レヴィ=ストロースを一言で言えば、(人文科学における)「最後の巨匠」であろう。人文科学がまだ大きな勢力を誇っていた時代の、掉尾を飾る。
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( ※ 本項の実際の掲載日は 2009-11-05 です。)
世間は「今はIT時代」などと標榜して、最先端の時代だと思い込んでいる。しかし現実には、現代の人々は、言語力がひどく低下しているし、思考力もひどく低下している。それどころか、最近では、本を読む人すら激減している。(かわりに何をやっているかというと、ゲームなんかをやっている。いい年をこいた大人までもが、ファイナル・ファンタジーやら、美少女ゲームやら、子供じみたゲームにふけっている。)
しかし、昔はそうではなかった。「思想」というものが大きな勢力を誇っていた。ざっとまとめると、
・ マルクス主義
・ 実存主義
・ 構造主義
だろうか。これらは、今日で「ITは大切だ」と叫ばれるのと同じぐらい、大きな思想価値をもっていた。(その伝で言えば、現代は「IT主義」という名前で呼んでもいいかもしれない。)
では、これらのものは、真実と言えたか? 言えなかった。いずれも一世を風靡したが、今日ではとっくに見捨てられた社会思想だ。
それでも、これらの社会思想は、まさしく一世を風靡した。そして、マルクス主義にはマルクスがいて、実存主義にはサルトルがいたように、構造主義にはレヴィ=ストロースがいた。
では、彼らのあとは? 今日の「IT主義」には、誰かがいるか? ビル・ゲイツ? スティーブ・ジョブズ? いや、そのいずれも、優秀な技術経営者であるにすぎない。彼らは自分の会社に影響することはできるし、製品を通じて世界に影響することもできるが、彼らの思想そのものが世界に影響するわけではない。(人々ができるのは、せいぜいアップルの商品を賛美することぐらいだ。)
つまり、今日の世界では、社会思想の巨匠と言えるべき人物はいない。そして、社会思想が世界に大きな影響を及ぼした「古き良き時代」の、最後の人物が、レヴィ=ストロースなのである。
レヴィ=ストロースの思想は、今日となってはもはや古いが、だからといって、今日には新しい思想があるわけでもない。古い思想の時代のあとにあるのは、思想のない時代なのだ。真実をめざして少しずつ「半分の真実」を探しあぐねた時代は終わって、そのあとに来たのは、「真実を求めようとしない時代」「思想のない時代」「白痴の時代」なのである。それが「IT時代」だ。人々は「考える機械をいかに使いこなすか」ということばかりを考えて、自分の思考力をどんどん低下させていった。(読書しなければ当然だが。できることと言えば、せいぜい、猿のように掲示板に書き込むことだけだ。最近では、悪口を書く場として、掲示板のほか、はてブというものも生じた。)
このような「猿の時代」からみて、古き良き時代の最後を飾るのが、レヴィ=ストロースなのである。
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レヴィ=ストロースの業績は何か? 構造主義だ。これは、「社会のなかに記号(象徴)を見出すこと」とも言える。あるいは、「記号(象徴)たちがいくつも組み合わさって、センテンスのような構造をなすこと」とも言える。
たとえば、トーテムポールは、「未開人の作る、わけのわからないへんてこりんなもの」ではなくて、ちゃんとした意味構造をもつ。こういうことを、彼は解き明かした。
ここまではいい。このあとで、彼は話を大幅に拡張する。
「西洋人から見れば、未開人は文明をもたない野蛮人だ。しかし、未開人にも、緻密な文化構造があるのだ。ただし西洋人がそれに気づかないだけだ。……実際には、未開人にも、西洋人に匹敵する文化があるのだ」
こういうふうに語って、西洋人の「西洋中心主義」に巨大な衝撃を与えた。
たとえて言うと、次のようになる。
「野球は世界で米国がナンバーワンだと思っていたのに、アジアの周辺から、Nomo という選手が現れ、ノーヒット・ノーランを二度も繰り返して、アメリカ人の尊大な鼻をへし折った。そのことで、アメリカ人に、大きな衝撃を与えた」
ま、似たようなものだ。で、その意義は? 西洋人が尊大であったから、その尊大さを否定することで、衝撃を与えた、ということだ。
ただし、そういう衝撃を受けるのは、特定の人々に限られる。
「西洋人は偉大だ、という信念を持っている人々」
である。その内訳は、次の二通りだ。
・ 西洋人自身。自惚れた西洋自尊主義。
・ 東洋人たち。西欧崇拝主義。
前者は、ヨーロッパでは広く見られた。野球で鼻をへし折られた米国人のようなものだ。
後者は、日本などで広く見られた。西洋の学問(マルクス主義や実存主義)を輸入するのが日本の学問だと思っていた人々に、西洋ばかりが偉いんじゃないぞ、という衝撃を与えた。
しかし、もともと西欧崇拝なんかをしていない人々にとっては、構造主義なんて、たいして意味は持っていなかったのである。(その意味で、今日では構造主義がすたれてしまったのも、当然だ。)
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レヴィ=ストロースの解説として、「マルクス主義を越えた」という解説がある。(橋爪大三郎。朝日・夕刊 2009-11-05 )。しかしそれは、あまりにも見当違いすぎる。マルクス主義ほど多方面から批判を浴びた思想・主義はない。だいたい、マルクス自身が述べている。「妖怪」という言葉で。(何のことだかわかりますね? → 正解 )
レヴィ=ストロースの解説として、「学術が文学なのである。……文学が学術でありえた稀有の例だということでもあろう」という評もある。( → 松岡正剛 ) これはなかなか、正鵠を射た表現だ。ただし、レヴィ=ストロースの業績が文学的に優れていた、ということではない。まともな学問になっておらず、ただの文学でしかない、という悪口の意味でだ。
レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」は、好きな人にとっては面白いのだろうが、まともな分析力のある理系の人間にとっては読むに耐えない。そこには学問的に何かをきちんと論述しようとする態度はなく、好き勝手にエッセーみたいなことばかりを書いている。普通の学術書にはなっていない。
もちろん、論理も滅茶苦茶だ。よほど論理力の弱い人々でないと、この支離滅裂な文書を読み通せないだろう。(読んでいくうちに頭が痛くなる。)
その点では、サルトルとかカントとかとは、全然違う。サルトルやカントは、頭の良さを思わせる緻密な哲学思想を示す。しかし、レヴィ=ストロースは、論理力の弱さを感じさせるばかりだ。(それを文学でゴマ化している。)
レヴィ=ストロースの致命的な点は、話を勝手に巨大化することだ。(誇大妄想気味。)トーテムポールに意味があるのなら、それはそれでいい。しかしそれを、「未開人社会にも西欧文明と同じような文化があるのだ」と見なすのは、とんでもない間違いだ。
なるほど、西欧人にとっては、「未開人は猿と同じだ」と思えたので、「猿が文化を持っている」ということは、ものすごい衝撃だったのだろう。しかし、彼らが「黄色い猿」と見下している黄色人種が、バルチック艦隊や、プリンス・オブ・ウェールズを撃沈したのだ。そういう歴史がある。それを知っている東洋人から見れば、「未開人は猿と同じだ」という発想(偏見)そのものが根本的に狂っているとわかる。そして、同時に、「未開人は西洋人と同じだ」という発想(偏見の逆)も狂っているとわかる。
正しくは、こうだ。
「未開人と西洋人とは、生物学的にはまったく同等だが、それらの文化には大差がある」
これは今日では常識だろう。ニューギニアの未開人だって、今ではきちんと教育を受けている。土人みたいな格好をするのは、西洋人の観光客が来たときだけだ。普段はちゃんとした文明生活を送っている。そして、こういう現実を理解していれば、「未開人が文化をもつ」と知ったとしても、「猿が文化をもつ」というのを聞いたような驚きを感じるはずがない。
そしてまた、ニューギニアの伝統的な文化が、科学の発達した先進諸国の文化よりはずっと遅れているというのも、きちんと認識できるはずだ。
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もちろん、「西洋人は偉い」という認識は、正しくない。それは、野球の大リーグを見てもわかる。(野茂や松井の例を見てもわかる。松井は MVP も取ったし。)
また、文明についても、西洋が世界に先駆けて進歩したというわけではない、ということもわかる。彼らは「ギリシア・ローマの伝統を引く西洋こそが最も進歩した文明を持つ」と思い込んでいるようだが、実は、ギリシア・ローマ文明の前には、エジプト文明があり、メソポタミア文明があったのださし、さらにその前には、中国文明があったのだ。西洋文明は、その意味で、ただの末裔だ。
→ 文明の西進
その意味で、「西洋人は偉い」という認識は、正しくない。しかし、だからといって、その正反対のことを主張すれば正しい、というわけでもない。
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要するに、構造主義というのは、実質的には人類学的には小さな意味しか持たなかったのだが、誇大妄想気味にレトリックを吹聴するレヴィ=ストロースの言葉に乗って、世界中で一世を風靡したのである。「西洋が世界の中心だ」という発想を否定したこと自体は悪くはないが、それは構造主義の力なんかを借りる必要はなかったのだ。(バルチック艦隊の撃沈の方がはるかに影響があったかもしれない。)
ただし、こういうふうに一つの社会思想が大きな影響力を持つということは、昔から何度もあったことだ。19世紀にも 20世紀にも、たびたびあったことだ。(たとえば、「社会進化論」とか「優生思想」とかいうものが、ものすごく大流行した時代もある。)
そして、そういうふうに社会思想が大きな影響をもった時代の最後を飾るのが、レヴィ=ストロースだったのである。
彼は巨大な「半分だけの真実」を示した。そして、そのあとに来るのは、「真実の時代」ではなくて、「思考力をなくした時代」なのである。── それが、「IT時代」と呼ばれる。
[ 付記 ]
レヴィ=ストロースとしばしば比べられる相手として、ソシュールがいる。こちらは純然たる学者だ。言葉は下手くそだし、文学的な表現のかけらもない。しかしながら、学問としては、実にきちんとしている。理系の人間にもきちんとわかる論理で構成されている。そしてまた、その学問的な業績も、とても大きい。
シニフィアン/シニフィエ
パロール / ラング
これらの概念は、今日でも生きているし、たぶん不滅だろう。そこにあるのは「言語科学」と言える。
レヴィ=ストロースは構造主義の大家であり、ソシュールは言語論(記号哲学)の大家であるが、その価値は大きく異なる。
ま、両者を比較すれば、レヴィ=ストロースは口先巧みなペテン師みたいなものであり、大勢の人気を博したが、ソシュールは口下手な学者であり、一般にはあまり人気がない。そのどちらを好むかで、その人自身の傾向もわかるだろう。
( ※ でもまあ、今の若い人は、どっちも読んでいないのだろう。 IT化しているので。Idiots and Trolls.)
後半、なぜか中国が中心となるのは、こじつけですね。