◆ 自由からの自由:  nando ブログ

2010年07月02日

◆ 自由からの自由

 現代では、自由そのものが抑圧をもたらす。こういう逆説的な状況では、自由からの自由こそが大切だ。

 ──

 自由は本来、抑圧からの自由である。しかし現代では、自由そのものが抑圧をもたらす。そういう逆説的な状況となっている。
 なぜか? 前々項前項を見ればわかる。
 「保守主義のもとでは、自由とはエゴのことだ。自由を拡大しようという名分のもとで、エゴが拡大する。そこで弱肉強食の原理が働けば、弱者は強者のエゴに抑圧される」

 
 具体的には、次のような例だ。
 「企業と労働者では、力の差がある。企業は強く、労働者は弱い。強い企業がエゴをつらぬこうとすれば、弱い労働者は企業のエゴに踏みにじられる。つまり、失業・賃下げ・無賃労働などを強いられる。特に不況下では、労働者が圧倒的に不利になり、ひどく踏みにじられる」


 こういう形で、強者のエゴに、弱者は抑圧される。そして、ここでは、「エゴ」は「自由」であるから、自由を拡大するせいで、人間はかえって抑圧されることになる。
 そして、人間を自由にしようとすれば、人間を抑圧から解き放とうとする必要があり、つまり、自由(エゴ)から解き放とうとする必要がある。

 結局、現代では、人間が自由になるためには、自由(エゴ)から自由になる必要があるのだ。

 ──

 ここまで来れば、「自由」というものが美徳でも何でもないことがわかる。
 保守主義は「自由」を美徳と見なして、「政府からの自由」を目的とする。しかし、それで生じるのは、「強者のエゴ」であり、「弱者への抑圧」である。
 その典型的な例は、「経営者の高給与」である。アメリカの経営者は、ろくに経営できなくても、莫大な高給与を得る。たとえば、倒産した自動車メーカーのGMとか、倒産した証券会社のリーマンとか、枚挙に暇がない。
 なぜこれらの経営者は高給与を得たか? 優秀だからか? まさか。企業を倒産させる経営者が優秀であるはずがない。これらの経営者が高給を得たのは、自分で自分の給与を決めることができたからだ。そして、一定の原資のなかから、経営者の給与を多額にするには、従業員の給与を下げるしかない。もちろん、労働者も給与を高くしてほしいが、労働者にはその決定権がない。そこで、経営者のエゴと労働者のエゴがぶつかりあったあげく、経営者のエゴが労働者のエゴを抑圧し、労働者の利益を奪い取る。……これがアメリカ的な「自由」の正体だ。

 繰り返す。自由とは、エゴのことである。そこでは、「自由による競争のおかげで社会の発展」があると提唱されるが、現実にはそんなことはない。現実にあるのは、「エゴのぶつかり合いと弱肉強食により、強者は弱者の利益を搾り取る」ということだ。
 これはほとんどマルキシズムの発想に近く聞こえるが、現実に事実となっている。経営者と労働者の富の分配比率を見ると、アメリカでは経営者の取り分が圧倒的に多い。(日本人経営者で年収1億円以上がごく限られていることからもわかる。)

 ──

 このように、現代では、自由を抑圧するものは、自由(エゴ)である。
 昔ならば、「王制」という強大なものが、「市民」という大多数の弱者を抑圧した。そのような抑圧から自由になることが、人権として大切だとされた。
 現代では、「経営者」「資本家」という強大なものが、「労働者」という大多数の弱者を抑圧する。そのような抑圧から自由になることが、人権として大切だ……という発想がある。その発想が、リベラリズムと呼ばれる。リベラリズムとは逆の発想が、保守主義である。

 個人の自由があまりにも強大になると、その自由が他者の自由を抑圧する結果になる。現代の抑圧は、そのような形の抑圧となる。つまり、現代における真の自由は、自由からの自由という形を取る。そして、自由からの自由を得るには、強大すぎるエゴを制限するように、国家が一定の役割を果たす必要がある。その具体的な例が、「富の再配分」であり、「高所得者への高率課税」である。
 いずれにせよ、弱者が自由を取り戻すためには、政府の関与が大切だ。(それがリベラリズムの発想だが、それは正しい。)



 [ 付記1 ]
 「高所得者への高率課税」は、「所得税の最高税率を高くする」という形を取る。
 保守主義(リベラリズムの逆)であれば、当然、それを阻止しようとするだろう。つまり、「最高税率を引き下げよ」というふうに主張する。
 それに従えば、「日本でも最高税率を引き下げると、アメリカの優秀な経営者が日本にやってくるだろう」となるはずだ。
 しかし、そのとき起こる現象は、「アメリカの優秀な経営者が日本の企業を発展させて、その対価として高給を得る」のではなく、「アメリカの強欲な経営者が日本の労働者の給与を奪って、略奪の形で高給を得る」というふうになる。(それがアメリカ的な自由の意味。)

 [ 付記2 ]
 「自由競争による社会の発展」というものを保守主義は信じるが、そんなものはろくに成立しない。成立するのは、「自由競争による弱肉強食」である。つまり、「富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる」という結果である。小泉の構造改革路線はそれをめざしたから、まさしく弱者である労働者はますます貧しくなった。

 [ 付記3 ]
 「自由競争による弱肉強食によって経済が発展する」という思想は、あまりにも経済的な現実について無知な発想だ。どうせ自然淘汰の原理を理屈にするならば、生物界の現実を見るがいい。「自由競争による弱肉強食」という名のもとで、弱者は次々と死んでいく。
 自然淘汰の原理とは、文化や文明を持たない野獣レベルの原理なのである。人間は、野獣と違って、社会を形成し、文化を形成した。せっかく高度なレベルに達したのだ。なのに、今さら「自由競争による弱肉強食」という原理を取ろうとするのは、愚かというしかない。(文明人から原始人に戻るようなものだ。)
 そして、そういう愚かな原理に従う小泉を首相とした時代に、日本は経済レベルを著しく下げていったのである。頭の悪い国民が、頭の悪い首相に従った時代。
  → 一人あたり国民所得

 
posted by 管理人 at 19:32 | Comment(0) | 政治 このエントリーをはてなブックマークに追加 
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