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( ※ 本項の実際の掲載日は 2010-07-09 です。)
悪に対しては、怒りや憎しみをもつことが多い。例を挙げてもいいが、いちいち例を挙げなくても、いくらでも例は思い浮かぶだろう。
一方、前項 で述べたように、悪は不可避だ。
では、悪は不可避だとしたら、悪をなした自分を自覚したあとで、自分に対して、どう対処するべきか? 自分自身に怒り、自分自身を憎むべきか? もしそうだとしたら、自分に対して攻撃的になり、自己崩壊の危機が生じる。下手をすると、自殺しかねない。そうでなくても、精神的に不安定になり、うつ病になりかねない。
逆に言えば、そういう危険を避けるために、人は自分自身の悪を自覚したがらない。自分自身の悪を無視したがる(見て見ぬフリをしたがる)。それでは、前項の指針に反する。
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ここで、どうするべきかという、指針を示そう。
悪があったなら、悪をなした人を憎むのではなく、悪をなされた人の悲しみを理解すればいいのだ。その悲しみを、自分自身の悲しみとして共有すればいいのだ。
例を示そう。
(1)原爆
広島などへの原爆投下という問題がある。ここでは、原爆投下という悪をなした米国人を憎めばいいのではなく、被爆者の悲しみを理解すればいいのだ。その悲しみを共有すればいいのだ。(日本人も、米国人も。)
(2) 従軍慰安婦
従軍慰安婦という問題がある。ここでは、従軍慰安婦をもたらした日本人を憎めばいいのではなく、従軍慰安婦の悲しみを理解すればいいのだ。その悲しみを共有すればいいのだ。(韓国人も、日本人も。)
(3) 殺人事件
殺人事件という問題は現代でもしばしばある。犯人は死刑になることもあり、死刑にならないこともある。いずれにせよ、ここでは、殺人犯を憎んで死刑にすればいいのではなく、殺人の被害者およびその家族の悲しみを理解すればいいのだ。その悲しみを共有すればいいのだ。(死刑の賛成論者も、反対論者も。)
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このように悲しみを共有することで、問題が片付くわけではない。しかしそれは、問題に立ち向かうための、第一歩となる。
ひるがえって、問題のあとで、怒って憎んでいるだけでは、問題は拡大するだけだ。原爆を落とした米国人をいくら憎んでも、何も解決しない。従軍慰安婦を設置した日本人をいくら憎んでも、何も解決しない。殺人をした犯人をいくら憎んでも、何も解決しない。悪をなされた側が、悪をなした側を、いくら憎んでも、何も解決しない。
それよりは、悪をなした側が、おのれの悪を認識して、悪をなされた側の悲しみを理解すればいい。そうしたとき問題の解決に、一歩近づく。
悪をなされた側は、復讎をしても、満足は得られない。しかし、深い謝罪を得れば、許そうという気になるかもしれない。そして、そのためには、悪をなした側が、悪をなされた側の、悲しみを知る必要がある。
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正義や悪を論じるとき、人は「おれは正義をなす」「おれは悪を憎む」というふうに語って、それが良いことだと思い込みたがる。
違う。大切なのは、正義をなすことではない。人の悲しみを理解することだ。
そして、人の悲しみを理解するということは、広い意味での「愛」なのである。
正義や悪を語るとき、「正義とは何か」「悪とは何か」を考えて、それでおしまいにしてしまったのでは、何にもならない。
大切なのは、「正義とは何か」「悪とは何か」という問題に対して、「これこれです」という正解を得ることではない。
大切なのは、人間として、「愛」をもつことだ。そのような「愛」なしに、「これが正義だ」「これが悪だ」と語っても、あまりにも虚しい。そんな机上の論議をすればするほど、現実から遊離して、人間性を喪失してしまう。
哲学的な論議をすると、観念的な論議をするあまり、宙を浮遊して、足が地面から離れてしまう。現実から遊離してしまう。思想が観念的・抽象的なものだけになってしまう。
それではいけないのだ。自分のハートで感じることが大切なのだ。愛や悲しみを、言葉のレベルで理解するのではなく、自分自身のハートで感じるべきなのだ。たとえば、恋人を殺された人の悲しみを。妻を殺された夫の悲しみを。そういう悲しみを、抽象的なレベルでなく、自分自身の心でありありと感じ取るべきなのだ。
それですべてが片付くわけではない。しかし、そのことで、問題の解決への、共通基盤を得ることができる。そのことで、対立しあう双方に、和解の場が築かれる。
「正義とは何か」「悪とは何か」という問題がある。この問題に対して、「正義とはこれだ」「悪とはこれだ」という形のものは、正解ではない。本当の正解は、それらを越えたところにある。