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リバタリアニズムとは、自由を極端に推進する主義だ。(「個人主義」「自由至上主義」とも訳される。)
このように自由というものを野放図に推進すると、おかしなことになる。あまりにも自分勝手な結果になってしまう。
そこで、サンデルは(反対概念としての)共同体主義(コミュニタリアニズム)というものを導入した。「個人が自分勝手なことばかりを主張すると良くないから、共同体のためになるという原理を持ち込むといい」というふうに修正した。
しかし、歴史の浅い米国に住んでいるサンデルにとっては、それは「新たな知見」なのかもしれないが、日本や欧州や中国のように長い歴史のある国に住んでいる人にとっては、それは「守旧派」のように見えてしまう。伝統的な共同体のしがらみがかなり強い国では、「共同体に従え」というのは、あまりにも古臭いのだ。
とはいえ、「自由の行き過ぎ」という現象は、確かにある。それを批判する意義はある。では、共同体主義とは違う形で、いかにして自由の行き過ぎを批判するか?
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自由は、次のように見なされる。
「他人に迷惑をかけなければ、何をやってもいい」
しかし、このような発想を取ると、次のような結論が出やすい。
「賭博をやってもいい。自分も相手も合意の上だし、誰にも迷惑をかけないのだから、賭博をやる自由はあるはずだ」
このような結論が出るならば、最近話題の「相撲界の野球賭博」も容認されることになる。しかし、現実には、「相撲界の野球賭博」は容認されない。では、なぜ?
野球賭博の場合は、それが反社会的な行為だからだ。つまり、それが裏で暴力団と結びついているからだ。野球賭博をやれば、一定の寺銭が暴力団に入り、暴力団の利益を拡大するので、反社会団体である暴力団を援助することになる。……そこが問題だ。
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では、国や自治体が胴元となれば、賭博は許容されるか?
すぐ上の点(反社会団体の援助という点)は、問題がない。しかしながら、別の問題がある。それは、美濃部都知事が「ギャンブル廃止」を唱えた理由だ。つまり、ギャンブル漬けになった夫を通じた家庭崩壊だ。こういう問題が生じる。(だから防ぎたい。)
だが、このような方針(ギャンブル廃止)は、一種の「おせっかい」とも言える。どうせ自分の金であれば、たとえすってんてんになる結果になろうとも、自由であるはずだ。たとえおのれにとって損をもたらすとしても、そのような自由を認めるべきであり、政府や自治体は干渉するべきではない。……リバタリアンならば、そう主張するだろう。
これに対しては、「家庭崩壊を通じて、夫が妻や子供を傷つけるのを看過するべきではない」という反論もある。なるほど、もっともだ。
では、本人が家庭を持たず、フーテンの寅さんのような独身者であれば、賭博をする自由はあるだろうか? 他人も傷つけず、家族も傷つけず、自分を傷つけるだけであるならば、そのような自由は認められるだろうか?
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自分自身を傷つける自由── これこそが本項の核心的なテーマとなる。人はそのような自由をもつのだろうか?
これについて、サンデルは興味深い例を示した。次のような話だ。
「自分を殺して、食べてくれ」と頼む人を、募集する公告があった。それに応募する人がいくらか出現した。そして、Aという男が応募して、面接を受けて、その意思を確認してもらった。その後、Aという男は、まさしく、殺されて、食べられてしまった。その後、殺して食べてしまったBという男は、逮捕されたが、「合意の上だ」と弁明した、判決は、最初は短期の懲役だったが、最終的には長期期の懲役となった。(嘘みたいだが、実話らしい。)これは興味深い事例だ。
「個人の自由を認めよ」というリバタリアニズムに従うのであれば、Aという男は殺されて食べられてしまう自由がある。その自由を実現したBには何の罪もないはずだ。しかし、それは常識的には、おかしい。
では、どこがおかしいのか? サンデルは答えてくれない。ここには「共同体のために」というような説明は成立しないからだ。その点は、独身の寅さんが賭博ですってんてんになるのと同様である。家庭を持つならば、「家庭という(小さな)共同体のため」という理屈が成立するが、独身者ならば家庭をもたないので、自分を傷つける自由をもつことができそうだ。
しかし、そうだとするなら、上記の例のような気持ち悪い事例が容認されてしまう。
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似た例を示そう。それは、援交だ。未成年の女子高生が、3万円ぐらいの金を得ようとして、援交をする。ここで「未成年は駄目」という自治体の条例があることもあるが、ないこともある。「自治体の条例があるから駄目」という理屈ならば、「自治体の条例がなけばOK」となる。それはおかしい。
なお、援交には、被害者がいないわけではない。被害者は、自分自身だ。目先の金と引き替えに、肉体をさらして、精神や人格を荒廃させる。それほどひどいことにはならなくとも、そもそも、援交をする少女というのは、もともと精神が荒れて、自暴自棄になっているのである。それを援交が助長する。
ここでも、「金目当てで肉体を売る」というよりは、「(目先の金につられて)自分を傷つける」ことの是非が問題となる。 (だから成人よりも未成年で、売春はいっそう問題となる。)
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似た例に、麻薬がある。これも、(公衆の場所での煙草と違って)他人には迷惑をかけない。とすれば、麻薬をする自由はあるのか?
ここでも、麻薬による被害者は、自分自身である。だから、「自分を傷つける」ことの是非が問題となる。
ただし、麻薬には、習慣性がある。その習慣性を利用して、中毒患者から金を吸い上げる売人がいる。この売人は、
「自分を傷つける他人の弱さを利用して、うまく金儲けをする」
というわけだから、悪魔的だ。このような悪魔的な行為も、容認されるのか? もちろん、否。
ここでは明らかに、「自分を傷つける自由」などはない。また、それを助けて金儲けをする自由もない。
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さらにも極端な例を示そう。
「自分を傷つける自由」として、「自殺の自由」がある。
人は自殺をする自由があるのか?
もしその自由があるとすれば、その自由を助ける行為は、許されるのか? つまり、嘱託殺人や自殺幇助や承諾殺人は、許されるのか? もちろん、許されない。(これらは刑法では犯罪となる。 → Wikipedia )
ではなぜ、これらの自由はないのか? これらを認めると、共同体にとって不都合だから、これらの自由がないのか? そうではあるまい。
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以上は、問題だ。このあと、私なりに、回答を出そう。
例示的に考えよう。自殺を助けることは、悪だ。
とはいえ、末期患者の場合は、微妙だ。末期患者の場合は、生を死に転じるというよりは、死を早めるだけだ。しかも、その生は、癌の痛みなどで、耐えがたい苦痛であることもある。とすれば、どうせ死ぬ人の苦しみを和らげるという意味でなら、それは愛の行為かもしれない。
もちろん、それが許されるわけではない。だが、夫が妻にこう語る。
「とても苦しいからもう生きていたくない。どうかお願いだから殺してくれ。あと一カ月間も苦しみ続けるよりは、今すぐ安らかにしてくれ」
こう頼まれたとき、その頼みを聞いて、末期患者である夫を死なせた妻を、「悪」として断罪できるか? これを簡単に「悪」とは言い切れないだろう。むしろ、妻は、「自分が殺人者としての汚名を着せられるのを覚悟の上で、夫のために、やりたくもないことをやった」と見なされる。「愛する夫のために、あえて自分が懲役刑になる道を選んだ」とも言える。
こういう妻を「悪だ」と非難するのは、あまりにも人の道に外れたことだろう。(「だから殺していい」ということにはならないが、「殺すのは悪い」とあっさり片付けることもできない。)
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ただし、同じように自殺の幇助でも、次の場合は駄目だ。
「若い自殺志願者が、何人か集まって、共同自殺したがる。いずれも人生に悲観しており、死にたくなっている。それをわかっている第三者が、集団自殺するための場所を提供して、うまく自殺させてあげる」
これは駄目だ。同じようでも、絶対に駄目だ。なぜか?
・ 末期症患者ではなく、若い人である。
・ どうせすぐに死ぬわけではなく、何十年もの前途がある。
つまり、「死にたい」という気持ち自体は同様でも、他の条件がまったく異なる。
しかし、「自由」を認める立場からは、「死にたい」という気持ちがあれば、その自由を認めていいことになる。ところが、「死にたい」という気持ちだけで、その自由を認めてはいけないのだ。
とすれば、「自由」を認める立場は、ここでは成立しないことになる。では、なぜ?
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私なりに理由を示そう。
若い人に「自殺する自由」「自分を傷つける自由」を認めてはならないのは、家族や友人などの他者が悲しむからだ。実際、自殺をした人の家族は、取り残されたあと、非常に重い心の傷を負う。「どうして救って上げることができなかったのか」と一生苦しみ続ける。そのようなことは、あってはならないのだ。
では、それは、「自由」以外のどんな原理に基づくことか?
私なりに言おう。それは「愛」という原理だ。自殺者の家族や友人が悲しむとしたら、それらの人々が自殺者を愛していいるからだ。愛ゆえに、愛する人の死を悲しむ。
この愛ゆえに、「自由」は制約を受ける。
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では、愛とは何か? 愛は、人と人とのつながりにおいて生じるものだ。── すると、ここで、重大なことに気づく。愛は自由とは対極的な概念なのだ。
・ 自由 …… 他人の干渉を排除して自分だけで進もうとする。
・ 愛 …… 人と人との結びつきを強めようとする。
この対比は大切なことだ。
自由に対比するべき概念として、サンデルは「共同体のため」という概念を持ちだした。
しかし、自由に対比するべき概念としては、私は「愛」という概念を持ち出す。「愛」とは、人と人との結びつきで生じる。それは、人と人との関係を断ち切ろうとする自由とは逆に、人と人との結びつきを強めようとする。
サンデルは、リバタリアニズムを批判して、そこに人間の「孤立」という難点を見出した。だが、「孤立」の対極の概念は、「共同体」ではなく、「愛」なのだ。
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本人のまわりには、他者がたくさんいる。その他者は、本人にとっては、うざったい邪魔なだけの存在と見えるかもしれない。しかし他者は、本人を邪魔するだけの存在ではなく、本人を愛してくれる存在でもある。そのような愛が本人のまわりに満ちていることに、気づくべきだ。「自由になりたい、自由になりたい」と望むのではなく、「自分がいかに愛されているか」を理解するべきだ。
そのことは、特に、家族に当てはまる。自殺者は「誰も自分を愛してくれない」と思いがちだが、たいていは、家族が愛している。だから自殺者が死んだあとで、家族はひどく傷つく。
だから、「自由になりたい、自由になりたい」と望むよりは、自分の得ている「愛」に気づくべきだ。それに気づかないまま、「自由になりたい、自由になりたい」と望むのは、反抗期のガキだろう。そのような子供っぽい人間はとても多い。いつまでたっても子供のような大人も多い。しかし、人間が成熟すれば、いかに自分が家族から愛されていたかに気づくようになる。
「子を持って知る親の恩」
という言葉もあるが、この「恩」は「愛」と呼び替えるといい。人は、成熟すれば、自分の受けていた愛に気づくようになる。
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そして、まわりから受けた愛に気づいたとき、一つの真実に気づくはずだ。「自分は自分だけのものではない」と。
家族からであれ、友人からであれ、恋人からであれ、子供からであれ、愛されていることに気づくとき、自由よりも大切なものがあるとわかる。
自由はあくまでわがままなものだ。自由は自分のためにある。しかし、愛は違う。愛は、自分のためにあるのではなく、自分以外の他者のためにある。
親が子を愛するのも、男が女を愛するのも、それは自分の利益のためではない。自分の自由のためではない。相手のために、その愛はあるのだ。こういう愛を受けていることに気づけば、自由なんてものがいかに詰まらない価値しかないかとわかる。
自由は決して、至上の価値ではない。そんなものよりは、人間の愛や優しさや悲しみの方がはるかに大事なのだ。
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まとめ。
リバタリアニズムは、極端な自由主義である。そこでは「自由」が至上の価値をもつ原理だとされる。
しかし、「自由」よりももっと大切なものがある。それは「愛」である。(「共同体」ではない。)
「自由」は、自分一人のためにある。だから、それが行き過ぎれば、人間は孤立してしまう。自由になればなるほど、人間はバラバラとなり、かえって不幸になる。それは不思議でも何でもない。「自由」というものは、もともとその程度の価値しかないからだ。「自由」は至上の原理ではないのだ。
もっと大切なのは、「自由」の反対概念である「愛」だ。そこでは、自分のためではなく、他人のために行動する。他者との関係を遮断するのではなく、他人との関係を強めようとする。つまり、「愛」の関係を。その関係が強まれば強まるほど、「一体感」が強まり、「自由」は失われるが、それゆえ、かえって幸福になる。(その代表が「結婚」だ。これは「自由」を失うこと自体を至上目的とする原理だ。自由主義者には理解できないだろうが。)
ただし、「愛」が大切だからといって、「自由」を完全になくせればいい、ということにはならない。夫と妻の間にも、何らかの「自由」は必要だ。とはいえ、「結婚」においては、「自由」と「愛」とは、ある程度は背反する。あくまで「自由」を求めるのであれば、「愛」も「結婚」も成立しなくなる。
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では、「愛」とは何か? それは「自由」とはどう違うのか? なぜ「自由」を失うことでかえって幸福になれるのか? それは、こうだ。
「自由」の原理では、人は自分の利益を最大化しようとする。しかし、「愛」においては、「赤の他人」のかわりに、「愛する人」の利益を最大化しようとする。
ここで、一方だけが愛を持ち、他方が愛をもたなければ、利益の流出が起こる。
愛する人 ─→ 愛される人
しかしながら、双方が愛をもてば、愛しあうことにより、利益の交流が起こる。
愛する人 ←→ 愛される人
ここでは、損得はない。かわりに、「総和の拡大」がある。愛することのマイナスは小さく、愛されることのプラスは大きい。とすれば、二人が愛しあうことで、総和は拡大する。……これが「結婚」の原理であり、「愛」の原理である。
人が「自由」を求める限りは、総和の拡大はなく、エゴのぶつかり合いにより、配分比の変更があるだけだ。
しかしながら、「愛」をもてば、総和の拡大があるので、愛しあう二人はともに幸福になれる。
そして、そのような「総和」という発想が欠けているのが、「自由」主義者の発想だ。だから、「自由になりたい、自由になりたい」というふうに、わがままばかりを求めるわけだ。愚かなガキのように。
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人が幸福になりたければ、「あれが欲しい、これが欲しい」と望むよりは、いかに多くを与えられたかを知り、感謝の心をもつといい。
たとえば、「おれは誰にも愛されていない」と思う人でさえ、よく思い出せば、いろいろと愛されていたことに気づくはずだ。
・ 赤ん坊のころの、母親の愛
・ 子供のころの、父母や兄弟の愛
・ 小学校 〜 大学までの、教師の愛
・ 友人の愛
これらの愛は、「愛」というよりは、「思いやり」や「優しさ」という形で現れる。それに気づかないか、それを忘れてしまった人が多い。そういう人が「自由を、自由を」と要求する。
しかし、そんなわがままを語るよりは、自分の受けた「思いやり」や「優しさ」を思い出すといい。自分はこれまで自分一人では生きてこられなかった、と気づくはずだ。そのとき、まわりの人々から受けた「思いやり」や「優しさ」に気づくはずだ。そのとき、「自由」なんかよりもはるかに大切なものがある、と気づくはずだ。
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前にも述べたが、真・善・美という三つの概念がある。しかし、この三つの概念よりも大切なのが、愛という概念だ。
サンデルの話は、とても興味深いが、しかし画竜点睛を欠く。というよりは、一番肝心なものが抜けている。それは、愛だ。人間性を語るなら、愛のことを語り落としてはならないのだ。
そして、愛の本質を理解するには、「愛とは自由とは対極のものだ」というふうに理解するといい。そう理解すれば、「自由を追求することでかえって不幸になる」という現代社会の問題を、見抜くことができるようになる。
[ 付記 ]
「全員が自由になろうとすると、かえって全員が不自由になる」
という逆説的な結果になることもある。これは一種の「合成の誤謬」だ。こういう現象は、実際にある。たとえば、「銃器の保有」だ。
経済学における「合成の誤謬」という概念が、こんなところでも役立つ。しかしそれは、別に不思議でもない。「自由」という概念と経済学とは、とても密接な関係にあるからだ。
自由な経済を求めたあげく、社会がかえって荒廃していく、ということは、小泉の構造改革時代に見られたことだ。それは決して不思議ではない。自由な経済とは、愛のない経済であったからだ。社会が荒廃するのも、当然のことだ。
自由というものを過度に重視するのは、反抗期のガキの発想にすぎないのだ。そこには、「思いやり」や「感謝」というものが、まるきり欠落している。そんなガキが首相になれば、まともな社会になるはずがない。
なお、これとは反対のものが、マクロ経済学だ。そこでは、自由というものを重視せず、全体の総和の拡大をめざす。「強い人間が多くを取る」という発想ではなく、「誰もが豊かになれる」という発想を取る。その基本は、「エゴ」とは対極のものだ。
「エゴ」を基本とした経済学を取る限り、その社会は基本的には、「弱肉強食」となり、獣の世界のような悲惨な社会となる。そこには人間的な愛が欠けているからだ。
という検索語でネットを検索すると、自由と愛は並置された形で、同類語として理解されている例が大部分だ。「兄と弟」というような感じで、「自由と愛」というふうに並べている。
しかし本項では、対極的な概念として並べている。「白と黒」というような感じで。
このように対極的な概念として「自由と愛」について述べるのが、本項だ。ここが核心なので、よく理解してほしい。