◆ 共同体主義(コミュニタリアニズム):  nando ブログ

2010年07月04日

◆ 共同体主義(コミュニタリアニズム)

 「自由とは何か?」という話題の関連で、「個人主義」に対比される「共同体主義」について言及する。
 ( ※ マイナーな話題。) 

 ──

 ハーバード大の サンデル 教授の 番組 および 著作 が話題になっている。この件は、周知のものとして、話を進める。
( ※ 知らない人は、適当に検索するといいだろう。)

 このサンデル教授の立場は、どのような立場か? 「リベラリズムに対する共同体主義(コミュニタリアニズム)だ」というふうに見なされているようだ。
 では、共同体主義とは、何か? ── これが本項のテーマだ。

 ──

 あちこち調べたが、ざっと次のようにまとめられる。
  ・ 共同体主義の反対概念は、個人主義(リバタリアニズム
  ・ 共同体主義は、リベラリズムへのアンチテーゼとして生じた。


 cf. 参考サイト
  → はてなキーワード
  → 簡潔なまとめ

 ──

 あちこちのサイトを見た後で、私なりにまとめよう。共同体主義の主張は、次のようになるだろう。
 現代アメリカや先進国では、「自由」というものが至上価値となっている。特に、個人主義(リバタリアニズム)的な発想では、個人というものがまったく単独で勝手にふるまうのが善だというふうに見なされる。
 このような個人主義が行き過ぎると、各人はバラバラな状態になってしまう。自由の行きつくはては、人間同士が結びつきをもたないバラバラな状態となる。
 しかしながら、人間は社会のなかで生きているはずだ。つまり、村や学校や国など、さまざまな共同体のなかで生きているはずだ。このような共同体との関係が大切だ。これを喪失してはならない。
 これが「共同体主義」の発想だ。それは、自由という概念へのアンチテーゼとしてある。現代ではリベラリズムの概念が優勢だが、リベラリズムの概念だけでは済まないのだ、と主張する。人間は自由であればいいのではなく、所属する村や国との関係も大切なのだ、と考える。

 ──

 共同体主義とは何かを、以上のようにまとめた上で、私なりに評価しよう。

 共同体主義の発想は、別に珍しくもない。「個人がバラバラになったせいで、諸問題が生じる」という発想は、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の延長上にある。たいていの人なら、「二番煎じだな」と感じるはずだ。その意味で、目新しさはない。

 ただ、より本質的に評価するなら、これはいわゆる「保守派」(本サイトでは「守旧派」と呼ぶ)の発想である。それは古臭い共和党や自民党の発想だ。
  ・ 米国では、キリスト教 守旧派などの右翼。
  ・ 日本では、靖国神社を尊重する右翼。

 いずれも、宗教性を帯びるが、同時に、国家への帰属を重んじる。
 この「国家への帰属を重んじる」という点が、共同体主義の特徴だが、それを重視する守旧派は、同時に宗教性を帯びることが多い。というのは、統一宗教のもとで、統一国家を形成することが重視されるからだ。

 ──

 このような守旧派は、どこの国にも見られる。しかし、時代遅れになりつつあるものだ。彼らが何を語ろうが、「老人の繰り言」というふうにしか見なされがちだ。
 なぜか? 共同体主義者は、個人主義が行き過ぎることを嘆くが、個人主義がどんどん進むことは、どうしようもない時代の流れだからだ。
  ・ 電話は、家庭に1台から、個人に1台へ。
  ・ 家庭の間取りは、子供にも個室。
  ・ 子供の遊びも、缶蹴りや馬跳びから、一人でやるゲームへ。

 このように個人主義の傾向が深まるのは、時代の流れというものだ。それはどうしようもない。

 ──

 このように個人主義が進むという現代の風潮に、問題があることはわかる。共同体が弱まることで、人と人との結びつきが弱まる、という問題はわかる。だから、このような風潮に抵抗したい、という気持ちもわかる。(たとえば、ケータイやゲームのやりすぎに反対するのは、私も同意見だ。)

 しかしながら、流れに抵抗するのはいいとしても、流れを逆流させることは無理だ。今さら「ケータイを使うな」と言っても無理だし、「ゲーム機を全廃せよ」と言っても無理だ。「子供たちが遊ぶのならば、缶蹴りをやれ」と言っても無理だ。
( ※ なぜ缶蹴りが無理かというと、住宅街では家々の土地が門扉や塀で分断されており、子供たちが家々の裏庭などを走り回れないからだ。)
  
 ──

 まとめて言おう。
 共同体主義は、個人主義や自由主義へのアンチテーゼとして生じた。個人の自由ばかりを唱えていても、それでは済まないぞ、というふうに。
 その指摘は正しい。ただし、それは、自由主義に対する注釈にすぎない。共同体主義は、それ自体で一つの主義をなすことができない。「共同体を重視せよ」と極端に主張すれば、全体主義になってしまうが、そんなことはハナから無理だ。また、個人主義が進むという現代世界の風潮を、阻止しようとしても、とうてい無理だ。世の中の流れは、共同体を弱め、個人を尊重しよう、という方向に進んでいる。昔は人々が相互に助け合わないと生きていけなかったが、今は人は個人だけでも生きていけるようになった。そういう時代には、個人主義の風潮が高まっていくのは、どうしようもない時代の流れだ。
 共同体主義は、それを批判する。しかし、それはもはや、老人の繰り言に近い。具体的に言えば、次のような主張だ。
  ・ 靖国神社を大切にしよう
  ・ 国旗・国家を敬おう
  ・ 天皇陛下を敬おう
  ・ 社歌を歌い、社員としての精神的団結力を高めよう
  ・ 制服を着て、みんな同じ服装にしよう

 こういう発想は、もはや時代遅れである。
 なるほど、「現代では個人主義や自由主義が行き過ぎていて、個人がバラバラになっている」という批判はわかる。私もその批判に賛同する。しかし、それはあくまで、個人主義や自由主義への注釈であるべきだ。ひるがえって、「共同体のもとで団結しよう」というような発想は、年寄りの繰り言にすぎないのである。

 比喩的に言おう。バラというものは、赤い方がいい。が、だからといって、赤ペンキみたいにケバケバしい赤は、好ましくない。赤がいいからといって、赤が行き過ぎるのも考え物だ。だから、適度に、赤でない色が混じっている方がいい。
 しかしながら、赤でない色が混じっている方がいいからといって、その反対の緑色のバラは、バラとして美しくない。赤が行き過ぎると駄目だからといって、赤の反対にすればいいというものではないのだ。

 共同体主義は、自由主義への批判としてなら、意義はある。しかし、独自の主義となるだけの意義はない。もちろん、ナチス的・ファシズム的・共産主義的な全体主義など、論外である。
 共同体主義は、それ単独の主義としては成立せず、自由主義への注釈としてのみ意義がある。



 [ 付記 ]
 サンデルの講義は、非常に好評だ。その点で、彼の語り口はいい。物事の問題点をうまく切り出して、どこが問題であるかを示す。……その語り口は鮮やかだ。
 しかしながら、考える経路はよくても、彼の発想の最終的な到達点は、真実からは大幅に逸れてしまっている。「リベラリズムは完全ではない」というふうに主張したいのだろうが、どうせならば、より正確に、「リベラリズムを補完する」という方向に進めばよかった。しかるに、彼は自尊心が高いので、他人の補完勢力になることを、潔しとしなかった。自分で一つの勢力を作り上げようとした。しかし、もともと補完勢力にすぎないものが、一つの主義を作り上げようとすれば、真実を歪めることになる。

 私の考えでは、サンデルは、「天才のなりそこね」という位置にある。天才を理解し、天才の難点を見出し、自らも天才になりたがっているのだが、あいにく、その力量がない。にもかかわらず、天才のフリをしようとするので、真実のかわりに、虚偽にたどりついてしまう。
 サンデルを見ると、「天才になろうとしてなれなかった人間の悲劇」というふうに見えてしまう。モーツァルトに比するサリエリのような立場か。

( ※ ただ、その時代では、モーツァルトよりは、サリエリのような人物の方が、人気を博す。)



 【 補説 】
 サンデルは、どうすればよかったか? 私はこう考える。
 「そもそも人間性というものは、複雑で多様だ。自由一辺倒で物事が片付くはずはない。自由のほかに、共同体性というものも大切だ。だから、両者をあわせて考えればよかった」
 「サンデルは、自由主義を外部から批判するのではなく、自由主義の内部に留まって、自由主義に共同体性を付加して、自由主義を発展させればよかった」

 これはいわば「止揚」(アウフヘーベン)である。そうすれば、従来の理論を一歩高めることができた。ところが、従来の理論を否定しようとしたから、間違った道に逸れてしまったのである。
 
 サンデルは、自由主義を批判するのではなく、「自由主義と共同体」というタイトルで、両者の関係を論じる論文を書けばよかったのだ。ところがどうトチ狂ったか、自由主義を批判しようとした。やらなっくてもいい喧嘩をふっかけた。そのせいで、真実に近づくかわりに、真実から遠ざかってしまったのである。
 他人の粗探しばかりをしている人は、こういう傾向がある。真実に近づこうとして、かえって真実から遠ざかる、というふうな。
 
  
posted by 管理人 at 20:10 | Comment(4) | 政治 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
なんてアホな解釈だ。
インターネットで断片的な情報だけ集めるからこうなる。
政治哲学の入門書なり読みなさい。
個人がバラバラになるとかではなく、共同体の中でしか個は成立しえないというのが共同体主義の発想だ。
Posted by おい at 2014年12月30日 17:06
> 共同体の中でしか個は成立しえないというのが共同体主義の発想だ。

 それは本項の中でそのまま「それが共同体主義の発想だ」というふうに説明してあるでしょ。私が言っていることをなぞっているだけじゃない。
 本項を読んでいないの? 読んでから書きましょう。

 ※ 本項は、上記の主張を踏まえた上で、それへの反論だ、という形で構成されています。
 あなたの言っているのは、「反論は元の主張とは違うぞ」と言っているだけ。当り前じゃない。

 ※ あなたは本項を Wikipedia か何かと勘違いしているんでしょうね。大いなる勘違い。
 本項は、「共同体主義とは何かを、元の論者の主張の解説として示す」というものではなく、その先に進んでいます。
Posted by 管理人 at 2015年01月02日 11:13
どうも。
読ませていただきましたが、ちょっと反論が。

まず、共同体に価値を置くということは老人だけが言っていることでもなければ、時代遅れでもないのではないでしょうか。最近のナショナリズムへの傾倒は、日本だけではなくヨーロッパ諸国でも若者を中心に隆盛しており、あなたのイメージする「古い層の人々」の意見というのは大分現実離れしているのではないでしょうか。伝統重視=老人といった考え方の方が「古臭い」気がします。

また、より根本的なこととして、「個人主義的になるのは時代の流れ」とおっしゃっていますが、そのような時代の流れにも関わらず、人間は所属する様々な共同体において様々な価値観や規範を形成してきた、ということがコミュニタリアニズムのミソなのでは。

個人がバラバラになっているように「見えて」、実際は様々な準拠集団から道徳や規範を学んで、今の自己を形成してきたわけですね。リベラリズムにはそういう自己と社会との交わる部分、不可分な部分をまるで可分であるかのように、社会と自己を分離して見せるところに根本的な矛盾があるように思えます。

あと、右翼とか靖国とかおっしゃってますけど、コミュニタリアニズムを根本的に誤解されているのでは?コミュニタリアニズム自体は、右翼だろうが保守だろうがサヨクだろうが、それに肩入れすることは可能ですよ。小さな共同体を重視し、国家権力とは対立するという構図を作り出すのは、一種のコミュニタリアニズムですし、サヨクのお得意の戦法ですからね。

まあ、結構前に書かれた記事ですので、書き込むのも迷ったのですが、言わせていただきました。
やはり、「時代遅れだからダメ」というのは一種のトートロジーのように感じますね。
百歩譲って時代遅れであったとしても、それはコミュニタリアニズムの論理に関して言及しているのではなく、ただ「古いからダメ」と言ってるに過ぎないので。全体的に批判が批判になっていないという印象でした。
Posted by パル at 2015年06月11日 06:50
> 「古いからダメ」と言ってるに過ぎない

 そんなことないでしょ。ちゃんと読んでください。

> 個人がバラバラになっているように「見えて」、実際は様々な準拠集団から道徳や規範を学んで、今の自己を形成してきたわけですね。リベラリズムにはそういう自己と社会との交わる部分、不可分な部分をまるで可分であるかのように、社会と自己を分離して見せるところに根本的な矛盾があるように思えます。

 そうですよ。そういうふうに説明してあるでしょ。次の言葉で。

 「 共同体主義は、個人主義や自由主義へのアンチテーゼとして生じた。個人の自由ばかりを唱えていても、それでは済まないぞ、というふうに。
 その指摘は正しい。」

 その上で、次のように補足しています。
 「ただし、それは、自由主義に対する注釈にすぎない。」
 「「リベラリズムは完全ではない」というふうに主張したいのだろうが、どうせならば、より正確に、「リベラリズムを補完する」という方向に進めばよかった」

 あなたは誤読しているようですけど、私は、リベラリズムの立場から共同体主義を批判しているわけじゃありません。否定しているわけでもない。「価値が小さい」というふうに、価値評価を低めにしているだけです。プラスが小さいだけで、マイナスになっているわけじゃない。

Posted by 管理人 at 2015年06月11日 12:35
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