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死刑の存廃については、意見が厳しく対立している。存続論も廃止論も、相手の立場を許容しないほど先鋭に対立している。通常の議論ならば、どこかで噛み合うはずだが、そのように噛み合うこともなく、厳しく対立している。妥協の余地もなさそうだ。
では、なぜか? おそらく、根源的な立場の違いから来るのだろう。そこで、このことについて、考えてみる。
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まず、前項では、次のように述べた。
死刑反対論者は、「殺人は過去の出来事だ」と見なす。「もはやそれは終わってしまったことだ。今さら殺人犯を死刑にしたところで、被害者の命がよみがえるわけじゃない。済んでしまったことは済んでしまったことだ。仕方ない。それとは別に、殺人犯の命だけを考えよう。殺人を死刑にすることは、命を奪うことだ。それは良くない。結局、被害者の生死は固定値で、殺人犯の生死は制御可能な値だ。ゆえに、制御可能な範囲で、命を大切にするべきだ」ここでは、その事件がいつの出来事であるかについて、次の違いが生じている。
死刑維持論者は、「殺人は過去の出来事ではない」と見なす。なぜなら、その人の心は、被害者が生きていた時点にあるからだ。特に、遺族はそうだ。遺族にとっては、時間は、被害者が生きていた時点で止まっている。あの笑顔を浮かべていた時点のままだ。その時点で物事を考える。
( 以下、略 )
・ 過去の出来事と見なす
・ その時点に戻って)現在の出来事と見なす
事件を理解するときには、このような立場の違いがある、ということを理解しよう。
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さて。死刑に戻って考える。ここで、
「裁判とは何か?」
を考えてみよう。裁判については、次の二つの立場がある。
(1) 事件は過去の出来事だ、と見なす。
(2) 事件は時の流れのなかの出来事だ、と見なす。
以下で説明しよう。
(1) 過去の出来事
通常は、事件は「過去の出来事だ」と見なされる。すると、(上記のように)次のような発想になりがちだ。
「もはやそれは終わってしまったことだ。今さら殺人犯を死刑にしたところで、被害者の命がよみがえるわけじゃない。済んでしまったことは済んでしまったことだ。仕方ない。それとは別に、殺人犯の命だけを考えよう。殺人を死刑にすることは、命を奪うことだ。それは良くない。結局、被害者の生死は固定値で、殺人犯の生死は制御可能な値だ。ゆえに、制御可能な範囲で、命を大切にするべきだ」
事件を「過去の出来事」と見なす限りは、このような発想になることが普通だろう。
そして、その場合には、裁判とは、次のような形になる。
「裁判は、過去の出来事に対する処遇である。今さら厳しく処遇したところで、被害者の命がよみがえるわけじゃない。済んでしまったことは済んでしまったことだ。仕方ない。だから、慈悲の心で、犯罪者に更生の機会を与えよう」
まことに慈悲深い心だ。裁判というものが、過去の出来事に対する処遇であるのならば、このような立場は至極妥当であると言える。
(2) 時の流れのなかの出来事
実際には、裁判というものは、過去の出来事に対する処遇ではない。では何か? 「法による裁定」である。つまり、「その場その場で慈悲の心などで主観的に裁定する」というものではなく、「法という制度の枠組みのなかでほぼ自動的に客観的に裁定する」というものだ。
だから、「裁判とは何か」ということは、「法とは何か」ということと密接に関連する。「裁判とは何か」といえば、「法の規定を運用するもの」というのが正しい。その場その場で裁判官などが主観的に決めるものではなくて、あらかじめ決められた法制度の枠組みに従って法の規定に沿って決めるものだ。
すると、重要な結論が得られる。こうだ。
「殺人者をどう処遇するかは、殺人が起こってから事後的に決めるものであってはならない」
換言すれば、こうだ。
「殺人者をどう処遇するかは、殺人が起こる前に決めるものだ」
これは「罪刑法定主義」と呼ばれる。殺人者がどう処遇されるかは、殺人が起こった後に裁判官などが勝手に決めるのではなく、殺人が起こる前に法によって規定されているのだ。
そして、法というものは、「過去から未来へ」という時の流れのなかで継続している。その時の流れのなかで、1時点(過去)で殺人が起こり、1時点(現在・未来)で判決が下る。その長い時間のなかで、法はずっと継続している。……その意味は、「過去が未来に波及する」ということだ。
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以上からわかるだろう。
「事件は過去のものだから、慈悲の心で扱おう」という認識は、「裁判は主観的に決まるものだ」という認識に基づく。それは「裁判は法に従ってなされる」ということを理解していない認識である。その発想は、「法とは何か」を理解していないのである。
正しくは、「裁判は法に従ってなされる」ということだ。その場合、法は、過去から未来へと波及する。では、その意味は?
それについて理解するには、あなたの前に殺人犯がいる、と考えればいい。
あなたの前に殺人犯がいる。その殺人者は、過去において現れたかもしれず、未来において現れたかもしれないが、ともかく、現時点で現れた。その殺人犯は、すでに人を殺している。そして今、あなたの前に現れた。手には凶器を持っており、あなたを殺そうとしている。その殺人犯に対して、あなたは、次のいずれかの言葉を告げることができる。
- 「きみはすでに一人殺したが、それだけなら無期懲役で済む。しかし私を殺すと、二人殺したので、きみは複数殺人犯となる。すると、きみは死刑になる。それでもいいか? それがイヤなら、私をほっておいて、さっさと逃げなさい」
- 「きみはすでに一人殺した。しかし、どっちみち死刑はないのだから、私を殺しても殺さなくても、きみは無期懲役で済む。ただし、私を殺すと、証人が減るので、きみが逮捕される確率は減る。だからきみは私を殺した方が得だ。私を生かしておくと不利益だ。しかし、私の利益のために、どうか私を生かしておいてほしい」
ここでは、次のことに留意しよう。
「『複数殺人は死刑』という法制度は、殺人事件の前から後まで、ずっと継続している」
このように、時の流れのなかで法制度は継続している。だから、殺人事件が起こる前において、その法制度がすでに機能している。そして、その法制度が機能するためには、殺人事件が起こった後には実際に死刑を実行しなくてはならない。(さもなくば法が形骸化するからだ。守られない法は、在って無きがごとし。)
だから、次のように言える。
「死刑を判決するとは、殺人の後に善悪を判断することではなくて、殺人の前の法制度を機能させることだ」
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死刑の善悪を判断するならば、事件の後にどう判断するかによってはならない。事件の前にどう判断するかによるべきだ。
たとえば、今、あなたの前に、あなたの幼い子供と妻がいる。そのそばに、凶器を持った殺人犯がいる。殺人犯はすでに一人を殺した。そして今、あなたの子供と妻を殺そうとしている。あなたが守りたくても、あなたは手足を縛られており、手足を動かせない。動かせるのは口だけだ。口によって何かを語ることができるだけだ。
そのとき、あなたは口によって、殺人犯に何かを語ることができる。次のいずれかだ。
・ 妻と子供を殺せば、おまえも死刑で死ぬぞ。
・ 妻と子供を殺しても、おまえは死刑で死ぬことは絶対ない。
このいずれかを語ることによって、あなたは未来を操作する影響力を行使できる。なぜなら、法というものは、現在の出来事に対して、未来における効力を発揮するからだ。「因果応報」ふうに。時の流れのなかで。
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死刑判決というものは、決して過去の出来事への判断ではない。殺人犯を死刑に処するかどうかを決めるのは、現在の人々の意思ではない。では何かというと、過去の人々の意思である。その「過去の人々」には、被害者や遺族も含まれる。それらの人々が、「今後、誰かが私たちを殺したら、そいつを死刑にしてくれ」という意思を、未来に委ねた。それによって、彼らは自分の命を救われたいと望んだ。……そのような「生きたい」という思いを尊重することが、時を経たあとで、「死刑」という判決となる。
なのに、「死刑」という判決を事後的に廃棄するとしたら、それは、過去の時点における被害者の意思(「今後、誰かが私たちを殺したら、そいつを死刑にしてくれ」という意思)を、踏みにじるということだ。
「おまえたちが死のうが生きようが、それはおれたちには関係ないよ。死んだものは死んだものだ。今さらどうにもならないんだから、墓の下で黙っていろ。おまえたちの生命よりは、殺人者の生命の方が、はるかに大切なんだよ。殺されたものには何の権利もなく、殺したものだけに権利があるんだよ。なぜなら、殺されたものは死者であり、殺したものは生者だからだ。死者よりは生者の方がずっと大切なんだ。死んだ被害者には何の権利もなく、生きている殺人者には多大な権利がある」
これがつまりは、「命は何よりも大切だ」という発想だ。
しかし私は、「生よりも死の方が大切なこともある」と指摘したい。……それは容易には理解しがたい発想だが。
( ※ この言葉の意味を理解するには、深い省察が必要となる。)
[ 付記 ]
通常、最後には結論を記すのだが、本項では、最後には結論を記さない。結論はすでに本文中で述べてある。繰り返すまでもなかろう。……着色部を読むだけでもいい。
「復讐」目的であれば憎い殺人者を殺すのは当然
「教育」目的であれば、殺人者であっても「教育」を行い社会復帰させる
ということです。 ちなみに私は「復讐」に傾いていますが・・・。
簡単に言えば、何かを「目的」としているのではない。
法律も経済も、全部人間がよく生きるために生み出したものですが、それらは生きている人間が生きている人間のために作ったものです。
死刑というのは、生きている人間を法律が殺すということです。
私は、どんな理由があろうと人間が生み出したシステムが当の人間を殺すというのは間違いだと思います。
死刑というのは、まるで神が天の裁きを下すような発想で、法律の前に人間があるということが忘れ去られています。
経済についても同じようなことが言えて、市場経済が極限まで行くと競争において落ちこぼれた人間は最終的に生きる権利を奪われます。
それを防ぐためにセーフティネットというシステムがあるのではないでしょうか。
死刑を肯定するのなら、セーフティネットは否定されなければならず、その先にあるのは人間が自分の生み出したシステムによって虐げられ、命を奪われる暗黒の社会です。
ロジカルにものを考える人間は、ある時には非常に素晴らしい洞察力を発揮しますが、今回のようなケースにおいては人との感情を捨てたロボットのように見えます。
私たちは生きているし、他人に対して慈しみの心も持っているはずです。
何でもロジカルに考えればいいというものではないと、私は思うところです
少数ながら死刑に反対されている被害者の遺族もおられますが、多くは犯行が確定している加害者に対し、命をもって償ってもらいたいと思うのも自然な感情でしょう。
ただ、事件とは無関係な人々が、被害者の痛みを全部理解しているような感覚をもって死刑が当然と主張するのは感情的すぎるような気がするのです。
現に、加害者の死刑を望まない遺族もいるのだし。
「事件の外にいた人たちは、誰も加害者の命を奪う権利など持っていない」というような言葉を、自らが死刑判決を下した犯罪者の荒れ果てた墓標に手を合わせながら、ある裁判官が言ったそうです。
「復讐ですね、娘と同じ目に合わせてやりたい!……それが出来れば……」
最近の人身事故で娘さんをなくされた父親が思いのたけを訴えておられました。この人でさえ、「それが出来れば」と理性を保とうと葛藤しているのです。
他人が感情的になるのは、むしろ遺族の深い痛みを飛び越えちゃってます。
じゃーどうすりゃいいの?と問われたら困ってしまいますが。
私の考え方は、ここに書いてあります。
→ http://nando.seesaa.net/article/157741980.html
これなら、賛成論者も、反対論者も、「自分の言うとおりになった」と大喜びできるでしょう。
死刑廃止論者は事件を過去のものとみなし、
死刑存置論者は事件を現在のものとみなしている。
という理屈は相当無理があるかと思います。
だってそもそも殆どの死刑廃止論者は「殺人は過去のものだから」という理屈で廃止を主張しているわけじゃありませんもの。
死刑廃止を主張する法学者が、罪刑法定主義、法の不遡及原則を知らないとでも?
それって単に、あなたが自分の主張に基づいて死刑廃止論者に下した「死刑廃止論者はこうだ」っていう「評価」であって、相手の主張を踏まえた議論ではないと思います。
相手の主張に対しての反論が議論のフェアなやり方です。
相手に一方的な評価を下し、それをもとに相手の考えを否定するのはフェアなやり方だとは思いません。
> 死刑廃止を主張する法学者が、罪刑法定主義、法の不遡及原則を知らないとでも?
相当、誤読していますよ。「罪刑法定主義、法の不遡及原則」とは全く別の話をしているんですけど。そんなふうに読み取るとしたら、私の言っていることを根本的に誤読している。私の言っていることは法理論じゃありません。
本文中には述べていなかったが、基本的には、次の対立です。
・ 事件をその特定の事件として考える。 the case.(その事件は過去の事件である。日付は過去の日付が特定的に付いている。)
・ 事件を多くの現象のなかの一つとして考える。 a case.(その事件は、過去から未来に続く流れのなかの一つとして、特定化されず、日付なしで考える。)
ここでは「過去/非過去(現在・未来)」という対立があるのではなく、「特定/非特定」という対立がある。後者が私の主張です。あなたは前者だと勘違いしている。
私が「過去のもの」というのは、「もはや死者を生き返らせることはできない」という意味です。一方、「過去のものではない」というのは、「今後、死者を発生させることが減る」という意味です。その違いで対比的に考えています。これが私の論点です。論点を正しく理解してください。