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(1) 不良債権の増加
1990年代、バブル破裂にともなって、不良債権が膨大に蓄積した。銀行は次々と破綻した。また、(銀行の資産が減ったあと、)BIS規制にともなって、貸し出しが抑制され、苦しい企業は「貸し渋り」「貸し剥がし」などの目にあって、資金逼迫から次々と倒産していった。
この現象は「信用収縮(クレジット・クランチ)」による現象だ、とも見なされる。(経済学用語で)
(2) 不良債権処理
これを見て、「不良債権処理が大事だ」という主張が生じた。次の趣旨。
「不良債権があると、銀行は(自分の銀行の経営不安から)融資をしたがらなくなる。そのせいで、投資が収縮する。これは、経済システムに血(マネー)が回らなくなった状態だ。そのせいで、経済システムが貧血状態になって、不健全になる。だから、この問題を解決するには、不良債権処理をすればいい。そうすれば、銀行が健全になり、融資をすることが可能になる。そのことで、経済システム全体も、血(マネー)が回るようになり、健全化する」
このような主張を唱えた人は多かったが、特に小林慶一郎が朝日の紙面をさんざん使って、大々的に自説を繰り返した。(公器である新聞の私物化、みたいなものだ。)
(3) 反対論
これに対して、不良債権処理の反対を唱える人も多かった。ああだこうだという経済学説があったが、最も正面きって反対論を唱えたのは、私だろう。次のページ。
→ 不良債権処理 物語 ,朝日の経済判断 (後日談)
その趣旨は、簡単に言えば、こうだ。
「不良債権処理をするといっても、そのための金が天から降ってくるわけじゃない。その金をどこかからもってくることが必要だ。では、どこから? 銀行以外の国民からだ。具体的には、預金金利が下がり、貸出金利が上がる。銀行の利ザヤが増える。その利ザヤを、不良債権処理に当てる。……結果として、国民は、預金者(国民)も、投資者(企業)も、莫大な損をする。そして、その莫大な損によってもたらされた金で、銀行だけが財務を健全化する。結果的に、銀行はどんどん黒字化していくが、国民はどんどん金を奪われて、疲弊していく。不良債権処理をやればやるほど、国家経済は悪化していく。……この悪化は、不良債権処理という愚策をやめるまで続く」
(4) 現実
そうして数年間たった。
そして、2009年の春になって、不良債権処理の概括がなされた。以下、識者の説を示す。(出典はリンク先)
小林慶一郎 ……
「 2003年以降、景気は回復基調にあった。これは、不良債権処理が済んで、投資が増えたからだ」
クルーグマン ……
「小林の言うことには共感するが、一つ難点がある。彼は、2003年以降の景気回復を、不良債権処理が済んだからだと見なしたが、実際は、そうじゃなくて、輸出が増えたからだ。不良債権処理が済んだからだと考えるのは、誤り」
池田信夫 ……
「小林の論拠は(クルーグマンの言うとおり)正しくないが、小林の主旨は正しい。つまり、景気回復は、不良債権処理を済ませたからである。その証拠に、日銀短観の貸出態度DIが 2003年から拡大した。つまり、不良債権処理の進展によって銀行の貸出余力ができ、企業の過剰債務が解消されて新規投資が出てきたからだ」
himaginary(暇人也) ……
「クルーグマンの言うことはおおむねもっともだが、その論拠は正しくない。クルーグマンの用いたデータは、論拠として不当だからだ。第1に、『投資が増えていない』というのは、正しくない。総投資は増えていないが、それは、政府投資が急減したからで、民間投資に限れば、どんどん増えている。第2に、経常収支は大幅黒字になったというが、所得収支が大幅黒字になっただけで、貿易収支はほとんど増えていない。」
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以上のように、ああだこうだという意見がある。では、私の意見は? 上記の諸見解はすべて見当違いだ、と考える。私の考えは、次の通り。
- 基本として、不良債権処理は、効果を出していない。現状を見れば明らかで、不況の真っ盛りである。2009年の春を見ても、同様だ。不況のさなかにおいて、「景気回復があったのはなぜか?」を論じるのは、馬鹿げている。(雨の中で「いま晴れているのはなぜか?」を論じるようなもの。)
- 彼らはなぜ「景気回復が起こった」と勘違いしたか? 最悪からは脱したからだ。なるほど、2002年ごろは、最悪だった。そして、最悪から脱したということをもって、「健全化した」と思い込んだ。しかし、そのような認識は、とんでもない勘違いだ。
- 比喩的に言おう。インフルエンザで 40度の高熱になった患者がいた。その患者は、02日には 40度だったが、03日以降はだんだん改善して、39度から 38度へと改善していった。そこで、人々は考えた。「 03日以降、患者の状況は健全化した。患者が健全化して正常に起きられるようになったのは、なぜだろうか?」……こんなことを考えるのは、馬鹿げている。なぜなら、03日以降、患者は健全化して正常に起きられるようになっていないからだ。……この意味で、上記の諸見解は、すべて間違っている。前提からして、間違っている。(最悪を脱したとはいえ)まだ寝ている病人を見て、「健康になったのはなぜか」と論じているからだ。根本からして狂っている。
- では、真相は? すでに述べた通りだ。「この悪化は、不良債権処理という愚策をやめるまで続く」と記したとおり。つまり、不良債権処理というのは、国民の金を奪って国民を疲弊させる悪行である。その悪行をやめれば、悪行によるマイナスはなくなる。それが主な理由だ。
- つまり、「不良債権処理を済ませたから、状況が改善した」のではなく、「不良債権処理という害を及ぼされることがなくなったから、状況の悪化がストップした」のである。(比喩的に言えば、毎日 冷水をぶっかけていたのをやめれば、状況の悪化はなくなる。)
- 二つの説のどちらが正しいかは、論理的にわかる。
- 第1に、不良債権処理にプラスの効果があれば、不良債権処理をなしている最中に景気はどんどん回復していくはずだ。そして、不良債権処理を終えた時点で、回復はストップするはずだ。
- 第2に、不良債権処理にマイナスの効果があれば、不良債権処理をやっている最中は景気はどんどん悪化し、不良債権処理をやめたとたんに景気は改善するはずだ。
- もう一つ、別の論理もある。不良債権処理が有効であるならば、現状では、不良債権処理がすっかり済んだのだから、融資はどんどん伸びているはずだ。民間投資はどんどん増大しているはずだ。その投資需要の増大にともなって、市場金利は大幅に上昇しているはずだ。……しかしながら現実には、市場金利はゼロ金利のままである。つまり、投資はいまだに収縮したままである。いくら不良債権処理をしても、「ゼロ金利」(投資需要の大幅な縮小)という状況は、ちっとも改善されなかったのだ。
2003年以降、景気は回復基調になった。それを見て、不良債権処理論者は、「これこそおれの手柄だ」とばかり吹聴した。しかしそれは、我田引水にすぎなかった。
第1に、景気は回復基調になったと見えたのは、単にどん底から脱したということに過ぎず、いまだに不況からは脱していないからだ。現状はいまだにゼロ金利のままであり、投資需要は健全化していない。結局、「不良債権処理による景気回復」というシナリオは、完全に破綻したのだ。また、「量的緩和による景気回復」というシナリオも、完全に破綻した。とにかく、過去の経済政策は、すべて完全に破綻した。今はこの「大失敗」という現実を直視することが必要だ。「なぜ成功したか」を論じるのは、あまりにも見当違いだ。
第2に、不良債権処理は、(小さくとも)プラスの効果があったのではなく、マイナスの効果だけがあった。その証拠が、2003年以降の「底打ち」である。つまり、「不良債権処理をしているときには景気が悪く、不良債権処理をやめたとたんに景気は底打ちした」ということだ。そして、その理由は、あらかじめ説明されていた。つまり、「景気を回復させたいときには、民間の金を奪って、銀行を黒字化するのではダメだ」と。不良債権処理をするというのは、銀行に金を与えるということであり、民間の金を奪うということだ。それは、景気回復策とは、正反対の方向なのである。回帰回復のためには、民間に金を与えるべきなのに、逆に、民間の金を奪うのでは、本末転倒だ。
たとえば話。親と子供がいた。子供は風邪を引いて、衰弱して、成長力が止まった。そこで、「子供を成長させるには、どうすればいいか?」と親は考えた。親は結論した。「子供を成長させるには、子供に投資するための金を親がもてばいい。親がたっぷりと金をもてば、子供を成長させるために、投資ができる。では、親がたっぷりと金をもつには、どうすればいいか? 病気の子供を働かせて、親が金を徴収すればいい。」……親はこう考えて、病気の子供をこき使って、いくらかの金を貯めた。そのせいで、子供はどんどん衰弱していった。その後、親は、金が溜まったので、子供をこき使うのをやめた。すると、子供の衰弱は止まった。子供はすっかり衰弱していたが、とりあえず、それ以上の衰弱は止まった。そして、ほんの少しずつ、成長していった。それを見た親は、こう思った。「子供は成長を始めた。それは、親が子供をこき使ったからだ。これまで親が子供をさんざんこき使ったから、こき使うのをやめたとき、子供は成長しはじめたのだ。やはり、病気の子供を成長させるための方法は、親の財布を健全化することだ。親の財布を健全化することによって、子供は成長できるのだ」
不良債権論者というのは、これほどにも狂気的である。
ただし、クルーグマンであれ、池田信夫であれ、その狂気を見抜けなかった。クルーグマンは、不良債権処理論者のいかがわしさを見抜いたが、その論拠はピンボケだった。池田信夫は、別の論拠から、不良債権処理論者のいかがわしい主張を補強した。
そして、そのあとで、私が現れて、不良債権処理論者のいかがわしい論理を、一刀両断に、ばっさりと切ったのである。
「それは、病気の子供をこき使う親の、エセ論理だよ」
と。
[ 付記 ]
では、正解は? 不良債権処理とは逆のことをやればいい。
- 病気の子供に対しては、こき使わなければいい。つまり、不良債権処理は、一切停止すればいい。
- その一方で、投資需要を増やすために、消費を増やせばいい。つまり、投資が縮小している理由は、貸す金が足りないからではなく、借りる企業が足りないからだ。資金供給が足りないからではなく、資金需要が足りないからだ。(そのことは市場金利を見ればわかる。)
- 実は、不良債権処理というのは、まったく役立たずというわけではない。資金供給が不足しているとき(つまりインフレのとき)には、役に立つ。インフレのときの景気改善策としては、不良債権処理は有益だ。しかしながら、インフレ対策としての不良債権処理を、デフレのさなかにやるというときに、根本的な勘違いがある。それはいわば、高熱の患者に出す解熱剤を、体温低下の人に処方する、というようなものだ。効果はあるにはあるが、必要な効果(治療効果)とは正反対の効果(病状悪化効果)がある。……不良債権論者の倒錯は、ここにあると言えよう。
「不況を解決するには、マクロ経済学的に考える必要がある。金融政策的(マネタリズム的)に考えても、意味がない。なぜなら、不況のさなかでは、流動性の罠という状態に陥っており、金融政策は無効化しているからだ」
より単純に言えば、こうだ。
「資金需要が減って投資が減っているときに、資金供給を拡大するための方法をいくら取っても、まったく無効である」
ここに本質がある。
>基本として、不良債権処理は、効果を出していない。
ここがあなたの主張したい所なのに、この一文に対する補強がほとんどありません。
2009年春が不況だからとありますが、様々な要因から形成される景気循環を理由にするのはおかしくありませんか。
また、文章中に比喩が多用されていますが、あなたの中で完成されている理論なのであなたにはわかりやすいようですが、読み手には意味がわかりません。
というのは、あなたの調査不足。本項の短い文章ですべてを理解しようとしたら、あなたはあまりにも虫がよすぎる。自分が調べる手間を惜しんでいるだけなのに、自分のものぐさを、筆者の記述不足だと思い込んで、「ひどい」と非難している。責任転嫁。
>基本として、不良債権処理は、効果を出していない。
すでに他の箇所でも書いたことだし、あまりにも簡単なので、省略しました。あえて初心者向けに再度説明すると、こうです。(ものぐさなあなたのために、あえて手間暇かけて、一文を書いてあげる。過剰サービスですけど。)
《 不良債権処理論 》
「景気が悪いのは、不良債権があるせいで、銀行が融資をできないからだ。だから、不良債権処理をせよ。そうすれば、銀行はどんどん融資をして、景気はよくなる。」
《 現実 》
「不良債権処理が終わっても、銀行はちっとも融資を増やさない。銀行が融資をしたくても、企業の方が融資を受けたがらない。もともと供給過剰なので、設備投資をする必要がないから。……融資を受けたがるのは、運転資金に困っている倒産寸前の会社が、運転資金を融資してもらって、自転車操業をするため。しかしそんな赤字会社の運転資金など、銀行は新たに融資を増やそうとはしない。(せいぜい従来水準の維持。)」
こうして、「不良債権処理を済ませれば、企業の投資が拡大して、景気は回復する」という「不良債権処理論者」の論拠は崩壊した。
なお、別のページにも示してあるが、「不良債権処理の済んだあと(2005年ごろ?)よりもあとで、銀行の融資量(貸出残高)は増えていない、というデータが出ている。別のところに記述済み。
とにかく、本項目だけを読んでも理解できないところがあると思えるので、本文のサイト(泉の波立ち)も、あちこち読んでください。検索したりして。
このブログは、「通りすがり」の人向けのブログではありません。1項目だけ読んですべてを理解しようとは思わないでください。体系的に述べてあるサイトの、ほんの一項目に過ぎません。理解できない点は、あちこち調べてからにしてください。
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貸出残高は、サイト内検索をすれば、すぐに見つかる。記しておくと、下記だ。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/greentree/koizumi/a03_news.htm#20
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なお、投資意欲が縮退していることの直接的な根拠は、金利がゼロであること。つまり、金利をゼロ同然にしても、それでも資金の借り手がいない、ということ。
融資が増えないことの理由は、銀行側(供給側)にあるのではなく、需要側(企業側)にある、ということが、このことから判明する。