悪についてどう語るか? 「悪は人間にとって不可避だ」と語ればいい。
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「正義とは何か?」を人は語りたがる。それというのも、人は正義を求めるからだ。「自分は正義でありたい」「自分は正義をめざす」「自分は正義である」というふうに思いたがる。
しかし、いくら正義を望もうと、人は常に「悪」を帯びる。悪は不可避である。その現実を自覚することが大切だ。
人は常に悪を帯びる。このことを教えるのは、哲学や倫理学よりも、文学である。特にシェークスピアの作品は、人間の悪の面をまざまざと描写する。(「リチャード3世」など。)
「いや、自分は悪人じゃないぞ」
と思う人も多いだろうが、多かれ少なかれ、「悪」は人間に不可避的に備わるのだ。そのことを理解しないで、「自分は正義だ」と信じると、自惚れのあげく、自己に対して盲目となり、意識しないまま「悪」をなしがちだ。
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一見「正義」と見える事柄のうちにも、いくらかは「悪」が含まれる。「正義」の内に含まれる「悪」を理解するには、立場を逆転させて、その正義をなされる相手の立場で考えるといい。
「AがBに対してなす行為は、正義である」
こう信じたとき、自分がAの立場になっていることが多い。このとき、立場を逆転させて、Bの立場になって考えるといい。そうすると、Aの立場の「正義」と見えたものが、いかに「悪」を含むかが、理解されるようになる。
( ※ 前項の「ブレーキの壊れた列車」の例では、自分が被害者になる立場で考えるといい。)
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このことを理解するには、サンデルの著作の例が役立つ。
→ これからの「正義」の話をしよう(サンデル著)
この著作には、次のような話題がある。
米軍兵士が、アフガンで、民間人を捕虜にした。しかし、捕虜を縛るロープがない。捕虜を連れていくことができない。だから、「殺す」か、「解放する」か、二者択一だ。兵士はどうしたか? 軍人としては、「殺すべき」と判断したが、キリスト教徒としては、「解放するべし」と感じた。迷ったすえ、「解放する」という結論を下した。ところが、その後、アフガンのテロリストが大挙押し寄せて、米軍兵士を(一人を残して)皆殺しにした。捕虜を生かしておいたせいで、米軍兵士がいることがバレてしまったらしい。……この場合、米軍兵士は、たとえ人道的ではなくとも、捕虜を殺すべきだったのだ。サンデルは「捕虜を殺すべきだった」と考える。なるほど、自己の生存を何よりも優先するという立場からは、そうだろう。
しかし、「正義は何か?」と考えるときに、本当に「殺すのが正義だ」と言えるだろうか? この問題をよく考えるには、立場を逆転させるといい。
あなたは、米軍兵士でなく、アフガン人の捕虜である。捕虜として、米軍兵士に逮捕された。このあと、あなたは殺されるべきか? 「たとえ無実ではあっても、あなたは殺されるべきだ」という結論が出るとしたら、正義はどこにあるのか?
同様のことは、他にも考えられる。
昔、日本軍が南京を支配したとき、民間人のなかから 便衣兵 が出現して、日本軍の兵士を次々と殺していった。この場合、上記の捕虜よりももっと確実な形で、「日本軍の兵士は(自らが生きるために)民間人を殺すべきだった。ゆえに、南京の人間を皆殺しにするべきだった( 10万人どころか数百万人を皆殺しにするべきだった)」という結論になるのか?
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以上から結論を下せば、こうなる。
「自分が生きるためには、殺すべきだった」
という(自分本位の)結論が出るとしても、それによって、その「するべきこと」が正義または善になるとは言えない。「なすべきこと」と「正義・善」という概念とは異なる。
そもそも、「自分の生命を守る」というエゴ的な行為と、「正義」という社会的な公正さの問題とは、同列には論じられない。自分の利益のために「なすべきこと」と、社会的公正さの観点から「なすべきこと」とは、異なる。
先の例も同様だ。捕虜を殺した米軍兵士の場合、自己の生命を守るためには、捕虜の殺害が必要だったかもしれない。しかし、自分には必要だったとしても、それは正当化されない。いかに「やむを得ない」としても、正当化はされない。
そもそも、戦争という行為が、根源的に悪なのだ。悪をなすための行為は、何であれ、正義にはならない。たとえそれが自分の命を守るための正当防衛の行為であっても、悪の最中になすのであれば、それは正当化されない。悪のさなかでは、「なすべきことをなす」のは、善ではなく悪なのである。
( ※ 例。銀行強盗をぶんなぐろうとした人を、銀行強盗が逆にぶんなぐって殺したなら、その行為は正当化されないし、むしろ、罪を増す。悪をなすための権利というものは存在しない。)
米軍兵士が捕虜を殺すことは悪である。このことは、次の諸点からも判明する。
・ 捕虜の釈放と、テロリストの襲来とは、無関係かもしれない。
・ 民間人を捕虜にすることは、戦争犯罪と見なされる。
・ 捕虜を殺すことは、国際法(ジュネーブ協定)違反。
ともあれ、このようなこと(戦争犯罪ないし国際法違反の行為)は、れっきとした「悪」である。それを「正義」と見なすことは不可能だ。
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話を戻そう。米軍兵士は、捕虜をどうするべきだったか?
捕虜を殺すことが悪だからといって、「悪をやめよ」「かわりに死んでしまえ」とは言わない。そういう結論にはならない。(「米軍兵士は捕虜を解放して死ぬべきだった」とは言わない。)
では、何を言うか?
まずは、こう言おう。
「世の中には、必要悪というものもある」
悪は悪でも、必要悪というものがある。この悪は、「必要だから、悪でも免除される」という意味ではない。その逆だ。「必要であっても、悪は悪であり、免責されない」という意味だ。(情状酌量はされるが。)
( ※ 前項 「正義とは何か?」参照。)
さらに、こう言おう。
「人間にとって悪は不可避だ」
そもそも、純粋な善というものは、ほとんどありえない。あらゆる行為は、多かれ少なかれ、悪を帯びる。そのような部分的な悪を、きちんと自覚するべきなのだ。
米軍兵士ならば、「捕虜を殺すのは正当だ」と述べるのではなく、「捕虜を殺すのは必要だったとしても、それは悪だった。悪の性質を帯びていた」と自覚するべきなのだ。
これと似た発想はある。牛や豚を殺して食べること(肉食)を「罪深い」と意識することだ。「牛や豚は、養殖されたものだから、殺してもいい」というふうに自己正当化するのではなく、「牛や豚を殺して食べることは罪深いことだ。しかし自分は罪深いことを避けてベジタリアンになるのではなく、罪深いことをしていると自覚しながら、牛や豚を食べざるをえない」と自覚することだ。
似た例は、サンデルの著作にもある。
難破船で、食糧がないまま、船員4人が餓死しそうになった。このまま餓死するべきか? 船長は、クジ引きで一人を死なせることを提案したが、拒否された。そこで、最も衰弱した船員を殺して、他の3人が生き延びた。1人を死なせて3人を救うことは、正義か? 正義ではない。そこには悪がある。しかしながら、悪をなさなければ、4人の全員が死んでしまったはずなのだ。
「必要なこと」をなさざるをえなかったが、しかしそれは、「正義」ではなく、「悪」だったのである。ここでも、「なすべきこと」は、「正義」ではなく、「悪」なのである。
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まとめ。
人間は悪をなさざるを得ない。人間にとって悪は不可避である。── そのことを自覚するべきだ。そして、自らなした悪を隠蔽せず、直視するべきだ。逆に、悪をなしながら「自己は正義だ」と強弁することは、あってはならない。
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教訓ふうに言おう。
善や正義をめざすのはいいが、自分が善や正義に染まりきっていると考えるべきではない。特に、捕虜などの人を殺すことを「善だ」「正義だ」などと考えるべきではない。むしろ、「人間にとって悪は不可避だ」と理解して、おのれの悪を認識するべきだ。
たとえば、アフガンで民間人を殺して、そのおかげで自分が生きながらえたとしよう。それは「正しいことをした」というふうにはならない。むしろ、「悪いことをしたから自分は生きている」と考えるべきだ。
とすれば、一番大切なのは、おのれの悪を直視する勇気なのだろう。この勇気をもつ人だけが、「公正」という言葉に値する。
人は神ではない。人は悪もなす。そういう事実を直視して、過去の悪を認識するべきだ。悪をなさなければいいのではなく、かつてなした悪を認めて反省することが大切なのだ。
人がなすべきことは、これから正義をなすことよりも、過去になした悪を自認することだ。あるいは、正義のうちに含まれる悪に、目をふさがないことだ。
[ 付記 ]
具体的に「悪とは何か」を考える必要はない。ほとんどすべての現象は、部分的に悪を含む。悪の度合いが小さいか大きいかという違いはあっても、何らかの悪を含む。
現実の現象は、「善だ」「悪だ」と割り切れるようなものではなく、複合的なものなのである。そのことをわきまえた上で、善の面や悪の面を認識するといい。
ひるがえって、「正義とは何か?」ということばかりを考えていると、悪の面を見失う結果になる。そうして真実から遠ざかる。……それが一番困ったことだ。
考えることはいいが、考えたせいで、かえって間違うこともある。何かを考えるなら、何か真実を見出そうとするだけでなく、「おのれは間違っていないか」と反省することが大切だ。
真実を発見することよりも大切なことは、おのれの間違いを見失わないことだ。
この結論は素晴らしい。
ただ
>悪をなさなければいいのではなく、かつてなした悪を認めて反省することが大切なのだ。
というのには賛成できない。
牛や豚を殺して食べることの例が身近な事例だが、我々日本人は食事の前に「いただきます」と犠牲になってくれた他の生命に感謝する習慣がある。
他の生命を犠牲にするという悪を認めたあとで、反省するか、それとも感謝するかで、大きな違いがある。
前者なら生きるのが辛くなるが、後者ならそんなことにはならない。
瑣末なことだが、
>しかし自分は罪深いことを避けてベジタリアンになるのではなく、罪深いことをしていると自覚しながら、牛や豚を食べざるをえない」と自覚することだ。
ベジタリアンも植物という他の生命を犠牲にしていることを忘れてはいけない。
己の罪深さを自覚した上で感謝すれば良いのでは?
感謝のみではBの立場の人が救われないような…まあ、この場合は所詮家畜の話と言われればそれまでですが。
「上で」の意図する所は、罪深さの自覚の後に勝手に仄かな感謝の念が発生するのは致し方無いが、自分が辛いからと言う理由で罪悪感を感謝にすり替えるのは倫理的にも精神衛生的にも危険だと言う事でした。
反省は常に必要だと思いますし、この場合の自覚から反省を分離させる事は難しいと思います。
たとえ辛かったとしても罪悪感をもちつづけることによって、倫理的にも精神衛生的にも健全になれるというのだろうか。全く理解出来ない。
さて、ここで電車の中で席を譲る場面を想定する。
ある若者が席に座っている。ふと周りを見渡すと、松葉杖をついたおばさんが目に入った。そこで「ここにお座りください」と話しかけつつ、席を譲った。若者をAとし、松葉杖を付いている人をBとする。
<反省バージョン始まり>
B:本当にごめんなさいね。お仕事で疲れてるでしょうに。私がのろまだから転んで怪我しちゃったせいで、あなたのような若者に迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないね。
A:(心のなかで)かえって心の負担になってしまったようだ。こっちが席を譲らなければ、おばさんも謝ることはなかったのに。
こうしてBは反省しつつ、申し訳ない気持ちでその日を過ごし、Aは今後、席を譲るべきかどうかで心を悩ますことになった。そして周りにいた人たちも、なんだか惨めな気持ちでその日を過ごした。
<反省バージョン終わり>
<感謝バージョン始まり>
B:ありがとうね。お仕事で疲れてるでしょうに、本当に心の優しい人ですね。怪我をしたのは自分のせいなのに、あなたのように親切な人がいて、本当にありがたく思います。
A:いいえ、困ったときはお互い様ですから、どうぞお気になさらずに。
こうしてBは感謝しつつ、明るい気持ちでその日を過ごし、Aは今後も席を譲ると積極的に心に決めたのだった。そして周りにいた人たちも、なんだか愉快にその日を過ごした。
<感謝バージョン終わり>
実は反省バージョンは日本社会の縮図だ。
海外在住の方、帰国してびっくりしたもの何ですか?(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/1211/281431.htm?o=0&p=0)に
・高校生の男の子や会社員の目が死んでいたこと。ショックでした。
とある。これは日本にずっといる人には分かってもらえないことが多い感覚なのだが、日本で街中を歩いていても、幸せそうな人が実に少ないのだ。こんな暗い社会が、日本以外にあるのだろうか。
ところで日本社会における「反省」には、「反省の気持ち」しかなく、行動が伴っていない。だからこそ既存の問題は何も片付かず、そのくせ気持ちだけは惨めになっていく。それならいっそのこと反省の気持ちなど捨ててしまったほうがマシだ。少なくとも気持ちだけは楽しく過ごせる。メキシコ人やフィリピン人がいい例だ。
倫理的にも精神衛生的にも健全になれる方法は、「自分は正しい、相手は間違っている」というふうに言い張ることです。その結果、人々はいがみあうことになる。
これが現状。
なので、反省をさっぱり忘れて感謝できるならそれも良いですし、気になる人は突き詰めてみても良い。考え抜いて見える光明もある。ただ、私はこの場合の自覚は多少なりとも反省を内在させざるを得ないのではないか、突き詰めて見える光こそが感謝じゃないかと言う気がするのでそちらを推奨しますが、今流行りの食育じゃあるまいし、牛さん豚さんでそこまで要求するのも酷かと思いますので、感謝や反省は各自適切妥当にやれば良いかと思います。
でも、ここまで書いといて何ですが、自覚や反省や感謝等の定義が各人で違う以上、これ以上の話は重箱の隅位にしか行く所がないですね。
例えば、「反省」については、私は「自分の言動や在り方を振り返って改めて考え直すこと」の意で使っておりますが、これを「ごめんなさい」の意味で使っていらっしゃったら今までの話一からやり直しですし、もしかしたら、妥協できる範囲についても定義の違いで侃々諤々やっているのかも知れません。これ以上の細かい話は酒でも飲みながら膝突き合わせて詰めていかない限りは言葉遊びですね。
ちなみに、私は席を譲ろうと譲られようと、謝られようと感謝されようと特に一日のコンディションに影響する程のダメージを受けません。好きでやった訳だし。思うに、これはやはり個々人の捉え方の問題で、傷つき易い方は自分に優しく、鈍い人は厳しく(?)適切妥当に且つ後々精神衛生上歪みが出るようなコントロールをせずに対処すれば宜しいかと。あと、他の国の人の事はしりませんが、この国には形ばかり謝って、この場さえ収めてしまえば終わりと思っている人も沢山いますね。事なかれ主義と言うのか。とにかくお父さんに謝って来なさい主義と言うのか。本当に心の中だけでは申し訳無い気持ちで一杯にも関わらず行動が伴わない人もいるのかも知れませんが、本当の反省には行動が伴うものですし、口ばかりの謝罪はむしろ不快です。いや、しかしそこが日本でうまく人間関係をやっていくコツなのか…
管理人様のジョークは真理ですね。原爆を投下したスウィーニィーとイーザリーの末路を考えれば、人が背負いきれないと感じる程の罪悪を背負ってしまった時には、スウィーニィーの様に「俺は罪悪感など微塵も感じない。日本が悪いのだから」と主張する事も精神衛生上有効です。周りの人と後の人に何と言われるかは分かりませんが。逆にイーザリーの道を採る人は破滅するか、何らかの答えを得るか、どちらにしろ苦難の道を進む事受け合いです。これは流石にスウィーニィーのやり方を簡単には非難できません。罪の規模が違い過ぎて。だからこそ身近なもの位は自覚反省しようよとも思うのですが、身近で小さな罪で一々凹んでられるか感謝のみでいいよと言う人の気持ちも分からないでも無いです。そう思うとやはり個々人の傷付き易さや罪の捉え方の問題で…重箱なので適切妥当でお願いします。精神衛生上困らない範囲で。
<引用開始>
悪かったことを反省して、二度と起きないように工夫するのではなく、悪かったことを忘れ、良くする方法だけを刻み込むことなんです。
<引用終了>