人々に不幸をもたらす自由とは、いったい何なのか?
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自由とは何か?
自由という言葉は、本来は、「抑圧からの自由(解放)」を意味した。王権などが市民を抑圧するので、そこから解放されるために、「自由」という概念があった。そこでは、「自由・平等・博愛」という人権の概念があった。
しかし、今の先進国では、そういう「抑圧」がないので、「抑圧からの自由」というものは意味を失っている。
かわりに幅を利かせているのは、「経済の自由」というものだ。その最たるものは、「市場原理」ないし「自由主義経済」だ。(これを信奉する人々が、古典派経済学者だ。)
しかしながら、「不況」という状況では、「市場原理による均衡」が不可能となっている。つまり、「不均衡」状態だ。(理由は → トリオモデル)
この状況で、「市場原理」ばかりを突き進めると、企業が自らの最適化を推進することで、一般国民(労働者)はかえって不幸になっていく。それが「構造改革」を唱えた小泉時代の日本だった。( → 構造改革はなぜ駄目か? )
ここでは、「自由ゆえに人間が不幸になる」という状況が生じている。とすれば、(少なくとも経済の分野では)「自由は素晴らしい」とは言えないはずだ。にもかかわらず、「自由は素晴らしい」というふうに信奉し続けている人々が多い。
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自由は必ずしも素晴らしいものではない。自由は人を不幸にすることがある。にもかかわらず、人々はその事実を語れない。かわりに、「自由は素晴らしい」と語り続ける。
これはいわば、「王様は裸だ」と語れない状況だ。では、なぜ、「王様は裸だ」と語れないのか? なぜ「自由は素晴らしい」という嘘ばかりを語るのか? ── それが本項の問題だ。
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この問題に答えるには、歴史を見るといい。
そもそも、「自由は素晴らしい」というふうに語り続けるのは、米国だけだ。世界のどこの国だって、それほど極端ではない。なのに、米国ばかりは「自由は素晴らしい」というふうに極端に語り続ける。
その最たる例が、医療保険制度だ。どこの先進国だって、医療保険制度があるのに、米国だけは、「自由は素晴らしい」という理屈で、医療保険制度を導入したがらない。
また、銃器の保有という問題もある。ここでも、世界の先進国のうちで米国だけが、銃器の保有という野蛮な制度を維持し続けている。どれほど銃器による事故や犯罪が起こって、被害者が次々と出ても、この野蛮な制度を改めることができない。「自由は素晴らしい」という意識のもとで。
ではなぜ、米国はそれほどにも、自由というものにこだわるのか?
建国の歴史を見ると、「イギリスからの自由」というものがある。しかし、これは今日では、跡形もなく消えているはずだ。そもそも、そんな歴史さえ知らない米国人が大半だろう。(ボストン・ティー・パーティーなんて、知らない米国人が大半だろう。米国人は歴史に弱い。)
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もっとはっきりした原因はないか? ある。それは、生物学的な歴史だ。つまり、こうだ。
「米国人の先祖は、イギリスから送られた囚人が多かった」
当時のアメリカは、イギリスの囚人の流刑地となっていた。では、囚人とは? 犯罪をしたものだ。そして、犯罪をしたものとは、生物学的に一定の傾向があるはずだ。それは、こうだ。
「エゴイスティックな欲望に対して、普通の人は抑制心を働かせるが、その抑制心が足りない人は、犯罪をする」
たとえば、金や食物を見ても、それが他人のものであれば、普通の人は我慢をする。しかし、我慢できない人は、他人の金や食物を盗み取る。これが犯罪者だ。そして、犯罪者が逮捕されると、囚人になる。
犯罪者には、一定の傾向があるはずだ。
・ エゴや欲望が強い
・ そのエゴや欲望への抑制心が弱い
これはアメリカ人の生物学的な傾向だ、と見ていいだろう。実際、アメリカ人は金銭欲や性欲が強いし、陽気で活発だし、我慢する気持ちが足りない。これは民族性となっている。
そして、ここから、「自由」を強く望む精神性も現れた。
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ここまでの話を読むと、歴史や民族性がわかる。すると、アメリカ的な「自由」というものの正体もわかる。
アメリカ的な「自由」とは、人間精神の自由とは何ら関係ない。「王権からの自由」とか、「専制国家からの自由」とか、そういう哲学的な自由とは何ら関係ない。
アメリカ的な「自由」とは、金銭的な自由だ。その正体は、エゴと欲望だ。「あれをしたい、これをしたい」という欲望が強い。性欲も強いし、金銭欲も強い。そして、そういう欲望を、できる限り最大化しようとする。そのために、他者からの干渉を嫌がる。特に、政府からの干渉を嫌がる。
ただし、政府からの干渉は、近代国家では善なるものだ。それは、「エゴのぶつかり合いを抑制する」という意味を持つ。人々がエゴを主張すれば、エゴとエゴがぶつかりあう。それではかえって全員が不幸になる。次のように。
・ 人々が銃をもてば、銃をもつ他人に殺されやすい。
・ 人々が医療保険を嫌がれば、医療保険で助かることもできない。
こういう問題が起こる。
一般に、現代社会では、各人のエゴを抑制し、たがいに協調することで、全員の幸福を図る。各人が少しずつ譲歩することで、全員の幸福がかえって高まる。……先進国の人々は、そのことを知っている。だからこそ、たいていの先進国では、高い税率で、安心できる社会を築く。
しかしアメリカは違う。とにかく自分のエゴを最大化しようとする。そのせいでかえって不幸になるとしても、それでも自分のエゴを最大化しようとする。銃で殺されるとしても銃をもちたがるし、医療保険で救われなくても医療保険を嫌がる。世界の先進国は「高負担・高福祉」という「大きな政府」をめざすのに、アメリカだけは「低負担・低福祉」という「小さな政府」をめざす。そのせいで不幸になるとしても、それでもなお自分のエゴを最大化しようとする。
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こうして、はっきりとするだろう。アメリカンな「自由」とは、「エゴ」の別名なのである。「こうしたい、ああしたい」という欲望があり、その欲望を突き進めたい。そのせいで、他人が銃で死のうが、貧しい人々が病気で死のうが、知ったこっちゃない。自分だけが大事なのだ。自分のエゴだけが大事なのだ。そして、それを邪魔する政府を「悪」と見なすのだ。
ここで、政府を「悪」と見なすためにあるのが、「自由」という概念だ。この概念によって、「エゴ」は是認される。エゴを阻止する政府は、「自由」を阻害する悪なるものと見なされる。
つまり、「自由を守れ」という言葉で、政府の干渉を排除し、おのれのエゴを突き進めようとする。ここでは、「自由」という概念は、エゴを正当化するための装いとなっている。エゴというものは、「自由」という装いをかぶることで、悪しきものから善なるものに転じてしまうのだ。
つまり、エゴを善に見せかけるための詐欺的な概念が、「自由」という概念だ。この言葉をかぶせることで、エゴは「自由」として正当化される。
たとえば、次のように。
・ 市民が銃をもつのはエゴだ → 銃をもつ自由を守れ!
・ 相互扶助を拒むのはエゴだ → 相互扶助を拒む自由を守れ!
こうして、アメリカンな意味での「自由」というものが判明した。その正体は、エゴである。
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そして、ここまで来れば、経済学的な意味での「自由」もわかってくる。
経済におる自由主義とは、市場原理だ。そこでは各人・各社のエゴがぶつかりあう。そのエゴのぶつかり合いを通じて、配分の最適化が起こる。……これは「ワルラス的調整過程」と呼ばれる。
しかしながら、「市場原理による配分の最適化」というの原理が働かなくなるときがある。それは、不況のときだ。不況のときには、均衡点に到達することが不可能となるので、不均衡状態となる。( → トリオモデル)
この場合には、自由放任では、物事は解決しない。では、どうすればいいか? ここでは、政府が力を奮う必要がある。「均衡点に到達できない」という状況を、「均衡点に到達できる」という状況に、転じる必要がある。そして、そういうふうに状況を転じさせるにはどうすればいいかを、マクロ経済学は教える。
( ※ 簡単に言えば、総需要を拡大するには、総所得を拡大すればいい。なお、特定の産業を推進するのは、駄目だ。土木建設業や、福祉産業や、IT産業など、特定の産業を推進するのは、駄目だ。全産業を推進する必要がある。そのためには、総需要の拡大が大切だ。)
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マクロ経済学は、不況期における政府の役割を教える。しかしながら、「自由」という概念にこだわっていると、政府による干渉を嫌がり、そのせいで、いつまでたっても不況から脱せなくなる。それが日本だ。
そして、そこでは、「自由」を大切にするという精神性が大きく影響している。不況期の日本は、「自由」を大切にするあまり、かえって不況に縛られ、自由を失ってしまう。
そして、その理由は、本項から明らかだろう。「自由」という言葉にだまされて、自由の本質はエゴであると見抜けないからだ。そのせいで、状況をエゴとエゴのぶつかり合いに委ねてしまう。政府はなすべきことをなせずにいる。
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現代の日本を支配しているものは、「自由」という概念だ。そのせいで、エゴのぶつかり合いを避けえない。「市場原理の推進」というような小泉流の構造改革路線が支持されることはあっても、「政府による大規模な財政政策」という反・自由主義的な政策は支持されない。
われわれが現在、貧しくて不自由な生活を強いられているのは、「自由」という概念にとらわれすぎているからなのだ。そして、その概念のせいで、美名に欺かれ、おのれのエゴをエゴだと正しく認識できずにいるからなのだ。
自由というものを信じるせいで不自由になるのは、逆説ではなく、物の道理だ。そこにあるのは「自業自得」という原理だ。そして、それに気づかないから、阿呆はいつまでたっても、蟻地獄のような状況から抜け出せないのである。
現代のわれわれは、自由という概念に囚われるあまり、ひどく不自由になっている。われわれにとって何よりも大切なのは、「自由」という概念から自由になることだ。自由そのものから自由になることなのだ。そのときこそ、エゴの桎梏(しっこく)から逃れることができる。
( cf. 自由からの逃走 ( E・フロム)
[ 付記1 ]
本項の話をよく理解するには、「自由」という言葉を、「わがまま」と言い換えるといいだろう。人々は「自由は素晴らしい」と述べることが多いが、実は「わがままは素晴らしい」と述べているにすぎない、ということが多い。(「わがまま」は「エゴ」とほぼ同義。)
「自由とは何か?」という問いに、「自由とはわがままのことだ」と答えることもできる。(ある範囲内では。)
[ 付記2 ]
自由なんて、たいした原理ではない。そのことが「わがまま」という言葉から察されるだろう。
実際、世の中のたいていの行動は、「自由」ないし「わがまま」よりは、「組織としての協調」の方が重視される。
たとえば、サッカーだって、各人が自由に(わがままに)行動するよりは、組織として協調的に行動する方が勝てる。野球だって、他の団体競技だって、同様だ。
もちろん、たいていの経済活動もそうだ。企業では組織的な活動が重視だ。勝手な個人プレーなんて有害であるのが普通だ。
[ 付記3 ]
経済学の分野でも、ほぼ同様である。
「経済では自由が大切だ」
というのは市場原理だが、それが当てはまるのは、限られた範囲だけのことだ。(ミクロ経済学の資源配分という分野。最適配分の問題。)
それ以外の多くの分野では、政府の財政政策や、中央銀行の金融政策が、とても大切となる。そこでは最適の経済政策が望まれる。そして、最適な経済政策とは何かを、経済学は考える。
[ 余談 ]
最適な経済政策とは何かを考えるとき、「ルールか裁量か」という問題を出す人もいる。
こういう人は、古典派経済学者で、「自由こそ最適だ」という発想をもつ。だから、「自由を制限するのは、ルールか、(恣意的な)裁量か」というふうに考える。(頭悪いですね。)
最適な経済政策は、「ルールか裁量か」という法的な形で現れるのではなく、「有益か無益か有害か」という経済学的な形で現れる。ここでは「どうするべきか」という原則論ではなく、「どうすればどうなるか」という経済分析こそが大切となる。(つまり科学主義ですね。)
大切なのは、「こうすればこうなる」という科学的な発想なのだ。それを理解できない人々が、経済学の分野で、マクロ経済学を研究するかわりに、「自由放任にすればすべてうまく行く」という市場原理主義を唱える。これは、経済学的な宗教と言えるだろう。経済において「自由こそ大切だ」と唱える人は、自由教という宗教の信者だと見なせる。(それが古典派。)
【 関連項目 】
→ 自由とは何か? (政治)
今みたいな警察が調べれば分かるくらいの匿名性がいいのか、もっと透明にしたほうがいいのか、もっと自由(匿名)にしたほうが世の中よくなるのか?
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/347.html