( 旧題「死刑存廃と殺人兵士」を改題しました。)
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私のこれまでの考え方は、「泉の波立ち」に記してあった。それを本項でまとめながら、説明しよう。
これまでの考え方
死刑について、私のこれまでの考え方は、次の二点だった。・ 死刑において大切なのは、死刑囚の命ではなく、遺族の悲しみである。
・ 殺人犯の死刑を免除するかどうかは、被害者があらかじめ決めておく。
簡単に説明すると、次の通り。
(1) 遺族の悲しみ
「この世で最も大切なのは人間の命だ」
という発想もあるが、私はそういう考え方を取らない。もっと大切なものがある、と考える。では何か? それは国家の秩序か? いや、そんなものではない。
「この世で最も大切なのは人間の愛だ」
これが私の発想だ。換言すれば、「愛のために命を捨てても当然だ」とも言える。換言すれば、「愛するものを奪われたならば、相手を殺して自分が死んでも当然だ」となる。
別に、これを他人に強制するつもりはないが、少なくとも私はそう考える。私にとって愛するものを殺す人がいれば、私は必ずその相手を殺す。国家が私に代わってお仕置きをするのであれば、国家に代理を委ねてもいいが、しかし、国家が終身刑なんかにして、犯人を生かしておくのであれば、私が殺す。国家がそれを阻止するのであれば、阻止する公務員もろとも爆破する。悪人を守る国家なんていうのは、それ自体が悪だからだ。……もちろん、そのようなテロ活動が善であるとは言わないから、そのようにして裁判所を爆破したあとで、自分も自害する。
( 【 注 】 映画的な妄想が入っています。シュワルツネッガーになったつもり。 (^^); )
以上の発想は、非常に過激に見られるだろうが、別に、不思議ではない。江戸時代ごろ(国による死刑が実現していなかったころ)までは、よく見られた発想だ。(仇討ちという。)
「そのような憎しみの行為は、正しいことではない」
というふうに批判する人もいるが、妥当ではない。憎しみと愛とは表裏一体である。憎しみとは、自分のもの( or 自分の愛するもの)を奪われる( or 傷つけられる)ことによって生じる感情だ。愛する感情が強ければ強いほど、憎しみもまた強く生じる。憎しみを感じない人がいるとしたら、それは愛する能力が欠落した人だ。人が誰かを真に愛すれば、その愛する相手を殺した殺人者を憎むのは、きわめて当然のことなのである。それは生物学的に当然の感情だ。
( ※ ローレンツの「攻撃」という著作を参照。攻撃は、憎しみによって生じるが、憎しみは、自己や仲間を傷つける相手に向けられる。自己や仲間を傷つける相手を攻撃するのは、生物学的に当然なのだ。その能力がない生物は、攻撃されても反撃しないから、やがては絶滅しても当然だ。)
要するに、愛するものを殺されたなら、その相手を攻撃するとするのは、生物学的にきわめて当然のことなのだ。(たとえ殺さなくても、なぶり殺し寸前にまでして、当然だ。)
とはいえ、近代国家では、そのような仇討ちみたいなことは、許されなくなった。かわりに、国家が処罰する。つまり、死刑制度を整える。そのことで、仇討ちをなくす。
これが、現代における近代的国家のありようだ。
(2) 被害者の決定
しかしながら、近年になって、「死刑廃止論」も出るようになった。これは、「死刑は悪だ」という発想に基づく。
これについて、私は前に、「そういう発想は、遺族の悲しみを理解できないからだ」と批判したことがある。これに関して、nando ブログの「受付」で、論争になったこともある。
今にして思うと、この私の発想には、難点があった。そのことは、本項の後半で述べる。
それとは別に、私は「泉の波立ち」で、解決策を提案したことがあった。引用しよう。
「死刑廃止をするかどうかは、各人が自分で決める」 …… ( ★ )以上の (1)(2) が、これまでの私の見解であった。
人は、自分の命については自分で決めることができるが、他人の命については口出しできない。これが原則だ。となれば、具体的な処置としては、次のようにするべきだ。
「自分または自分の家族が殺された場合について、犯人を死刑にするか死刑免除にするかを、あらかじめ申告しておく。裁判所はそれに基づいて判決する」
たとえば、あなたの家族が殺されたとする。最愛の妻がレイプされて切り刻まれ、最愛の子供が血みどろになって殺されたとする。相手の犯人は平然として、「人を殺して何が悪い。殺すのはおれの趣味なんだ。漫画のデス・ノートが好きなんだから、仕方ないだろう」とニヤニヤしている。……こういう殺人犯をどうするかは、あなたがあらかじめ決めておく。裁判所は「死刑」という判決を下すだろうが、あなたがあらかじめ「死刑免除」(自分の事件に関しての死刑廃止)を申告しておけば、この犯人は、死刑にならならない。
以上のようにすれば、何も問題はないはずだ。すべての人が納得できる。
まず、死刑賛成論の人は、自分に関する事件については死刑存続になるので、文句はない。他人の家族が死んだときに、死刑免除になるとしても、そんなことは他人の勝手だから、別に構わない。
また、死刑廃止論の人も、同様だ。自分に関する事件については死刑廃止になるので、文句はない。他人の家族が死んだときに、死刑存続になるとしても、そんなことにはそもそも口出しする資格がない。(他人の心の痛みを理解するならば。…… (*) )
( → 泉の波立ち 2008年6月06日b )
新たな考え方
このたび、新たな情報を得たので、考え方を少し訂正することにする。新たな情報というのは、(それ自体では特に目新しくもないが)死刑と関連すると、留意するに値する情報だ。それは、イラク戦争の兵士についての記事だ。
イラクに行った米軍兵士が、イラク人を殺したが、その殺人という行為によって、自分の精神が深く傷ついた。自分が人を殺したという思いに苛まれて、うなされる感じで、精神が傷ついて、すっかり痩せ衰えてしまった。(朝日・夕刊・1面 2010-07-28 )
このような話題は、PTSD(外傷性精神障害/心的外傷後ストレス障害)という用語でしばしば話題になる。そのときは、あまり気にしなかったのだが、今回、死刑の日の記事として読むと、両者に共通性があるのに気づく。
それは、次のことだ。
「死刑によって殺人犯を死なせることに、一般の国民が、自分が殺した気分になって、心理的に傷ついてしまう。」
こういう傾向は、確かにある。nando ブログの「受付」に来た意見を見ても、死刑廃止を唱える人は、「自分が人を殺すこと( or 加担すること)のつらさ」を、とても深く感じている、とわかる。
──
このような発想は、簡単に言えば、次のような発想だ。
「犯罪者を死刑に処することは、国家による殺人と同様だ」
では、そのような発想は、妥当なのか? 仮に妥当だとしたら、次のことも問題となる。
・ 犯罪者を懲役刑や禁固刑に処することは、国家による監禁と同様だ。
・ 犯罪者を罰金刑に処することは、国家による泥棒と同様だ。
・ 国民から税を徴収することは、国家による みかじめ料の徴収と同様だ。
・ 子供に義務教育を施すことは、子供を不当労働させるのと同様だ。
以上のような理屈により、懲役刑・禁固刑や、罰金刑や、徴税や、義務教育は、すべて否定されてしまう。
( ※ ほとんど無政府主義。リバタリアンふう。ま、極端な個人主義ですね。)
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以上のような発想はおかしい、とわかる。とすれば、死刑囚について、人々が「自分が殺したんだ(加担したんだ)」と思うのは、妥当ではない、とわかる。何も死刑のときに限って、そんなふうに悩む必要はないのだ。どうせなら、懲役刑や、罰金刑や、納税を見たときも、「そんな制度があるのは、自分も加担しているのだ」と悩んだ方がいい。(馬鹿げていますね。)
要するに、死刑については、人々は「自分が加担しているのだ」と悩む必要はないのだ。そう理解すれば、「死刑廃止論」を唱える必要もなくなる。
ただし、である。頭ごなしに「理解せよ」と告げても、たいていの死刑廃止論者は心が安らがないだろう。「私のせいじゃないと言われても、やっぱり私のせいだと思います」というふうに感じるだろう。それゆえ、「何としても自分の力で、国による殺人行為をやめさせたい」と思うだろう。……なぜか? 彼らは PTSD の患者と同じなのだ。精神が非常に傷つきやすく、そして、死刑という衝撃的な行為に直面すると、どうしようもなく精神を揺さぶられて、精神を傷つけられてしまうのだ。
換言すれば、あまりにも感受性が高く、あまりにも精神が細い。それゆえ、社会に「死刑」という制度があることに、どうにも耐えがたいのである。
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では、どうすればいいか? 精神を病んでいる人々に合わせて、社会の構造を買えてしまうべきか? しかし、そんなことを言い出したら、懲役刑も罰金刑も廃止されかねないし、納税制度さえ廃止されかねない。精神的に弱い人々に合わせて社会構造を改変する、というのは、妥当なことではないのだ。
しかし、だからといって、「精神的に弱い人々を無視していい」ということにもならない。両者には、どこかで、妥協点があるはずだ。
ここまで考えると、先の提案が思い浮かぶ。
「死刑にするか否かは、被害者本人が決める」
これならば、何も問題はないはずだ。
(1) 被害者が「死刑の免除」を決めておけば、死刑は実施されない
→ 死刑廃止論者は、そのことで安堵する
(2) 被害者が「死刑の実施」を決めておけば、死刑は実施される
→ 死刑廃止論者は、その責任を、被害者に帰することができる
(1) の場合は、死刑は実施されないのだから、死刑廃止論者にとって、文句はない。
(2) の場合は、死刑の実施を決めるのは、殺された本人である。とすれば、死刑廃止論者は、
「死刑が実施されたのは、おまえがそう決めたからだ。おまえが悪いんだ。死刑囚を殺してしまうことの責任は、おまえにある。この人殺しめ! おまえこそ極悪人だ」
と批判することになる。しかし、殺された被害者に向かって、そのような批判をすることの馬鹿らしさは、死刑廃止論者自身にもよく理解できるはずだ。それはほとんど、次のことに似ている。
「殺人犯が死刑になるのは、おまえが殺人犯に殺されたからだ。おまえが悪いんだ。殺人において悪なのは、殺人犯に殺人をなさせた被害者だ。殺人事件で一番悪いやつは、被害者だ」
さすがに、こういう発想は取らないだろう。というわけで、(2) の場合、死刑廃止論者は、黙っているしかなくなる。たぶん、「死刑になるとわかっていて、あえて殺人をした、あんたが悪い」と殺人犯を非難するようになるだろう。それでいい。(これで死刑廃止論者の精神も正常化する。)
かくて、(1)でも(2)でも、問題はなくなる。というわけで、
「死刑にするか否かは、被害者本人が決める」
という制度を用意しておけば、それで問題は一切、解決するわけだ。
( ※ なお、この制度は、「死刑存続論」でもなく、「死刑廃止論」でもなく、「死刑個別決定論」と言える。)
なお、死刑廃止論者としても、とても心が安らぐはずだ。なぜなら、あらかじめ、次のようにしておけるからだ。
「指定の死刑登録所に行って、『私を殺した殺人犯を、死刑から免除します』という書類に、署名捺印する」
このことで、「罪人を許す」という崇高な行為を実行することが出来るのだ。自分の命をかけて、罪人を許せるのだ。何と立派なことか。こういうことができるのであれば、心が安らぐだろう。
こういう立派な行為をすることで、死刑廃止論者は、自ら、殺人犯の命を救うことが出来る。
また、将来、殺人犯が人を殺すとき、「自分は死刑を免除する登録をしました」と述べると、そのことで、他人が殺されるかわりに、自分が殺されるようになる。つまり、被害者の命も救うことが出来る。(自分が犠牲になることで。) これもまた、実に崇高な行為である。
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というわけで、「死刑廃止論」でもなく、「死刑存続論」でもなく、「死刑個別決定論」こそ、最も妥当な結論なのだ。
これが私の見解だ。
( ※ 本項では、結論は以前と同じだが、理由として、新たに、死刑廃止論者の精神的なトラウマにも対処するようになった。「死刑個別決定論」を取れば、死刑廃止論者の精神的なトラウマにも対処できるのだ。)
[ 付記1 ]
実は、死刑廃止論の是非は、次のことから簡単にわかる。
「泥棒をすれば罰される、とわかっている。それなのに泥棒をして、罰された人がいる。この場合、誰が悪いのか?」
もちろん、罰されることになるとわかっていて、泥棒をした人が悪い。
しかし、死刑廃止論の立場を取ると、泥棒は悪くはなくて、泥棒を処罰する人が悪いことになる。
どうしてそういう倒錯論理が導入されるかというと、
「人を死なせることだけは特別に悪い」
と考えて、
「そのことに自分は一切責任をもちたくない」
というふうに責任回避をしたがることによる。
本当は、責任は犯罪をした人自身にあるのだが、そのことを論理的に理解できず、「死刑の場合に限り、自分は手を汚したくない」と思うわけだ。
これは一種の不安神経症である。潔癖性と同様。神経症の一種。
欧州の人々がそういう発想に染まっているということは、欧州の人々がそういう神経症にかかっているということを意味する。現代人は狂気に染まっている、という主張があるが、まさしくそれに当てはまる事例だろう。
[ 付記2 ]
死刑に対する私の独自の意見として、次のものを提出したい。
「死刑と終身刑の中間状態として、生存期間付きの死刑」
たとえば、「20年間の生存権付きの死刑」。この場合、20年間は確実に生きられる。その後、いつ死刑になるかは、裁量による。
犯罪者が 60歳の場合だと、20年間生きられることが保証されると、75歳ぐらいで寿命を迎えることもあり、この場合は、死刑は執行されずに、終身刑になったことになる。また、80歳で死刑になるとしても、それはもはや寿命と同程度になる。
犯罪者が 60歳の場合、「10年間の生存権付きの死刑」だとすると、死刑と終身刑の中間状態になるだろう。
なお、強姦殺人犯については、「男性器官についてのみの部分死刑」(去勢)というのも、認めてあげたい。「本来ならば死刑だが、去勢した場合には終身刑に減じる」というふうな。
( ※ 以上の二点については、前に「泉の波立ち」でも述べたことがある。)
[ 付記3 ]
死刑という制度の存廃とは別に、死刑の宣告という個別問題がある。個別問題では、死刑の宣告はきわめて慎重であるべきだ、と思う。というのは、冤罪の例が、かなり多く見られるからだ。
裁判官が3人の合議で、2対1の差で死刑になる、という例がかなりある。この場合、裁判官一人の胸三寸しだいで、死刑になったりならなかったりになる。ほとんどクジ引きだ。そういう例が百ぐらいあれば、そのうち半分ぐらいは、無実でありながら死刑となる冤罪となりそうだ。
それというのも、日本の職業裁判官が、安易に有罪宣告をしがちだ、という土壌がある。……ただし、この問題は、近年の裁判員制度(陪審制)の導入によって、改善が見られた。
・ 職業裁判官でなく市民の常識による
・ 3人でなく、多数の評議
これによって、冤罪の危険は、非常に少なくなったと言える。
ただし、過去の分については、冤罪がかなりありそうだ。この件は、最高裁が再審を受け付けているが、それでは「犯罪者を犯罪者が裁く」というようなもので、無意味だ。
最高裁のミスを咎めるのであれば、最高裁以外の部局が担当する必要がある。死刑囚の再審の受付は、民間人の陪審か検察審査会みたいな部局で担当するべきだろう。
【 関連項目 】
泉の波立ちでは、「死刑の問題では、命よりも愛が大切だ」という見解を、何度か示した。下記。
→ 2004年8月02日 ,2007年12月21日 ,2009年9月30日b
なお、nando ブログないでも、関連する話題を述べたことがある。これらは、死刑そのものというよりは、死刑の代案としての終身刑などの話題。
→ 死刑囚の更生 ,終身刑の是非
AがBとCを殺した。
ここでBは「死刑の免除」を、Cは「死刑の実施」を決めてあった。
さて、Aはどうなるのだろうか。
別に悩む必要はないですよ。
B の分については免除とします。
C の分については実施とします。
それぞれ日をずらして、措置すればいい。どちらが先かは、問いません。
これでおしまい。
(1×0=0 という結果になるが、それは別問題。下記。)
※ ここでは「生命のかけがえのなさ」「生命の不可逆性」がはっきりと示されます。いったん失われたものは元に戻らないということ。それを身をもって知ることになりますね。
http://nando.seesaa.net/article/155890270.html
に「愛と法律を融合することは可能だろうか。共同体主義と法律は相性が良さそうだが、愛はそれを超えられるのだろうか。」と書いたことがある。
共同体主義の角度から言えば、ある共同体にとってマイナスにしかならないと裁判で判断された人は死刑に処すればよい。
では、愛という視点から言うとどうなるのだろう。今回のエントリーを見る限りでは「愛の裏返しとしての憎しみによる報復殺人」となっている。
どちらがより良い社会を作り出せるのか、判断は難しい。
「これは私が書いた記事か…」と思ってしまう記事でした。
([ 付記2 ]などと特に)
異見を否定するだけでなく、論理的が大切ですね。
そして実刑中は、自らの労働で衣食住をまかなってほしい。
そんな人達のために、税金を使っていただきたくない。
学生 女23才
論理的思考です。
ごめんなさい