愛とは何か? 利己主義とは逆で、自分の利益を相手に与えることか? 違う。与えあうことで、全体の利益を増すことだ。
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愛とは何か? よくある説は、「利益を得るかわりに、利益を与えること」というものだ。(利他主義と同じ。)
たとえば、マザー・テレサや、シュバイツアーや、寄付をする大金持ちなどは、自分のもつ労役や利益を、恵まれない人々に与える。そのことは「愛」のある行為だと見なされる。一般に、ボランティア活動は、そうである。
親子の愛でも、親が子を愛するとき、親は子に利益を与える。
男女の愛でも、男は女にプレゼントを贈ったり、あれこれとサービスをふるまったりする。女が男を愛するときは、チョコレートを贈ったり、かいがいしく世話を焼いたりする。
このように、愛とは「利益を与えること」だと見なされやすい。(利他主義。)
しかし、それが愛の本質だとしたら、愛はただの「自己犠牲」にすぎない。一方的な自己犠牲は、愛の本質を損なってしまう。(たとえば、長年、夫に尽くした妻が、あるとき爆発する。)
この問題については、前項で簡単に説明した。以下に再掲しよう。
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「自由」の原理では、人は自分の利益を最大化しようとする。しかし、「愛」においては、「赤の他人」のかわりに、「愛する人」の利益を最大化しようとする。
ここで、一方だけが愛を持ち、他方が愛をもたなければ、利益の流出が起こる。
愛する人 ─→ 愛される人
しかしながら、双方が愛をもてば、愛しあうことにより、利益の交流が起こる。
愛する人 ←→ 愛される人
ここでは、損得はない。かわりに、「総和の拡大」がある。愛することのマイナスは小さく、愛されることのプラスは大きい。とすれば、二人が愛しあうことで、総和は拡大する。……これが「結婚」の原理であり、「愛」の原理である。
人が「自由」を求める限りは、総和の拡大はなく、エゴのぶつかり合いにより、配分比の変更があるだけだ。
しかしながら、「愛」をもてば、総和の拡大があるので、愛しあう二人はともに幸福になれる。
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以上に「愛の原理」が示されている。
典型的な例では、次のようなものだ。
・ 夫が朝から晩まで働いて、給料を稼ぐ。
・ 妻が家事や子育てをする。
このような形で分担することで、双方が得意な分野を生かす。そのことで、夫婦全体の利益を増す。(比較生産費説と同様。最適化の原理。)
その逆は、次のことだ。
・ 妻が朝から晩まで働いて、給料を稼ぐ。
・ 夫が家事や子育てをする。
この場合、妻はパートとして低賃金しか得られないので、家庭の所得は半減する。また、夫は家事が下手なので、食事はまずい料理で、栄養価も最低だし、食べ終えたあとでは皿を何枚も割る。夫は洗濯をしても、洋服がしわくしゃだ。子供をあやせば、子供は泣き出す。また、夫はそもそも、子供を産めない。
以上は典型的な例だから、実際にはそのようになるとは限らない。妻が高給を得て、夫が上手に料理をする家庭もあるだろう。それはそれでいい。その場合も、同様のことは成立する。
いずれにせよ、得意・不得意があるのだから、それぞれが得意なことをすればよく、不得意なことは相手に任せればいい。このことで、全体の利益は最大化する。
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もっと本質的なことは、精神的に「愛しあう」ということだ。自分が小さな思いやりを示すことで、相手がとても喜ぶ。それを典型的に示したのが、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」という小話だろう。
( ※ 妻は髪を切って売り、夫の懐中時計を吊るす鎖を買う。夫は懐中時計を質に入れて、妻のためにべっこうの櫛を買う。)
これはほとんど喜劇のような食い違いだが、このあと、夫婦はちょっと笑い出したあとで、いっそう愛しあっただろう。ほのぼのとした感じが残る。単なる利益という点では、食い違いゆえに利益は最小化したのだが、それでも、相手の思いやりを知ることで、自分がいかに愛されていたかを知り、夫婦はとても幸福になる。その幸福は、髪や鎖の代金よりも、はるかに豊かな価値がある。そういう大きな価値を得たから、この夫婦は愚者のように見えても賢者なのである。愛の価値を理解しているからだ。
( ※ 古典派経済学者だと、「二人とも、自分の利益を最小化したから、この夫婦は愚者だ」とけなすだろうが。)
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他者に利益を与えるだけならば、それは利他主義であり、まともな主義ではない。(いつかは、自分の利益が消滅して、破綻する。)
しかし、夫婦がたがいに利益を与えあうならば、この閉じたシステムのなかで、利益の流出は起こらない。むしろ、与えあうことで、利益の総和は増す。
古典派経済学の原理は、市場原理だ。それは、「エゴイズムによる競争で全体が最適化する」というものだ。それは、保守主義では、「エゴイズムと競争による社会的進化」という発想になる。つまり、社会的な自然淘汰主義だ。( → 自由とは何か? (政治) )
このような発想は、「自由」や「エゴイズム」に基づく発想だ。
このような発想は、「自分の利益の最大化」を基本とする。
一方、それとは別に、「愛」に基づく発想もあるのだ。( → 前項「自由と愛」 )
このような発想は、「自分を含むグループ全体の利益の最大化」を基本とする。それは「利己主義」ならぬ「利全主義」の発想だ。特に、親子間の愛については、下記で説明される。
→ 有性生物の本質 (利子主義)
→ 利全主義と系統 (生命の本質)
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まとめてみよう。
この世界には、二つの原理がある。
・ 「自由」を唱えて、利己主義を基本とする。
・ 「愛」 を唱えて、利全主義を基本とする。
親子の愛や、男女の愛では、「利己主義」に反する行動が見られる。相手の利益を増そうとして、自分の利益を減らそうとする。それは、「生物は自分の利益のために行動する」という原理(個体淘汰主義や利己的遺伝子説)に反するように見える。
その通り。生物は決して利己主義だけで行動しているのではない。赤の他人と行動するときには利己的にふるまうが、親子や夫婦間で行動するときには利全主義で行動する。そして利全主義とは、愛の原理である。そこでは、相手に何かを与えるが、与えることで、自分は損をしない。なぜなら、自分は、与えるばかりではなく、与えられるからだ。
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性のない生物は、自己複製をするしかない生物であり、そこでは利己的にふるまうしかない。しかし、性のある生物は、異性との間で交配をする生物であり、そこでは利己的でなく利全的にふるまうことで利益を最大化する。だからこそ性をもつ生物は高度に進化した。
「自由による社会的な進化」を唱える人々は、頭が無性生殖をする単細胞生物並みである。彼らには「愛ゆえに利益を最大化する」という発想が欠けているのだ。そのせいで、エゴイズムをもつもの同士で、たがいに傷つけあっている。「劣者は滅びるのが当然だ」とうそぶきながら。あるいは、「優秀な金持ちを優遇することが、社会にとっても有益なことだ」とうそぶきながら。
彼らの頭には、「自由とエゴイズム」はあるが、「愛と利全主義」はないのだ。その点、彼らの原理は、単細胞生物の原理であるにすぎないのだ。愚かしくも。
この世界の原理は、自由や競争やエゴではなく、愛である。このことに気づかない限り、人類は進歩をめざしても、下等な単細胞生物のような社会を構築するハメになる。愚かしくも。
( ※ それが日本の現実だ、と言えば、その通りだが、情けない。……ただし、愛の原理をもつ北欧諸国では、日本なんかよりもはるかに豊かな社会を構築している。)
→ 一人あたり国民所得
シリーズは本項で終了します。
素晴らしい結論だ。
ただ、次の疑問が残る。
愛と法律を融合することは可能だろうか。共同体主義と法律は相性が良さそうだが、愛はそれを超えられるのだろうか。