◆ 死刑執行の責任は?:  nando ブログ

2012年03月29日

◆ 死刑執行の責任は?

 死刑が執行された。このことで、「自分も殺人に加担したことになる」という気分にとらわれて、「死刑反対」と思う人もいるだろう。そこで、そういう人の心の負担を減らすために、解説しておこう。

 ──
   
 私は別に、「死刑賛成論」ではない。「殺人者は悪だから、さっさと殺してしまえ」と思っているわけではない。
 では何かというと、次の二点がある。

 (1) 死刑を決めるのは、国や国民ではなくて、死刑にされた本人である。その人が死刑になる道を決めたのは、私やあなたではなくて、殺人をなした本人である。彼が殺人をなしたとき、被害者を殺しただけでなく、同時に、自分を殺す道を選んだ。それだけのことだ。他人が彼を殺すのではない。彼自身が彼を殺すのだ。……国が用意したのは、「殺した人は自ら殺される」というシステムだけである。そのシステムに身を投じたのは、殺人者自身だ。
 (2) そのシステムに身を投じた殺人者に対して、その刑の宣告を決断 or 猶予する権利があるのは、国民でもなく裁判官でもなく、被害者の遺族である。被害者の遺族が「こいつを殺してくれ」と強く頼んだ。だからこそ、死刑が宣告された。

 この(2)の点が重要だ。そもそも、死刑を宣告するかどうかを最終的に決定する権利があるのは、被害者の遺族だけである。なぜなら、遺族は被害者の意思を代弁しているからだ。
 だから、死刑反対論者が「死刑反対」を言うのであれば、自分自身の権利を宣告するだけで足りる。つまり、「私が誰かに殺されたときは、その殺人者を死刑にしないでください」と。そういう遺書を用意しておくといい。そうすれば、あなたが殺されたとき、遺族はあなたの意思を尊重して、殺人者を死刑から免除することができる。その場合、あなたは死後に、殺人をしなくて済むことになる。
 だから、死刑反対論者は、「私を殺した人を許してあげてください」という遺書を用意するだけで、自分の望み(死刑決定権の不行使)は達成されるのだ。

 では、それ(自分が殺されたとき)以外のときは? 他人が殺されたときには、(第三者たる)あなたは何も口出しする資格がない。あなたはその死刑に関して、賛成も反対も影響力を行使できない。その影響力を行使できるのは、被害者および遺族だけだ。……本件も含めて、一般の殺人事件に関しては、あなたはあくまでも無関係なのである。死刑を決定する権利も資格も義務もない。(だから死刑決定に関して、あなたは苦に病む必要はない。あなたが死刑囚を殺すわけじゃない。)
 


 [ 付記1 ]
 被害者や遺族の意思による影響力は、法的には認められていない。だが、実際には、裁判の場では影響力をいくらか行使できる。

 [ 付記2 ]
 なお、被害者として影響力を行使できなくても、問題ない。なぜなら、仮に死刑が決定されて執行されたとしても、「(被害者として)死刑に反対」とあらかじめ言っておけば、あなたは死刑に加担したことにならないからだ。
 たとえば、あなたが殺人者に八つ裂きにされて殺されたとする。そのあと、殺人者は「残酷な殺し方をした」という理由で死刑になりかけたとする。そのときあなたが、「私を殺した人を死刑にしないでください」とあらかじめ署名しておけば、あなたは殺人者を処刑することに加担しないで済む。たとえ政府が死刑を宣告したとしても、あなたは死刑に反対したのだから、あなたは死刑には関与していない。それゆえ、あなたは死刑には手を染めることがないから、良心を汚さずに済む。かくてあなたは「手を汚さずに済んだな」と思いながら、安心して殺されることができる。
 かくて、人々はいつでも自由に、「自分を殺した人を死刑にする」ということから、免ぜられるのである。(自分の意思で死刑にするわけではないからだ。)

( ※ ともあれ、死刑にするにせよ、死刑にしないにせよ、その決定権を持つのは、被害者だけであるべきなのだ。そして、決定権には至らなくとも、あらかじめ「免罪」を宣告しておくことで、死刑に加担することの良心的負担を免ぜられる。……自分が殺されたときに限るが。)

 [ 余談 ]
 法相は「刑罰権は国民にある」と述べたが、これはひどい勘違いだ。国民に刑罰権があるわけがないでしょう。リンチや人民裁判じゃあるまいし。
 この法相は、「政府とは何か」ということも理解できていないようだ。「間接民主制」とか「参政権」とかいう基礎概念から学び直した方がいいね。
( ※ ……ま、本当は、ただの「責任逃れ」をしているだけなんだろうが。それにしても、責任回避をする政治家というのは、困りものだ。「法相の職責を果たすべきだ」と語っていながら、その言葉の意味も理解していないのだろう。この人は法相には向いていない。さっさと辞職するべし。)



 【 追記 】
 「死刑とは復讎か?」という疑問がコメント欄で寄せられた。これについては、次のように答えたい。
 「死刑とは、復讎というよりは、倫理観の維持である」
  ※ 詳しくは、下記を参照。
   → サイト内検索「死刑 倫理観」 

 簡単に言えば、「殺人は許されるか?」ということだろう。「殺人は許されない」と思う厳しい人は、「殺人をした人は同等の罰を受けるべきだ」と判断する。「いや、殺人犯は少しは許されるべきだ」と思う甘い人は、「命を取られるほどの悪を犯したわけではない」と判断する。
 殺人犯を死刑にしてもしなくても、被害者の命が戻るわけではない。基本的には、「悪を許容するか」「殺人を許容するか」という倫理観の問題となるだろう。
 で、「たかが倫理観という抽象的なもののために、たとえ殺人犯であれ、人の命を奪うべきではない」と思う人は、死刑に反対するわけだ。
 一方、倫理観の高い人は、「人の命を奪うべきではないがゆえに、人の命を奪った人は、自分自身の命が奪われるような、自動報復システムを用意しておくべきだ」と考えるわけだ。
 私の主張は、「自動報復システムを用意しておくが、利用するのは各人ごとにする。利用したい人だけが利用し、利用したくない人は利用しない」というものだ。つまり、死刑個別主義である。死刑賛成論でも反対論でもなく、各人ごとに賛成でも反対でも好きな方を選べる、というわけ。下記で述べたとおり。
  → 死刑存廃は本人が決めよ
  


【 追記2 】
 次のコメントがあった。

> キリスト教が主流な国がなぜ死刑を廃止しているか

 私が思うに、これは倫理観の違いではなくて、物事の考え方の違いだろう。それは殺人行為を「過去の出来事」と見なすか、「未来の出来事」と見なすか、という違い。

 死刑反対論者は、「殺人は過去の出来事だ」と見なす。「もはやそれは終わってしまったことだ。今さら殺人犯を死刑にしたところで、被害者の命がよみがえるわけじゃない。済んでしまったことは済んでしまったことだ。仕方ない。それとは別に、殺人犯の命だけを考えよう。殺人を死刑にすることは、命を奪うことだ。それは良くない。結局、被害者の生死は固定値で、殺人犯の生死は制御可能な値だ。ゆえに、制御可能な範囲で、命を大切にするべきだ」

 死刑維持論者は、「殺人は過去の出来事ではない」と見なす。なぜなら、その人の心は、被害者が生きていた時点にあるからだ。特に、遺族はそうだ。遺族にとっては、時間は、被害者が生きていた時点で止まっている。あの笑顔を浮かべていた時点のままだ。その時点で物事を考える。
 「あの人は生きている。その命を、奪うことは、許されるか、許されないか? もちろん、許されない。だから、この命を奪った人は、処罰されなくてはならない。その気持ちを、いつまでも持ち続けよう」
 こう思っていた。暗黙裏に。愛という形で。……それゆえ、その思いに反する形で命を奪った殺人犯には、死刑を要求する。死刑を要求するのは、殺人がなされたあとの「復讎」の気持ちではなく、殺人がなされる前の「愛」の気持ちだ。過去における愛という形が、殺人の終わったあとにまで継続するので、その気持ちが死刑を要求するようになる。
 他人にとっては、殺人はもはやそれは終わってしまったことだろう。今さら殺人犯を死刑にしたところで、被害者の命がよみがえるわけじゃないからだ。しかし遺族にとっては、被害者の命は心のなかで生き続けている。それは「過ぎてしまったこと」ではない。被害者は今なお遺族の心のなかで生き続けているのだ。「思い出」という形ではなく、「今もなお過去の時間のなかで被害者とともに生き続ける」という形で。

 結局、判断の分かれ目は、次のいずれかの立場を取るかだ。
  ・ 第三者の立場で、「殺人はもはや過ぎてしまったことだ」と見なす。
  ・ 遺族の立場で、「殺人は被害者が生きていた時点の後のことだ」と見なす。

 しばしば言われるのは、「物事を感情的に考えず、冷静に客観的に考える」ということだ。それは、「人の感情をなくして、ロボットの論理で考える」ということだ。それならば、「死刑廃止」になるだろう。

 ──

 ただ、死刑廃止論者も、自分の身内が殺されれば、もはや第三者の立場にはなり得ない。だから、死刑反対論者の本心は、「他人が殺されたときには死刑廃止論。だけど身内が殺されたときには死刑賛成論」というものだ。つまり、二重基準。
 そして、二重基準の人々が多くなると、世間の99%以上は殺人の被害者ではないので、死刑廃止論になるのだろう。
 欧州諸国が死刑廃止論を採っているのは、二重基準(ダブルスタンダード)を取る人が多いからだろう。
 
 なお、上記でリンクした先でも、著者は次のように書いている。
 「もしも僕の身内が誰かに殺されたら、僕はその犯人を激しく憎むだろうし、死刑にして欲しいと思うかもしれない。当たり前だ。だってそのときの僕は当事者になっているのだから、スタンダードが変わって当然だ。
 でも今は当事者ではない。」
  → http://diamond.jp/articles/-/16819?page=3

 自分自身がダブルスタンダードであることを告白している。
 それが死刑廃止論者の本音なのだろう。
 


 【 追記3 】
 死刑の存廃について、世論調査がなされてことがある。
  ・ 「死刑容認が 85.6%、死刑反対が 5.7%」 → 内閣府調査
  ・ 「死刑賛成が 57%、死刑反対が 8%」 → NHK調査


 これからすると、世間の大半は「死刑容認または賛成」であり、「死刑反対」「死刑廃止」は、世間の1割にも満たない超少数派であるようだ。
 私のように「どちらでも、お好みでどうぞ」というのは、政治的には中間意見だ。だが、世間の平均的な意見は、もっと死刑賛成に近いようだ。私は死刑賛成論者から、「もっと死刑に賛成しろ。その方が多数派だぞ。多数派に従え」と、文句を言われるかも。
  


 【 関連項目 】
 これまで死刑に関しては、何度か述べてきた。

 特に大事なのは、次の項目。
  → 死刑存廃は本人が決めよ

 他にもいろいろと述べてきた。
  → サイト内検索
 
posted by 管理人 at 20:44 | Comment(9) | 政治 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
 論理の倒錯(勘違い)が見られるので、例示する。
 ──
> もしもあなたの友人が、「身内をアメリカ兵に殺されたイラク人の気持ちを想うとアメリカが憎くて仕方がないので報復してやる」と言ったなら、あなたはきっと呆気にとられながら、「だけど現実におまえはイラク人でもないし家族をアメリカ兵に殺されてもいないじゃないか」と止めるはずだ。
→ http://diamond.jp/articles/-/16819?page=4
 ──

 ここでは、(第三者が)「憎くて仕方がないので報復してやる」というふうな例示となっている。
 このことからもわかるように、死刑反対論者は、「第三者たる自分自身が死刑執行に加担している」と思い込んでいるのである。
 実際には、死刑執行を決めるのは、被害者および遺族である(べきな)のだが、第三者たる自分が勝手に責任感を負っているのである。

 一種の過剰な責任感だろう。たとえると、「原発事故で被害が起こったのは、政府の責任であるが、それは自分の責任でもある」と思って、食事も喉を通らなくなって、痩せてしまう……というふうな。
 このような倒錯論理による過剰な責任感は、一種の妄想である。頭が弱くて非論理的な人ほど、こういう過剰な責任感をもつものだ。たとえば、勝間和代がそうであるらしい。(上記のリンク先に記してあるように、勝間和代は死刑廃止論者。)
Posted by 管理人 at 2012年03月29日 21:10
天涯孤独なら遺族がいないので量刑が軽くなるという誤解もありますね。
決めるのは被害者とその遺族。法はそれをシステム化しただけ。運用次第です。
だから情状酌量もあるわけで、彼等の論理ではそういう含みはありません。デジタル化されすぎですね。
Posted by 京都の人 at 2012年03月29日 22:04
裁判とは被害者本人と遺族の復讐なんですか?
血の繋がりで線引きされて後は関係ないものなんですか?
加害者としても被害者としても
社会全体、多かれ少なかれ誰しも関係すると捉えていたんですけど・・
インテリの人の国家観は難しくてわかりません・・・
Posted by A at 2012年03月29日 23:33
> 裁判とは被害者本人と遺族の復讐なんですか?

 復讎というとらえ方もありますが、私は「倫理観」だと思います。「死刑 倫理」でサイト内検索してみてください。

 簡単に言えば、「悪を許さない」「悪をのさばらせない」ということです。このような倫理観がないと、社会は悪によって蝕まれていきます。

 たとえば、米国では銃の所有が許されているせいで、大量殺人が可能となり、無実の子供たちが狂人の手で大量殺人される事件が次々と起こっています。社会がそのように蝕まれていきます。(これは法律ではなくて、銃のせいだが。)

 死刑のない国でも、そういうことが起こりがちです。「殺人には死刑がない」ということは、「殺人は許容される」ということに近いので、「最大の悪が許容される」という社会になりがちです。
 復讎よりも、倫理観でとらえて下さい。

 たとえば、無実の女性や赤ん坊を殺した殺人犯が先日、死刑になりました。この殺人犯を、死刑から免除するか? もしそうすれば、殺人犯の生命は救われますが、彼が無実の女性と赤ん坊を殺した行為は、是認されてしまいます。それでは人々の倫理観が崩れかけてしまいます。
 
 比喩的には、「学校で、泥棒をしても、ごく甘い罰だけで許す」という例を思い浮かべて下さい。その子供は、甘やかされて、何度も泥棒をするようになるでしょう。学校の秩序は崩壊して、「善よりも悪が得をする」という学校社会になってしまうでしょう。


Posted by 管理人 at 2012年03月30日 00:10
裏を返せばキリスト教が主流な国がなぜ死刑を廃止しているか、になりますね。
宗教の違いが倫理観の違いに反映されるのが死刑存廃議論の難しいところです。
Posted by アルクマール at 2012年03月30日 11:07
>宗教の違いが

「大聖堂」で、極悪非道な虐殺をした男が、必死の形相で教会で許しを請って祈るシーンを思い出しました。そこに反省の気持ちは一切無く、許しを得ないと大変なことになるという思いだけがあり、許しを得た男は、涙して安堵する。そして次の殺人を躊躇無く実行する。

キリスト教には殺人を許容する価値観が内包されている気がします。

Posted by T.M at 2012年03月30日 13:01
キリスト教徒の勢力が大きな国では死刑が廃止されている例が多いのは、まさに倫理の問題のはずです。キリスト教徒は神ではない人間に人間を殺す権利はないと発想するはずです。キリスト教徒は、殺人を過去に起きた出来事捉えるか今後起こりうると捉えるかではなく、人間に人間を殺す権利はないと捉えるはずです。そう捉えたところで殺人は起きているし今後も起こるのですが、人間に人間を殺す権利はないと信じることこそが倫理でしょう。(キリスト教国でありながら戦争を起してきた国々は多いので矛盾はあるわけですが)

倫理を保持するというのは極言すれば、キリスト教徒であるということになるでしょう。道徳とは異質な概念である倫理というものは人間が定めたルールではなく神が定めたルール(結局それも人間が定めたルールではありますが)と解釈できる概念でしょう。倫理という概念をキリスト教の信仰と切り離すことはできないでしょう。

死刑を容認する日本人は多いようですが、日本人の大部分はキリスト教徒ではないので、そういう結論になる。それは不思議ではないでしょうね。

キリスト教国はキリスト教国であるがゆえに倫理を法に組み込んでしまい、結果としてキリスト教国の多くは死刑廃止国になるのでしょうね。

アムネスティは死刑を肯定しませんがアムネスティは実質的にはキリスト教徒で構成されている団体ですから死刑を認めないのは当然のことです。

死刑廃止論というのは論理や真実がどうこうという問題ではなく、キリスト教徒がキリスト教の倫理を守るために主張している論であると捉えたほうが、問題がわかりやすくなると思いますね。

日本に住んでいながら建て前でも本音でも死刑を認めずいつまでも主張を変えない人間がいたとしたら、その人間は十中八九キリスト教徒でしょうね。死刑を廃止すべきかどうかという話題を出すと、その場にいる人間の宗教が判明することがある。

*

それから河野義行さんは死刑を肯定していませんね。それも、重要な例ですね。

http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/29e8054d4d387003126ccc15acfbc95c

http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=1069
Posted by まえやま at 2012年04月01日 23:29
>私が思うに、これは倫理観の違いではなくて、物事の考え方の違いだろう。それは殺人行為を「過去の出来事」と見なすか、「未来の出来事」と見なすか、という違い。

その「考え方の違い」は、結果そうであるというだけであって、そこが根源とは思えないです。
キリスト教的な論理感が死刑廃止論の根底にあるって考えたほうが、状況との整合性が高く納得できます。

中には、管理人さんが主張されているように、何か勘違いして間違った罪悪感から死刑廃止を主張している人もいるんでしょうが、極少数でしょう。

>死刑廃止論というのは論理や真実がどうこうという問題ではなく、キリスト教徒がキリスト教の倫理を守るために主張している論であると捉えたほうが、問題がわかりやすくなると思いますね。

これに同意。


Posted by T.M at 2012年04月02日 13:20
わたしはクリスチャンですが、死刑という刑があることに賛成しています。
クリスチャンには死刑反対者が多いのですが、彼らはキリスト教をわかっていないと思っています。
(ちなみに私は原理主義ではありません。一般の教派に属しています。)
まずキリスト教が経典をする旧約聖書のレビ記にはどういうことをすれば死刑に処せられるかがきちんと書いてあります。
新約聖書においても死刑反対に関する直接的な記述はありません。
また、キリスト教国が死刑のない国が多いとのことですが、これは全く違います。
ヨーロッパではキリスト教の力が強かった時代には死刑がありました。現在はキリスト教の力が弱くなり、特に若い人たちは信じていません。そして死刑がありません。
一方アメリカではキリスト教信者が多く死刑があります。
このような事実から、キリスト教徒は死刑を望まないというのは全くつながらないと思っています。
日本のキリスト教徒は、新約聖書における「愛の神」を強調し、人が人を裁くのはいけないと言っていますが、私からすると、「裁きの神」はどこへ行ったんでしょう?といいたいですね。
裁きの神は旧約聖書にも新約聖書にも出てきますよ。
死刑反対論者は、神の裁きをなめているとしか思えませんね。
わたしは、死刑を選んだのは、管理人さんがおっしゃるように、殺人者本人だと思っています。
死刑になりたくないなら自分が人を殺さなければいいだけのことです。
フツーの人なら人を憎んでも殺すなんてことはしないでしょう。
殺人者は人を殺した異常者です。そんな人をかばうなんてどうかしています。
強盗にあったとしても、被害者はその悲劇を乗り越える機会があります。しかし命までとられては乗り越えるチャンス自体ないんですよ?それを死刑反対者はどう考えるんですかね?
死刑反対論者は、終身刑が良いとか言っているのもいますが、本当に殺人者の悔い改めを望むなら、彼らが立派に社会復帰するのを望めばいいのではないでしょうか?そこが究極の理想であらねばならないのに、生かさず殺さずで一生オリの中なんて馬鹿げています。

先日おかしな牧師に出会いました。
彼は死刑反対論者ですが、私の家族がもしわけのわからん理由で殺されるなら、私は殺人者が死刑になるのを望む、といいました。
するとその牧師は、死刑を望むなんて間違っている、わたしのことを「神を神と思っていない」と激しく非難しました。
わたしはその牧師が家族が殺されても殺人者を死刑にしたくないならそれでいいと思っているのですが、死刑反対論者は、人は人、という考え方ができないようで、死刑賛成が許せないみたいですね。
わたしは死刑反対が許せないなんて思ってないのに。
管理人さんがおっしゃるように、死刑反対論者は第三者の事件にも口出しするんですよ。
個が確立できていないんですね。
Posted by 一クリスチャン at 2012年10月18日 21:13
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