簡単に言えば、彼女の狙いはいいが、敵を間違えている。敵は、英語ではなく、ITだ。それが日本語を劣化させている。
──
水村美苗の「日本語が亡びるとき」をちゃんと読む機会があったので、あらためて論じる。
( 前回はこちら → ウェブと日本語:日本語は亡びるか? )
前回は、本を読まないで、ネットの講評やら、まとめやらを読んで、その上に、私の考えを述べた。
しかし、これは、まずかったようだ。本人の話をちゃんと理解できていなかった。というか、本人の話をちゃんと理解できていない人の話を真に受けて、その上に話を構築してしまった。
ま、それはそれで、最後の結論は間違ってはいなかったと思うが、彼女の主張に対する批評・感想としては、かなりピンボケだった。核心を突いていなかった。
そこで、あらためて論じる。
まず、彼女の話の趣旨は、次のことだ。
──
日本語は質的に劣化しつつある。それは、日本語としての死に等しい。(比喩的に。)そこで、これを、「亡びる」というふうに表現する。
日本語は近年、亡びつつある(=質的に劣化しつつある)。それは、なぜか? 英語が覇権を持ちつつあるからだ。
近年、英語は世界的に覇権を持ちつつある。それは、グローバル化時代にあるからだ。グローバル化時代は、ネットによって、ますます加速しつつある。そこでは、英語が優れているから英語が使われるのではなくて、国際的な標準が必要だという時代の要請ゆえに、英語が使われる。グローバル化が進めば進むほど、共通言語としての英語が重みを増す。英語は今日では、「普遍語」としての重みをもつようになった。
すると、知識人は、英語と日本語との双方を使うようになる。バイリンガル化する。それと同時に、日本語の比重は低下していく。そのせいで、日本語は質的に劣化していく。
これは、日本語が使われるかどうか、という問題とは異なる。日本語が使われなくなる、ということはない。日本語が言語として消滅する(滅びる)、ということはない。ただし、言語レベルで使われるかどうかは別として、文学レベル(書き言葉レベル)では、質的に劣化していく。知識人がバイリンガルになればなるほど、日本語は質的に劣化していく。
だから、これを避ける必要がある。日本語の文学という文化を守る必要がある。そのためには、近代日本文学(明治〜昭和)をしっかりと読むようにすればいい。
( ※ わかりやすく言うと、ネットで英語ばかりを読むのがカッコいいという風潮は駄目だ。平成の軽薄なネット文学みたいなのを読むだけでも駄目だ。もっと古い、れっきとした日本語で書かれた、ちゃんとした文学を大切にせよ。ちゃんとした文学を読め。)
──
以上が、要旨だ。
ただし、このような言葉がそのまま書かれているわけではない。私がちょっとおおげさに「意訳」した箇所もある。例によって、私の誇張がちょっと含まれている。( 最後の ※ の箇所など。)
なお、水村の主張の背景には、次のことがあるはずだ。
- 最近の平成の文学は、情けない。昭和前半に比べて劣化している。
- 自分(水村)は、英語がほぼペラペラだが、日本語はあまり上手じゃない。作家なのに日本語がもっとうまくできない。それは、英語なんかをやりすぎたせいかもしれない。あんまりやらなきゃよかった。
- だから、若い人は、英語なんかに浮ついたりするな。むしろ、伝統的な近代文学(明治〜昭和)を読め。
さて。私の批評を言おう。
彼女の現状認識は、間違っていないと思う。日本語はまさしく劣化しつつある。そのことには、グローバル化も影響しているだろう。そしてまた、そのことには、英語の影響もありそうだ。
だが、私の考えを言えば、こうだ。
「敵は、英語ではない」
なぜか? もし彼女の説が正しいとしたら、日本人は英語がペラペラになっているはずだ。「英語がどんどん上達したから、日本語が下手になったのだ」というふうになるはずだ。
しかし、現実には、そうではない。現代の日本人の英語力は、昔に比べると、かなり低下している。学力の全般的な低下にともなって、英語の学力も大幅に低下している。このことは、大学受験の関係者では、常識となっている。受験の英文も、昔に比べて、大幅にやさしくなっている。というのは、昔のレベルの英文を出すと、受験生はみんな零点になってしまうからだ。(それほどひどくはないが、そういう傾向にある。)
要するに、
「英語を使うようになったから、日本語力が低下した」
のではない。
「英語力も、日本語力も、ともに衰えている」
というのが日本の現実だ。世界のなかで英語の勢力はどんどん強まっているが、残念ながら、日本における英語発信能力は、ちっとも高まっていない。むしろ、世界のなかで取り残されがちだ。
「英語が世界でどんどん普遍語となっている」
というのは、世界レベルで言えば正しいのだが、残念なことに、日本人だけは、それから取り残されているのだ。
「日本人は、英語も日本語も、どっちもできなくなっている」
という状況にある。これが真相だ。とすれば、水村美苗の主張は、根本的に成立しないのだ。
( ※ 対策も、「英語をやりすぎず、日本語をもっとやれ」というよりは、「英語も日本語もともに、もっとやれ」という主張の方が妥当だ。)
──
では、なぜ、英語力も日本語力も、ともに衰えているのか? その理由は、簡単に推察がつく。
「本を読まなくなっている。勉強もしなくなっている」
このことで、全般的な言語力が低下している。日本語力の低下があるだけでなく、英語力の低下もある。ここでは、言語力がことごとく低下しているのだ。
では、なぜ? もちろん、言語能力を鍛える機会が減っているからだ。そして、その理由は、次のことだろう。
・ ケータイ
・ テレビゲーム
・ パソコン,ネット
これに対比されるものは、次のものだ。
・ 本 (書籍、雑誌)
・ 新聞
この二つ(いわゆる活字文化)は、大幅に低下している。産業全体の売上げ規模がどんどん低下している。
ここでは、「日本語の本が読まれなくなって、英語の本が読まれるようになっている」のではない。「本そのものが読まれなくなっている」のだ。
──
こうして、真相がわかる。
日本語の衰退は、確かにある。しかし、それは、英語が盛んになったからではない。言語そのものが比重を低くしているからだ。そして、それは、IT時代にあって、人々がIT分野にばかり熱中しているからだ。
言語の比重が低下しているのは、言語そのものが無意味になっているからではない。「ITこそ素晴らしい」と人々が浮かれていて、言語の大切さを見失っているからだ。
換言すれば、人々は、「言語を駆使すること」つまり「思考すること」をないがしろにして、「ITを駆使すること」つまり「情報を集めること」に熱中しているからだ。(特に画像や音声に熱中しがち。ゲームが典型的。)
IT社会にあって、人々はITツールを駆使することこそが大切だ、と思い込んでいる。ひところの「超整理法」というのは、その一例だ。最近でも、「 Google を使いこなせ」というような本がブームになったりする。
しかし、大切なのは、ITツールを使いこなすことではない。言語を使いこなすことだ。情報を集めることではなく、情報を自ら生み出すことだ。つまり、「自分の頭で考える」ことだ。
現代では、コンピュータの時代と言われる。コンピュータは、「第2の脳」とも言われる。それを用いることで、人間は自分の脳の領域を拡張した、とも言われる。なるほど、データ処理に関する限りは、その通りだろう。
だが、その半面で、人間は言語能力を大幅に低下させてしまった。「第2の脳」に能力を委ねるあまり、自分の脳の能力を衰退させてしまった。……そして、そのことが、「日本語の衰退」という形で現れている。
水村美苗の危惧は、まさしく正しい。日本語はまさしく、衰退しつつある。質的にどんどん劣化しつつある。……しかし、それは、(日本人にとって)英語が盛んになったからではない。(日本人にとって)言語能力そのものが衰退しているからだ。
そして、それは、IT時代の波に呑み込まれて、コンピュータの能力を使いこなそうとするあまり、自らの能力を失いつつあるからだ。仕事の多くをコンピュータに委ねているうちに、自らの能力をどんどん衰退させつつあるのだ。(秘書に仕事を任せすぎて、馬鹿になった社長のようなもの。)
だから、日本語の衰退を阻止するには、水村美苗の言うように、「近代日本文学を読め」ということだけでは、とうてい足りない。仮に英語が敵であるならば、英語を読まずに、日本語を読めばいいだろう。しかし、敵がITであるならば、近代日本文学を読むぐらいでとうてい足りない。漱石や鴎外や川端や谷崎や三島をいくらか読めばたちまち日本語力が向上します、というようなものではない。
日本語力を高めるには、もっと日々の研鑽が必要だ。
・ 古今東西の優れた文学を読む
・ すばらしい言語表現に感動するセンスを養う
・ 自らも言語表現を磨こうと努力する
そして、その前段階として、「毎日、大量の活字に触れる」ということも必要だ。特に高品質な文章でなくても、新聞や教養書をたくさん読んでおくことが必要だ。
しかしながら、悲しいかな、現在ではそれとは逆の傾向にある。
・ 素人の書いたブログを読む (しょこたんブログも?)
・ ケータイ小説のような低レベルのものを読む
・ 友人たちと下らないメールを交換する
・ 画像や音楽の豊かなゲームに熱中する
こういうふうにして、言語力を劣化させる努力ばかりをしている。高品質のものに触れず、愚劣なものにばかり触れている。
ここまで読めば、どうすればいいかもわかるだろう。とにかく、「IT時代には、ITを使いこなせ」なんていう常識に従っていれば、人々は馬鹿になるばかりなのだ。
水村美苗の主張は、現代社会の愚かさを指摘するという点では、うまく問題点を探した。ただし、その原因を「英語」と見なしたのは、まったくの見当違いだった。彼女は英語の侵食力を過剰に評価しつつあるのだ。(たぶん自分の個人的経験のせいだろうが。)
現代において危険なのは、英語ではない。では、何か? 「あなたの思考能力を素晴らしく高めてあげます」と甘い言葉を唱える、悪魔のツールだ。それが、あなたの情報処理能力を飛躍的に高め、同時に、あなたの思考能力を飛躍的に劣化させる。あなたに甘いものを与え、同時に、あなたの魂を骨抜きにする。
IT時代における真の危険性は何かを、しっかりと理解しておこう。
[ 付記1 ]
水村美苗の言っていることは、特に間違いということはない、と思う。
「英語ができるせいで、日本語の能力が落ちている」
という例は、とても多く見出される。誰とは言わないが。その意味で、彼女の言っていることは、特に間違いではない。
ただし、その現象は、昔からずっとあることだ。「英語ができる分、日本語ができない」という人は、昭和の時代にもたくさんいた。学術書の文章なんかを見ると、ものすごい悪文の例がたくさんある。(ハイレベルの難解な悪文。やたらと複雑な構文の文章。)
一方、それとは別に、近年になって、日本語の全般的なレベル低下が多くなっている。(ローレベルの稚拙な悪文。小学生みたいな文章。)
これは、英語の影響を受けているというより、言語能力そのものが低下しているのだ、と見なした方がいい。日本語の衰退・レベル低下という現象において、主たる理由は、IT時代の言語能力低下であろう。そして副次的に、英語による侵食ということがある。
ただ、どうせ言うなら、英語による侵食は、昔の方が多かったと思う。近年は英語によるグローバル時代だが、日本は英語によるグローバル社会でかなり取り残されている。
一方、昔のアカデミズムは、英語の力が圧倒的に強かった。学問はほとんど「翻訳学」みたいな感じで、欧米の外国人の業績を紹介することが学問である、と見なされていた時期が長らく続いた。あのころの方がよほど英語は覇権を持っていたし、英語による侵食もまた大きかった。(日本では。)(典型は初期の大江健三郎の小説。直訳体。)
英語は、日本語の衰退の原因のひとつではあるが、主犯ではなく従犯だ、と見なすべきだろう。主犯は、ITだ。……それが私の見解だ。
( ※ 彼女と私のどっちが正しいかは、証明はされない。ただし、私は私の見解を示す。)
[ 付記2 ]
蛇足ふうのオマケ。
彼女の言葉は、もしかしたら、日本人全体に向けて語っているのではなくて、村上春樹に向けて語っているのかもしれない。「あなたの日本語は、英語に侵食されていますよ。それじゃ困る。質的に劣化している。英語なんかやりすぎずに、日本の近代文学を読みなさい」と。(何しろ村上春樹は、三島由紀夫さえもろくに読まないとのことだ。三島由紀夫みたいな文章は大嫌いらしい。)
ま、そういう趣旨であるならば、私は彼女に全面的に賛同する。一部のプロ作家向けの文章としてであれば。(何しろ、最近の小説家は、ひどい文章を書く人が多いので。)
【 関連項目 】
→ ウェブと日本語:日本語は亡びるか?
→ なぜ言語力が重要か?
→ 考える力
§ 補説 ( 文学論としての解釈 )
上記では、「日本語が亡びるとき」を日本語論として扱った。
だが、著者の言わんとしているところ(近代文学の重視)をよく考えると、これを日本語論として読むのはピンボケだ。むしろ、文学論(特に村上春樹論)として読むべきだ。
以下では、その趣旨で解説する。
ただし、注意。以下は必然的に、「文学論」になってしまい、「言語論」「文化論」とはならない。その点、読者対象は、文学系の人になってしまう。……そのことを念頭に置いた上で、読みたい人だけ、以下を読んでほしい。
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タイムスタンプは 上記。