◆ 集団的自衛権と戦術的自衛権:  nando ブログ

2014年04月29日

◆ 集団的自衛権と戦術的自衛権

 安倍首相は集団的自衛権の導入に熱心だ。これについて、政治的な偏りを抜きにして、論理と法理を主体に考察する。

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 安倍首相は集団的自衛権の導入に熱心だ。特に、憲法を改正することなしに、憲法解釈の変更だけで、勝手に導入しようとしている。これについては、内閣法制局が否定的だし、国民の大多数も否定的だ。にもかかわらず、圧倒的な議席を理由に、強引に集団的自衛権を導入しようとしている。(民主主義とは逆のやり方。プーチンや金正恩ふう。まったく、どこの国の首相だかわからないね。 (^^); )

 さて。この問題については、政治的な左右の立場から是非が言われているが、政治的な立場を離れて、軍事常識と論理と法理だけで問題を考察しよう。

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 まず、これまでの流れを見ると、安倍首相の方針は、次の通り。
  ・ 初めは、集団的自衛権を後半に導入しようとした。
  ・ 「地球の裏側まで出掛けて、米軍の侵攻に協力するのか」
   という批判が生じた。
  ・ 方針を転換して、日本近辺などだけに限定した。

 最後の方式(限定容認論)で何とか集団的自衛権を導入したい……というのが、現在の方針であるようだ。
  → 知恵者、高村氏の「限定容認論」
  → 集団的自衛権について(高村正彦 副総裁)[自民党サイト]

 だが、この方式には、次の難点がある。
  ・ 集団的自衛権を導入する法的根拠は何か? 
  ・ 「限定」の理由は何か?
  ・ 「限定」はいつでも好き勝手に外せるのでは?


 これらの難点がある。そこで、以下で考察しよう。

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 (1) 集団的自衛権の根拠

 集団的自衛権の根拠は何か? 実は、そんなものは何もない。明らかに憲法違反である。(導入したければ改憲の必要がある。)
 なぜか? そもそも、自衛権の導入の理由を考えればわかる。自衛権が導入されたのは、それが法的な権利である前に、自然発生的にある権利だ、ということだ。たとえば、次のような。
  ・ 生きる権利
  ・ 呼吸する権利
  ・ 地上を歩く権利

 これらは、法律で「権利」として明記されていないが、その権利はもともとある。それは法的に付与された権利ではなくて、人間が生まれながらにして持つ権利である。だからいちいち法律で明記しないのだ。
 自衛権もまた同様のものだと見なせる。それを法律で明記したものの一つが「正当防衛」という概念だ。
 これを国家レベルに引き上げたのが「自衛権」である。国家は他人から攻撃されたとき、自らを守る権利がある。それは法的な規定に影響されない。……そういう形で、「自衛権」というものが導入された。かくて、自衛隊は合憲とされた。
 
 では、集団的自衛権は? そんなものは「自然権」としては与えられていない。たとえば、ドラえもんの隣にいるのび太がジャイアンに殴られたとき、のび太を守るためにドラえもんがジャイアンを殴る、という権利はない。そうすることは可能だとしても、そのような権利などはない。これがつまり「集団的自衛権などは自然権としては存在しない」ということだ。
 集団的自衛権を導入したければ導入してもいいが、それは、立法措置によるのが道理である。立法措置によらずに勝手に導入するのは、まったく道理が通らない。
 これが法的な判断だろう。(その意味で、自民党の見解はおかしい。法的には滅茶苦茶だ、と言える。)

 (2) 限定容認論

 限定容認論というのは、もっとおかしい。仮に集団的自衛権というものが自然権としてあるのであれば、そのまま無条件に成立するはずだ。とすれば、「限定」となる法的根拠がない。あまりにも御都合主義的すぎる。(世論に迎合して法理を歪めていることになる。)
 とにかく、集団的自衛権の限定容認論というものは、法理的にありえない。
 そして、そうだとすれば、集団的自衛権の限定容認論を導入したあとは、なし崩し的に、全面解禁に至ることになる。つまり、米軍が地球の裏側で侵攻するときにも、その軍事活動に協力していいはずだ。たとえば、次のような例だ。
  ・ 米軍がベトナムで虐殺するとき。
  ・ 米軍がアフガンで民間人を攻撃するとき。
  ・ 米軍とイスラエルが協力してパレスチナ人を虐殺するとき。

 このようなときにも、日本は自衛隊を海外に派遣して、米軍の虐殺や侵攻に協力していい、ということになる。
( ※ 限定容認論というのは、ありえないのだ。)

 (3) 軍事的必要性

 法理的には、限定容認論はありえない。しかしながら、自民党があれこれと主張しているように、軍事的には「限定的な集団的自衛権」は必要だろう。特に、次のような場合だ。
 「尖閣諸島を自衛隊と米軍が守っているときに、米軍に対して中国軍から攻撃があったとき」
 このとき、中国軍に対して自衛隊が何もできないのでは、大いに困ることになる。
 下手をすると、次の結果になる。
  ・ 中国軍は、まずは米軍部隊を集中攻撃する。
  ・ そのとき、自衛隊は、何もできずに、指をくわえるだけ。
  ・ 米軍部隊が壊滅したあとで、中国軍は自衛隊を攻撃する。
  ・ 以上の順序で、米軍部隊と自衛隊はともに壊滅する。

 このようなことは、是非とも避けたい。つまり、自衛隊としては、集団的自衛権を行使したい。中国軍が米軍部隊を攻撃している段階で、米軍部隊と協力して中国軍を撃破したい。
 こうして、集団的自衛権の軍事的な必要性が生じる。

 ──

 結局、軍事的には、集団的自衛権は必要である。少なくとも、限定容認論の範囲では、必要である。(3)で述べた通り。
 一方、法理的には、集団的自衛権というものはありえない。(1)(2) で述べた通り。
 では、どうすればいいか? どう解決すればいいか?
 
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 ここで、困ったときの nandoブログ。矛盾を解決するうまいアイデアが求められる。そこで、アイデアを出そう。以下の通りだ。

 軍事的には、集団的自衛権は必要である。少なくとも、限定容認論の範囲では、必要である。だから、そのような権利を認めればいい。
 とはいえ、法的には、集団的自衛権はありえない。
 とすれば、以上から得られる結論は、ただ一つ。こうだ。
 「集団的自衛権と同じ権利を、集団的自衛権とは別の原理によって、容認する」

 では、「別の原理」とは? そのようなものは、ただ一つしかない。つまり「自衛権」だ。
 では、自衛権(の拡張)によって集団的自衛権と同じ権利を容認する、ということは、可能か? 実は、そのことは、これまでも検討されたが、あまり芳しい理屈が立たなかった。
 また、「自衛権の拡大解釈によって集団的自衛権を容認すると、自衛の名の下で侵略が認められてしまう。ちょうど旧日本軍が満州防衛を名目に中国を侵略したように」という懸念も生じた。だから、「自衛権の拡大解釈」というアイデアはまずい。
 では、どうする? 

 ここで、新たなアイデアを出そう。それは、「戦術的自衛権」というものだ。
 自衛権というものは、通常、自分自身についての攻撃に反撃する権利を言う。個人で言えば、自分の肉体についての攻撃に反撃する権利である。
 ところが、相手の攻撃は、自分の肉体についての攻撃だとは限らない。自分のもつ武器や防御に対する攻撃であることもある。すると、本人にとっては、次のような攻撃を受けることになる。
  ・ 自分のいる家を破壊される。
  ・ 自分のもつ武器(拳銃や剣など)を破壊される。

 このような攻撃は、自分の肉体への攻撃ではないが、次に自分の肉体への攻撃が予定されているものだ。敵としては、まずは家や武器を破壊して、そのあとで本人を破壊する、という方針である。
 そこで、このような場合には、自分の肉体についての攻撃は受けなくとも、自分の家や武器を攻撃された時点で、「自分が攻撃された」と見なして、反撃することができる。……これが「戦術的自衛権」である。
 このような権利は、自然権として認められる。だから、法解釈を必要とせず、解釈だけで容認できる。
 しかも、このような権利は、「米軍への攻撃を受けたことを、自分自身への攻撃と見なす」ことが可能だ。なぜなら、米軍は自衛隊を守る意思がある限り、自衛隊の自衛権の要素の一部となるからだ。
 ここで、米軍を破壊されると、自衛隊の自衛権が損なわれる。だから、自衛隊の自衛権を損なわないために、米軍への攻撃に対して自衛隊が反撃することが可能である。(自衛隊の自衛権の一部として。)

 当然だが、このような権利は、「地球の裏側まで出掛ける」ということには適用されない。なぜなら、米軍が遠隔地の敵を攻撃しているときには、それは日本を守る行為ではないからだ。当然、それは日本の自衛権の一部ではない。ゆえに、「地球の裏側まで出掛ける」という場合には、自衛権の範囲外となり、「戦術的自衛権」は適用不可能となる。

 ──

 結論。

 「集団的自衛権の限定容認」というのは、軍事的には必要だが、法的に成立しない。また、それを無理に容認すれば、将来の無制限な拡大解釈に結びつきやすい。
 むしろ、「戦術的自衛権」という概念を導入すればいい。これならば、軍事的には「集団的自衛権の限定容認」と同等のことが可能となる。しかも、法的には道理が通るし、また、将来の無制限な拡大解釈を阻止できる。
 すべてが問題なく解決できる。かくて、うまいアイデアは提出された。(おしまい。)
 


 [ 付記 ]
 類似的に、「戦略的自衛権」というものも考えられる。これは次のようなものだ。
 「米国が攻撃されることは、戦術的には日本にとって危険ではないが、戦略的には日本にとって不利なことだ。そこで、米国が他国と戦争をした場合には、米国の味方をして、米異国の敵を攻撃する」
 これは成立するか? もちろん、成立しない。(自然権としての自衛権の形では。)
 実は、上の概念(戦略的自衛権)は、次の二つと同様である。
  ・ 集団的自衛権
  ・ 軍事同盟

 このようなものは、政治的には選択肢の対象となるが、自明の自然権としては成立しない。
 この意味からしても、「集団的自衛権」という概念を導入するのは、まったく道理が通らない。
 安倍内閣があえて道理の通らない「集団的自衛権」という概念を導入しようとしているのは、「日本の安全を守る」という目的を重視しているからではなくて、「米国と軍事同盟を結びたい」「外国で戦争をしたい」「日本を軍事大国として世界に知らしめたい」という要求があるからだろう。そうとしか思えない。
( ※ 日本の安全を目的とするのならば、戦術的自衛権という自衛権だけで十分だからだ。集団的自衛権は、日本の安全を守るというより、巻き込まれ型の形での危険をかえって増やす。)



 【 追記 】 (集団的自衛権と機雷除去)
 「集団的自衛権と機雷除去」というテーマで考える。
 ホルムズ海峡に機雷が設置されたら、これを自衛隊が除去するべきか? 
 「イエス」という見解がある。「ここを通るタンカーは全体の8割であり、ここを封鎖されたら日本にとって死活的に重要だからだ」という理屈。
 しかしこれは論理的にはおかしい。ほぼ同様のことは他国にも当てはまるから、他国だってここの機雷を除去したがるからだ。具体的には、米国が一番手だ。常識的には、米国が除去する。日本が何もしないからといって、機雷封鎖が続くわけではない。
 そこで、「だったら日本は米国に協力して機雷除去をするべきだ」という見解もある。それはそれで成立する。ただし、次のことを想定するべきだ。
 「機雷を設置した国は、機雷除去の船を攻撃する」
 これは杞憂ではない。実際、日本が機雷除去を要請されるのは、敵国が米国の機雷除去を妨害しているときを想定している。敵国は米国の機雷除去の船を攻撃するから、その間に日本が機雷を除去するべきだ、という想定だ。ここでは、次のことが想定されている。
 「敵国は、米国の艦船を攻撃することはあるが、日本の艦船を攻撃しない」
 しかし、こんなバカなことはありえない。敵国は日本の機雷除去の艦船を攻撃するのだ! ここに注意! 
 とすれば、日本としては、次のいずれかの選択肢しかない。
  ・ 日本の機雷除去の艦船が攻撃されて沈没するのを放置する。(死者も出す)
  ・ ホルムズ海峡で敵国と交戦する。そのために軍隊を派遣する。

 後者の場合、敵国を攻撃する戦力が必要となる。特に、空母が必要だ。(イージス艦を派遣して日本近辺をもぬけの殻にするわけには行かない。)
 
 結論。

 日本がホルムズ海峡で機雷を除去するならば、敵国と交戦することを前提とするべきだ。「機雷除去をしても敵国から攻撃されない」という想定は、あまりにも甘すぎる現実無視だ。軍事常識を無視した素人判断だ。(例。読売社説河野太郎ブログ
 戦争というものは、参加すれば攻撃さられる。「参加しても攻撃されない」と信じて参加すれば、多大な犠牲者を出す。それも理解できないまま、「参加しても大丈夫さ」と思うような甘ちゃん主義には、呆れるしかない。
 戦争に参加するならば、戦争をするだけの覚悟をもつべきだ。そのためには最低限、敵国を攻撃するだけの攻撃力を持つべきだ。特に、空母と爆撃機を用意するべきだ。これが戦争をするための最低条件だ。
 この最低条件を満たさないまま戦争に参加するなんて、戦争というものをなめきっているとしか思えない。平和ボケか? 「戦争に参加しても、攻撃するだけで、攻撃されることはありません」と思っているのか? ゲームのやりすぎではないのか? 
 戦争はゲームではない。殺して、殺されることだ。国民(自衛隊員)の人命を奪うことも覚悟しないまま、戦争に参加するなんて、狂気の沙汰だとしか思えない。戦争をするならば、多大な自衛隊員の命が奪われるのだ。そのことも理解できないまま、「ちょっとだけ戦争に参加するならば大丈夫さ」と思うような甘ちゃん主義には、呆れるしかない。
 


 【 関連項目 】
 以下は、「泉の波立ち」に書いた話。論理的に述べた本項とは違って、政治的な見解です。政治的見解を異にするに人々にとっては、不快に感じられるかもしれません。

 → 集団的自衛権は合憲か? (8月04日)
 → 集団的自衛権は合憲か? (8月05日)
 
 
posted by 管理人 at 20:45 | Comment(1) | 政治 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
なるほど、あくまで「自衛」の要素が含まれるか否かを戦術的自衛権行使の要件とする訳ですね。
確かにそれなら論理的にも整合的ですし、なにより法的に矛盾が少ないですね。
というか、現内閣の主張が無茶苦茶過ぎるんですが(苦笑)。
ところで、管理人さんは集団的自衛権行使容認による、日本及び世界経済への影響についてお考えになった事はありますか?
私は最近、そこから国際的な安全保障を新たな視点で見る事ができるのでは、と考えているのですが。
Posted by merith at 2014年06月11日 14:57
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