒教(とくに朱子学)は身分制度を肯定したりと民主主義的ではないのですが、評価できる部分はあると思います。
むしろ、民主主義的思想の産物である共産主義が全体主義と結びつきやすいことが気になりますね。
封建制度では政治思想は為政者だけのものだったのが、民主主義では国民全体のものになり、共産主義ではその建前を全国民に強制するわけでしょうか?
Posted by 花のヤン at 2009年06月28日 11:06
訂正です。

誤)儒教の場合、為政者は民有のための政治を行うことになっていますね。
   ↓
正)儒教の場合、為政者は民衆のための政治を行うことになっていますね。
Posted by 花のヤン at 2009年06月28日 11:10
「封建制」とは本質的に何なのか、と考えてる中、こちらに辿り着きました。「武力を背景とした富の収奪システム」という経済面からの見解に、目から鱗でした。どうもありがとうございます。
他方で、経済面(富の配分)から見て、日本の「律令制」と「封建制」に本質的な違いはあったと思われますか?
政治システム的には、律令制→文民統治(シビリアンコントロール)、封建制→武力層による統治、だと思うのですが、経済システム(富の配分)だと本質的に同じ(誰が潤うかの違いだけ)かと感じたのですが・・・。
ご見解いただければ嬉しく思います。
Posted by miihama at 2011年01月27日 13:41

>「封建制」の前には、何があったか? それは、どんな制度か?
>実は、封建制の前にあったのは、どんな制度でもない。そこには「制度」がなかったのだ。一種の無秩序状態である。
>正確に言えば、「領主の乱立」だ。そこには国全体を統率する「王」ないし「政府」が欠けている。
>その典型はイギリスに見られる。ウィリアム征服王以前のイギリスは、領主が乱立していた。
>ウィリアム征服王がイングランドを支配することで、自らが王となり、封建制を確立した。
>封建制以前は、暗黒時代とも言われる。そこでは法の支配はなく、単純に暴力の支配する時代だった。
>人々は城壁のなかで暮らす。ときどき城を襲う強盗集団みたいなのが来ると、城壁のなかに隠れる。
>……こういう事情は、「大聖堂」という小説に詳しい。

「大聖堂」の舞台となった年代は1123年から1174年、
ウィリアム1世のイングランド征服(1066年)の約半世紀後で、
読み返したところウィリアム1世以前の時代に関する詳細な描写が見つけられなかったのですが、
管理人様の言われる「こういう事情」の詳細は、作中のどのあたりを指されているのでしょうか?

エグバード王による最初のイングランド統一王朝の成立は、825年とされています。
その後アングロ・サクソン王朝、デーン王朝といった王制がウィリアム征服王のノルマン王朝まで続いておりますので、それ以前は制度や国家の統率者が不在、というお言葉には疑問を覚えます。


>ただし、一握りの富裕層が国全体を統治しようとすると、一般国民の反逆が起こりやすい。つまり、革命が起こりやすい。
>そこで、反逆を抑止するシステムが必要となる。そのシステムは、警察ではない。
>なぜなら、警察にすれば、警察そのものが反逆しかねないからだ。
>そこで、国王・領主富裕層は、一般国民を統治するために、富の一部を分け与えて、弱い富裕層とも言うべきものを作る。
>それが「家臣」である。国王・領主は、「家臣」を「収奪する側」に組み込むことによって、
>「収奪される側」を統治する役割を委ねる。
>そして、その場合、「家臣」は、民衆を実力で統治するために、武装する必要がある。
>これが、西洋では「騎士」と呼ばれ、日本では「武士」と呼ばれた。


上記のお話ですと、「家臣」が民衆を実力で統治するには、
民衆に対して優越した武装が必要だったという理解でよろしいでしょうか?
イングランドにおいては、「大聖堂」でも登場したヘンリー2世が、
自由農民および自由市民に財産に応じた武器・防具の保有を義務付ける条例を定め、こうした民兵を戦争にも動員しています。
後に規定された武器に弓矢が加わり、またその訓練の義務も課されました。
(「大聖堂」の続編「大聖堂−果てしなき世界」の冒頭にも、
男達が全員、教会に行った後で王の命令による弓の訓練を行う描写があります)
こうして養成されたイングランド軍の長弓部隊(=民衆部隊)は、
英仏百年戦争のクレシーの戦い(1346)等において、
騎士(=「家臣」)を中心としたフランス軍に圧勝しています。
富裕層(国王)が「家臣」を凌駕し得る武装を一般国民に義務付けている点から、
管理人様の唱えておられる封建制のモデルの例としては、
イングランドはあまり適切ではないのではないかと考えます。
Posted by 通りすがり at 2011年01月30日 13:52
 ご指摘をありがとうございました。
 ウィリアム1世の件は、私の勘違いですね。うろ覚えのまま書いて、ミスってしまいました。該当箇所を書き換えておきました。

> 「家臣」が民衆を実力で統治するには、
> 民衆に対して優越した武装が必要だったという理解でよろしいでしょうか?

 そうです。
 ただし、イングランドの民衆と外国の家臣を比較するのは、比較対象がおかしいでしょう。イングランドの民衆がイングランドの家臣よりも武力で優れていたわけではありません。また、戦争が終われば、武器も取り上げられていたはずです。さもなくば反逆が起こるので。

 現代でも、戦争が起これば市民は徴兵されて武装しますが、だからといって、平時でも武装しているわけではありません。
 
Posted by 管理人 at 2011年01月30日 14:56

>ウィリアム征服王がイングランドを支配することで、自らが王となり、封建制を確立しかけた。
>(この時点ではまだ封建制は十分に確立していなかった。封建制が十分に確立するには、そのあとさらに長い時間を要した。)
>( ※ これは、ウィリアム征服王が国家支配権を確立した後の話だ。
>その時点ではまだ封建制は十分に確立していなかったことになる。
>つまり、まだまだ地方は無秩序状態に近い状態が続いていたことになる。)

細かい話になりますが、
ウィリアム1世は1087年に没するまでに、ノルマン王朝の封建制を確立しています。
「大聖堂」の舞台は、ウィリアム1世の3代後にイングランドで内戦が勃発した時代なので、
「封建制の確立後、内戦により一時的に無秩序状態に陥った」というのが
より正確かと存じます。

「無政府時代(イングランド)」-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%94%BF%E5%BA%9C%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89)


>ただし、イングランドの民衆と外国の家臣を比較するのは、比較対象がおかしいでしょう。
>イングランドの民衆がイングランドの家臣よりも武力で優れていたわけではありません。

武力の優越は様々な要素によるものですので、一概には言えませんが。
ノルマン王朝の騎士は、フランスのノルマンディー公であったウィリアム1世
(ノルマンディー公としてはギョーム2世)が引き連れてきたフランス騎士です。
ヘンリー2世が開祖である百年戦争時代のプランタジネット朝(アンジュー朝)も
発祥の地はフランスのアンジュー伯領であり、フランス王領を凌ぐ領土をフランス内に持ち、
英仏両国にまたがる「アンジュー帝国」を築きました。
同じ王朝の「家臣」の武力が、イギリス領土側とフランス領土側で極端に異なると
考える理由がなければ、時と場合によっては武力において
フランスの家臣(騎士)=イングランドの家臣<イングランドの民衆
という式が成立し得たと先のコメントの事例から考えております。


>また、戦争が終われば、武器も取り上げられていたはずです。さもなくば反逆が起こるので。

ヘンリー2世の武器保有条例には、自由民に、
財産規模で可能とされる武器・防具を調達すること、
これを売買・譲渡しないこと、
規定以上の武器を保有する場合はこれを武装が規定に達しない他の自由民に売却もしくは譲渡すること、
等の規定に加え、
規定の武器を保持していた者が死亡した場合の、武器の法定相続の規定も備えています。
ここからは、「戦争の度に武器を配布し、戦争後は(反乱防止の為に)取り上げていた」
という図式は見出しづらいかと存じます。
「民衆の武器の保持」が「民衆の反逆」に直結しない場合というのは、封建制の「収奪」が、
民衆にとって「反乱」という命のリスクを犯してまで覆そうという規模のものではなく、
また王や家臣側も自身の「収奪」の規模が反乱を決意させるほどではないよう匙加減をしている
場合であり、その匙加減を間違えた場合に反乱は起こったものと考えます。

特にイングランドではノルマン王朝以前の王朝から、自由民皆兵の伝統があり、
それを継承したという面もあったのではないかと存じます。
上記の点からもイングランドは管理人様の封建制モデルの適用外のケースと考えます。

一方でドイツ神聖ローマ帝国が平和令により農民の剣・槍の保有を禁じたように
民衆の武装を禁じた例もあります。
封建制といっても武装規定一つとっても千差万別であり、一括りにはし難いものと存じます。
Posted by 通りすがり at 2011年01月30日 16:42
> 「封建制の確立後、内戦により一時的に無秩序状態に陥った」というのがより正確かと存じます。

 おっしゃることはそれで正しいと思いますが、巨視的な視点からは「十分に確立していなかった」と表現しても良さそうです。近くで見るか離れてみるかで、表現の仕方が少し変わるだけで、実質的にはどちらも同じでしょう。「まだ半分」と「もう半分」みたいなもので。

> フランスの家臣(騎士)=イングランドの家臣<イングランドの民衆

 兵力(潜在力)の点でそうだったとしても、イングランドの民衆の指揮者は政府側(王側)なのですから、あまり意味がないのでは? 軍事力というものは分断されてしまえば威力はほとんどない。民衆を束ねるかどうかが問題だ。そして、民衆が自発的に「束ねる」力を得ると、「革命」が起こる。
 潜在力の点だけから言えば、いつどの時代でも、国民全体の力の方が大きい。ただし、束ねられていないから、蹴散らかされてしまう。
 その意味では、家臣(封建制)または王(王制)の側の力の方が常に優勢であった。(近代になって革命が起こるまでは。)
 
> 「戦争の度に武器を配布し、戦争後は(反乱防止の為に)取り上げていた」
> という図式は見出しづらいかと存じます。 
> その匙加減を間違えた場合に反乱は起こったものと考えます。

 その点は、おっしゃるとおりですね。前言を撤回し、そちらに同意します。
 ただし、武器を与えられたのは自由民に限られており、農奴(半自由民)は対象外です。
 
 自由民が広範に出現したのは、14世紀半ばのペスト流行のころからで、それ以後は英国の封建制は崩壊していったようです。
  → http://www.kobemantoman.jp/sub/33.htm
 とすると、英国では、14世紀半ばまでが封建制の時代で、それ以後は封建制の崩壊と見なせそうです。封建制の時期がいくらか限られているというだけのことであり、封建制がなかったというわけではないでしょう。

> 封建制といっても武装規定一つとっても千差万別であり、一括りにはし難いものと存じます。

 それはそうです。当然でしょう。ただ、「封建制」という概念を用いて歴史を整理しようというのが歴史学の立場ですから、その流れに沿って概念を明確化したいというのが本項の狙いです。「封建制」という概念そのものを否定しようというのは、本項の狙いではありません。
Posted by 管理人 at 2011年01月30日 20:53
>封建制の時期がいくらか限られているというだけのことであり、封建制がなかったというわけではないでしょう。

>「封建制」という概念そのものを否定しようというのは、本項の狙いではありません。


「封建制が存在しなかった」「封建制という概念を否定」
というお話は、ここまでのお話とやりとりのどこから出てこられたのでしょうか?
読み返してみましても心当たりがありませんでしたので、
御解釈をお教えいただければありがたく存じます。
Posted by 通りすがり at 2011年02月21日 01:56
「封建制」下で「国民」というのもおかしいですし、農民は「農奴」であったというのもおかしいと思います。封建制の本質をご自身なりに示されるのはよいのですが、文献をある程度読んだうえで議論されないと、歴史を語ることは不可能だと思います。そもそも参考文献を付けられないと議論が成立しないですが・・・。
Posted by う〜ん at 2011年06月16日 15:49
「フューダリズム」(feudalism)を「封建」と訳するのも、ひどい誤訳だ。秦の始皇帝以前の中国では、首都から武装移民が出ていって、新しい土地に都市を建設し、独自の政治生活をはじめることが「封建」だった。のちには、皇帝が派遣した軍隊の司令官が、都市に駐屯してその一帯を支配し、その地位を世襲することを「封建」と言うようになった。ところが日本人は、「封建」を「フューダリズム」に当てはめてしまった。
「フューダリズム」という慣習は、西ヨーロッパでもその一部、東はエルベ河から西はロワール河までのあいだだけに行われたもので、騎士が自分の領地の一部を有力な君主に献上して、その見返りに保護を受ける契約を結ぶことを意味する。その契約相手の君主はひとりとはかぎらず、なん人と契約してもいい。これは中国の「封建」とは、何の共通点もない。おそらく、江戸時代の幕藩体制を日本人が、中国になぞらえて「封建」と呼んでいたのが、「フューダリズム」を「封建制」と訳した原因だろう。(以上引用、岡田英弘『歴史とは何か』文春新書79〜80ページ)
そもそもフューダリズムを封建制と訳すのが翻訳として、おかしいのです。上に引用した歴史家の岡田英弘の意見が間違っているとするならば何がどう、間違っているのでしょうか。私にはわかりません。国民国家という発明が起きる以前には、国民という概念もなかったはずです。かつては自分の生年月日を知らず、自分の父親が誰であるのか、はっきりわかっていない人々も多かったと思います。日本でも明治以前には名字帯刀が許された人は多くないですしね。要するに国民国家の成立以前には世界中の多くの地域で、個々の人間の出生を証明する書類を扱う公的機関が十分に整備されていなかった。その意味では、国民国家の成立以前には「一般国民」はいなかった。国民と言う語は日本人が発明した語ですので昔の中国にはありません。都市の住人という意味で国人(こくじん)という語は使用されていましたが。(これも『歴史とはなにか』)に説明があります。マルクスの考えた歴史観は歴史学的には通用しないもののようです。パキスタンやアフリカ諸国が政治的に不安定なのは、それらの地域の都市化が不十分なせいだと思います。
Posted by まえやま at 2011年06月18日 20:01
 西洋と中国・日本は、別々の歴史を取ったので、まったく同じということはありません。

 ただし、そこには同じく人るであることゆえの、ある種の共通性があります。その共通性に着目して、「封建制」という同一概念を当てはめたのが、これまでの歴史学です。

 その上で、「東西では同じく封建制と呼んでも、その実態はいくらか異なる」というふうに解釈するのが、標準解説です。

 ──

 そのあとで、「言葉は同じでも実態は全然違うぞ」と批判するのが、上記の人です。一般的に、揚げ足取りをして、人の悪口を言うのが趣味の人が、そういうことを言います。揚げ足取りと批判が趣味なわけだから、人間的には小物の秀才が多い。自分はすごく利口なのに世間からは認められない、とすねている変人が多い。(付き合いたくはないタイプ。昔のオタク。)

 一方、本項は、それとは正反対で、物事の核心を突こうとします。「東西の封建制に共通する本質は何か?」を探ろうとします。小物の秀才とは正反対の立場です。……当然、小物の秀才は、揚げ足取りをするでしょう。「ここが違うぞ」というふうな。

 そのあとの解釈は、読者のご自由に任せます。
 

 




Posted by 管理人 at 2011年06月18日 20:34
私は多細胞生物の巨大化にともなう心臓や脳を代表とする各種臓器の発達と同じようなもんだと思ってる。
心臓が分かりやすいが体が小さければポンプ無しでも酸素も栄養も浸透拡散だけで充分全ての細胞に行き渡る。でかくなるとそれじゃ足りない(代謝を落とす手もあるが動きが遅くなって捕食されやすく、捕食しにくい)のでポンプを造ってそれを補う。巨大化するにつれより精緻なシステムになる。
スケールメリットとデメリット(心臓は作るのも維持するのも高コスト)が均整するあたりでサイズが落ち着くがこれは背景となる環境を論じないと決まらない(適者生存であって絶対的な優劣はない)ので島の法則とかがでてくる。
脳の場合はこれの情報処理バージョン。
両者の共通点は大きさの割にエネルギーを大量に消費する大飯ぐらいなこと。つまり細胞あたりのリソースの割り振りがリッチな富裕層だ。
これをリッチにすること自体が目的と倒錯して批判するのがマルキストの宿痾。
Posted by NONNAME at 2015年10月16日 10:30
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