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インカ文明・マヤ文明などは、南米大陸にあり、アンデス文明と総称される。これらも古代文明である。
この古代文明もまた、中国(東アジア)を起源とすると考えられる。その場合、「文明の東進」が起こったことになる。(少なくとも、そう見える。)
欧州 ←── 中国 ──→ 南米
西進 東進
そこで、この事情について説明しよう。
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Wikipedia によると、モンゴロイドがベーリング海峡(当時はベーリング地峡)を渡ったのが BC 10000年(今から1万2千年前)。BC 9000年には石器を使っていたという遺跡がある。BC 7500年には洞穴生活をする例もあった。BC 5000年には農耕・牧畜をしていた。BC 3000年には石造の神殿。BC 1800年になってようやく土器ができた。
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このように、都市文明が土器に先立つ。それが、アンデス文明の特徴だ。
では、そのことは、先に「文明の西進」で述べたことに矛盾するだろうか? 一見、矛盾するように見えるが、矛盾しない。文明の西進と文明の東進とは、事情は違うが、矛盾はしない。次のように考えればいい。
「ベーリング地峡を渡ったモンゴロイドは、初期の言語を持っていたが、土器の知識を持たなかった」
中国で生じた初期の言語(孤立語)は、やがて膠着語に発展していったが、その発展途上の中間的な言葉が、彼らの言葉だったようだ。(マヤ語が孤立語と膠着語の中間的な形態であることからわかる。 → マヤ語 )
彼らは、初期の言語は持っていたが、土器の知識や文化などはまだ持たなかった。中国で生じた初期文明は、彼らにはまだ伝わっていなかった。そのまま、初期的な言語だけを持って、彼らはベーリング地峡を通った。
彼らはろくに文化を持たなかったので、採集生活をするだけだった。そのうち、洞穴で暮らすことを覚えたが、いまだに原始的な生活だった。やがて、独自に農耕の知識を獲得したが、それでも土器を発明することはできなかった。
それでも、彼らは言語はもっていたので、その言語を発達させながら、知識を蓄えていった。やがてだんだんと文明が発達して、都市文明を構築することもできたし、神殿を造ることもできた。しかしまだ、土器を発明することはできなかった。
やがてついに、土器を発明できた。しかし、いまだ文字を発明することはできなかった。
その後、インカ文明やマヤ文明はかなり発達して、天文学の知識などはかなり向上した。しかしマヤは別として、インカではとうとう最後まで文字は発明されなかった。
1532年、スペイン人に侵略されて、インカ文明は滅亡した。さらにその後、疫病の流行により、人口の大部分が死亡した。
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まとめて言おう。
大事なのは、「言語のあとに土器が生じた」ということだ。
「文明の西進」では、土器の伝播が西進したことから、言語も西進したはずだ、と推定した。これはこれでいい。
「文明の東進」では、事情は違う。そもそも、初期の言語はあったが、土器の知識や文明はまだできていなかった。だから、伝達するべきものは、初期の言語のほかには、ろくになかった。そこから新たに独自の発展があったが、そこには「文明の伝播」はない。
要するに、「文明の西進」では言語や土器の伝播があったが、「文明の東進」では(初期の言語以外には)何も伝播がなかった。だから、アンデス文明では「言葉はあっても土器はなかった」という形の発展があっても、前述のことに矛盾はないわけだ。事情はまったく異なるのだから。
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ただ、以上のことから、次のようにも言える。
「アンデス文明の発生については、東アジアからの文明の伝達はなかった。言葉も土器も伝達しなかったのだから、もともと文明の伝達はなかった。その意味で、文明の東進もなかった」
文明の東進はなかったのだ。人間の東進はあったが、それは、人類の東進の延長上にあり、人類だけの東進であった。かろうじて初期の言語は伝播したが、それだけのことだ。文明は伝播しなかった。
アンデス文明は、南米大陸で独自に発達したものだ。東アジアから伝播したものではない。その意味で、東アジアに遅れてアンデス文明が誕生したとしても、それは「文明の東進」ではない。
本項のタイトルは、「文明の東進」だが、タイトルに反して、「文明の東進はなかった」というのが、結論となる。
[ 付記 ]
ベーリング地峡を人類が渡ったのは、人類の東進の延長上にあるのだろう。6万年前にアフリカを出て、3万年前に東アジアに到達し、1万2千年前にベーリング地峡を渡った、と考えれば、時間的に符合する。(この件、後述の ※ )
つまり、ベーリング地峡を人類が渡ったのは、文明が伝播したということではなく、人類そのものが初めてそこに到達したということだろう。そして、そのとき、当地の人類は、まだ初期文明を持っていなかったはずだ。(同じ頃に中国では初期文明が発生したが、それはまだ僻地には届いていなかった。)
ではなぜ、初期文明はそのあとで伝播しなかったのか? 人類がベーリング地峡を通って東進したあとで、1万年後に初期文明があとを追ってベーリング地峡を渡ってもいいはずだ。なぜ、そうならなかったのか? ── それは、ベーリング地峡が水没してしまったからだ。人類がベーリング地峡を渡ってまもなく、ベーリング地峡は水没して、ベーリング海峡になってしまった。もはや人類はアラスカに移動することはできなくなってしまったのだ。だから初期文明が北米大陸に伝播することはなかった。( → ベーリング地峡の水没 )
※ 地図で見るとわかる。中国とベーリング海峡と間の距離はすごく長い。人類の東進のペースが一定だと仮定すると、中国からベーリング地峡まで到達するには1万年ぐらいかかったはずだ。
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なお、Wikipedia 「アンデス文明」の項には、「人類がベーリング地峡を渡ったのは 1万2000年前」と記してあるが、これは信頼できない。というのは、Wikipedia 「ベーリング海峡」の項目には「北アメリカ大陸に渡ったモンゴロイドは、南方にも進出し、遅くとも1万年前には南アメリカ大陸最南端のマゼラン海峡地域まで達していたことが実証されている」と記してあるからだ。たったの 2000年で、ベーリング地峡からマゼラン海峡にまで到達できるはずがない。
ネットで調べると、次の文章がある。
シベリア北東部から最初の移住者たちがベーリング海峡をこえてアラスカにきたのは、現在のところ、1万5000〜1万4000年前とする説がもっとも確実とされている。しかし、3万年以上前とする説や2万5000年前ごろとする説などもある。英語版 Wikipedia には、次の記述もある。
南北アメリカ大陸でよく知られている最古の人類文化は、北アメリカの1万5000〜1万4000年前ごろから8000年前ごろのパレオ・インディアン文化である。なかでもクロービス文化はもっとも古い文化のひとつで、現在のアメリカ南西部を中心にクロービス型尖頭器(せんとうき:ポイント)とよばれる石器をつかう人々が大型動物の狩猟をおこなっていた。それは約1万1500年前以降のことで、それから少しおくれて1万1000年前ころには同じような狩猟文化であるフォルサム文化があらわれた。
ベーリング海峡をこえた人々の子孫は急速に南方に広がり、数をふやし、南北アメリカの多様な自然環境と温暖化する後氷期の気候に適応し、さまざまな文化をつくりあげた。南アメリカでは、チリ南部のモンテ・ベルデ遺跡でマストドンの骨などとともに約1万2500年前にさかのぼるといわれる石器類がみつかり、すでにこの時点で南アメリカ南端近くまで彼らが到達していたと考えられる。
( → 出典 )
Sites in Alaska (East Beringia) like Dry Creek and Healy Lake are where the earliest evidence has been found of the life style of Paleo- Indians dating from around 20,000 to 16,000 years ago.これらのことからすると、人類がベーリング地峡を渡ったのは、およそ2万年(2万年〜1万8千年)前と見なせそうだ。時期的には、初期文明は中国で出現したばかりだった。それが北極圏の地域にまで届いているはずがなかった。
>しかし文字はとうとう最後まで発明されなかった。
とのことですが
・「マヤ文字」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E6%96%87%E5%AD%97
・「キープ(インカ)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%97_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB)
以上についてはどう考えればよろしいでしょうか?
マヤ文字の件は、私のミスです。私が勝手に書いたはずはないので、当時調べた出典(ネット上)の記述が間違っていて、それをいちいち検証しないまま引用したのでしょう。そのせいで間違いの拡大再生産をしてしまった。ご指摘を得て、マヤ文字の件は修正しました。
キープは、記号ではあるけれど、文字ではない、ということで理解してください。その形態からして、どうしても情報量に制限ができます。大量の情報を扱うことはできません。この意味で、情報の蓄積という、文明にとっての最重要のことができません。(情報の伝達はある程度はできるが。)
一番の問題点は、口頭言語を記述できないことです。この意味で、本項で述べている意味の「言語を表現する文字」という要件を満たしていません。