政治主義には、「左派」と「右派」があるが、これらは、「市場原理」という概念を基準に区別すると、うまく位置づけすることが可能となる。
つまり、政治主義としての「左派」と「右派」は、「市場原理」という概念を基準に区別すると、その意味と限界が明らかになる。
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政治主義としての「右派」と「左派」は、次のように区別できる。
・ 右派
…… 「優勝劣敗」を肯定する。
…… 「自分は強者だ」と思う人が、自分の富を弱者に奪われるのを拒否する。そのことを、「市場原理」によって肯定する。
・ 左派
…… 「優勝劣敗」を否定する。
…… 「自分は弱者だ」と思う人が、強者の富を弱者に奪われるのを正当化する。(社会主義的な発想。)
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この二つは、まったく対極的に見えるかもしれないが、両者には共通点がある。それは、「エゴイズム」だ。
つまり、この二つの発想のどちらにおいても、発想の根底にあるのは「エゴイズム」である。つまり、「自分の富を増やして、他人の富を減らしたい」ということだ。ただし、その「エゴ」となる主体(主語となるもの)が異なるだけだ。
・ 右派 …… 社会システムを自分のために利用したい、というエゴイズム。(富者のエゴイズム)
・ 左派 …… 強者の富を奪いたい、というエゴイズム。(貧者のエゴイズム)
現在、圧倒的に優勢なのは、前者(右派)である。ただし、その発想は、妥当ではない。その理由は、前に解説した。
再掲すると、次の通り。
《 社会システムの利用料金 》まとめて言おう。右派は、「自分の金は自分の力で稼いだものだ」と思っているが、実はそうではない。彼の稼いだお金は、社会システムを利用して稼いだものだ。そして、現在の社会システムは、強者にはすこぶる有利なようにできており、弱者にはすこぶる不利なようにできている。だから、強者には多くを課税し、弱者には福祉で面倒を見るべきだ。
そもそも、「市場経済」というものが、不公平な仕組みになっている。そこでは「弱肉強食」がなされる。強いライオンが弱い子鹿を食い尽くすように、金儲けのうまい者が金儲けの下手な者から金を奪う。金持ちとは、「正当な所得を得たもの」ではなくて、「社会システムをうまく利用して自分の富を増やした者」のことである。彼は、自己の才覚だけによって儲けたのではなく、社会システムをうまく利用して儲けたにすぎない。ならば、社会システムを利用したことの利用料を払うのは当然なのだ。「自己の才覚だけで儲けた」と思い込むのは、ひどい思い上がりである。そんなことを言う資格があるのは、隔絶した無人島にいる人だけだ。どうしても税金を払いたくなければ、無人島で一人で暮らすべきだ。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/izumi/96k_news.htm
これは、屁理屈だろうか? いや、屁理屈ではない。ただの近代的思想である。
これとは逆のものが、前近代的思想、すなわち、封建的思想である。そこでは、領主や王様という絶対的な強者がおり、民の稼いだ富を吸い上げて、自分ばかりが富を得る。しかし、こういう社会(封建的社会)は、進歩がそがれて、停滞してしまう。愚かな王様が賢明な民衆を弾圧する、という形になるからだ。
そこで、こういうことをなくすために、近代的な制度が整えられた。たとえば、
・ 累進課税
・ 高額の相続税
・ 財産税(高額の不動産税など)
である。これがつまりは、近代的思想になるものだ。
一方、その逆が、前近代的な思想になるものだ。つまり、
・ 累進課税の廃止
・ 低率の相続税
・ 財産税の廃止
である。そして、これらは、いわゆる「小さな政府」や「優勝劣敗」を主張する右派のものである。
彼ら右派は、日本を改善しようというつもりで、実は、日本を封建的な古臭い国家にしようとしているわけだ。……これは、極端に言えば、昔の三菱や三井のような財閥が国家を支配し、富国強兵で軍備の強い、強権国家である。(狂犬国家という誤変換の方がマシかも。)
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以上のような右派の発想は、とんでもない間違いだ。彼らは、「自由」を信奉しているが、実は、「自由」を抑圧する前近代的な思想を取っているのである。
(そのことは、現在の経済状況を見れば、よくわかる。国民は、自由を享受するというよりは、企業に抑圧されている。好きな生き方をする権利があるというよりは、残業をさせられて、非人間的な生活をしている。いわば、奴隷だ。「政府を批判する権利のある奴隷」というのが、日本人の状況だ。……ただし、この奴隷は、反発心がないので、自分たちを奴隷状況から脱させようという気概がない。ふぬけの奴隷。)
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では、どうすればいいか? 右派とは逆の発想を取ればいいか?
いや、違う。左派の発想によって、「強者の富を弱者が分配すればいい」という発想を取ると、国家が崩壊してしまう。(たとえばソ連や中国。)
左派が国家を握ると、国家が崩壊してしまうので、最悪である。その点では、右派の主張が正しい。(自分たちが正しいことを主張しているというよりは、ライバルへの悪口が妥当である、という意味で。)
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以上を見たあとで、結論はこうなるだろう。
「右派も左派も、どちらも間違いである」
では、その理由は? こうだ。
「右派も左派も、どちらも他人の富を奪おうとする、エゴイストにすぎない」
つまり、右派も左派も、どちらも泥棒のようなものである。強い少数の泥棒と、弱い多数の泥棒とが、たがいに喧嘩し合っているだけだ。
まことに見苦しい。情けない。……そして、ここに、本質がある。
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では、どうすればいいか?
そのことは、前項のことからわかる。つまり、マクロ経済学の発想を取ればいい。マクロ経済学の発想とは? こうだ。
「他人のものを奪うことによって自分の富を増やす、という発想を捨てる。かわりに、全員の富を増やすことによって自分の富を増やす、という発想を取る」
ここでは、「他人のものを奪う」というミクロ的な発想(エゴイズムの発想・競争の発想)を捨てる。つまり、「配分をどうするか?」というミクロ的な発想を捨てる。かわりに、「全体量を増やす」というマクロ的な発想を取る。
比喩的に言おう。兄弟でパイを分けるとする。ここで、たがいに「オレがいっぱい取るぞ」と喧嘩するのではなくて、「二人で協力して大きなパイを得よう」というふうにする。若貴兄弟の貴乃花のように「兄のものを奪う」という発想を取るのでもなく、若乃花のように「自分のものを弟にあげる」という発想を取るのでもなく、昔の二人のように、「二人がどちらも横綱になれるようにする」という発想を取る。
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では、そのためには、どうすればいいか? 「競争」よりも「協力」が必要だ。兄弟で喧嘩して強い方がパイをいっぱい取ればいいのではなく、兄弟で知恵を働かせて、「どうすればパイが大きくなるか」を考えればいいのだ。
そして、そのときに大切なのは、「自分のためを思う」というエゴイズムではなくて、「相手のためを思う」という優しさ ・愛である。
経済において一番大切なのは、優勝劣敗という競争原理ではなくて、協力しあうことができるような優しさ ・愛である。
ただし、優しさ ・愛があるだけでは、のちの若乃花のように、「自分のものを与える」というふうになるだけだ。そこで、もう一つ、「全体のものを増やす」という賢明さが必要となる。
ただし、その賢明さが成立するためには、エゴイズムを捨てることが前提となる。(優しさ ・愛が前提となる。若き日の若貴兄弟にはそれがあった。)
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以上のことが大切だ。
このことを理解しない限り、経済学者も政治家も、いつまでたっても見当違いなところをめぐって、堂々めぐりするしかないだろう。
現在の人類は、経済や政治について、猿並みの知恵しか持っていない、とも言える。彼らは「たがいに競争する」という知恵しか持っていない。彼らの辞書には「優しさ」とか「愛」とかの言葉がない。「協力」という言葉もない。
「優しさ」や「愛」がなければ、真の知恵は成立しないのだ。知恵だけがあって心がないと、学者馬鹿になるばかりだ。
弱者を救って”あげる”という発想ではなく、弱者を救うことで社会全体の利益を底上げする発想が必要なんですね。
人や究極的には利己主義にしかなり得ない、というのが私の持論ですが、「利」を深く本質的に考えれば、愛も優しさも必須要素だとは元々思ってました。ただ、それを経済理論にまで発展させたのがすばらしいです。
人はもっと賢くならねば。
> 人は究極的には利己主義にしかなり得ない、というのが私の持論です。。
これはその通りです。「究極的に」という点では、まさしくその通り。「自分が生きるか他人が生きるか」という二者択一では、「自分が生きる」を選びます。
大切なのは、そのような「二者択一」の状況を作らないことです。
つまり、一人一人は利己主義でいいのですが、社会を制御する政府としては、「利己主義で社会も良くなる」という原理を取ってはならないのです。
個人のなすべきことと、社会のなすべきこととは、違います。
個人は利己主義で生きるのは、良いことでも悪いことでもなく、ただの当り前のことです。それしかないでしょう。一方、社会は、利己主義を基本とするシステムと、そうでないシステムとがあります。
特に、利己主義を基本とするシステムには、二種類あります。右派と左派はいずれもそうです。
そこで、利己主義を基本とするシステムとは異なるシステムを取ればいい、というのが、本項の話です。個人の話ではなくて、社会システムの話です。
この点は、本文では舌足らずだったので、ここに補記しておきます。
私も間違ったことを書いてるつもりは、もちろんなかったのですが、長文の割には趣旨がまとまらない文章だったのでシンプルに書き直したのです。
それで、補足文章いただいて元々何を言いたかったのか少しまとまりました。
まさに、ここで書いていただいたことが、南堂さんの文章から(これまで)うまく伝わっていなかったのでそれを確認したかったのです。
「愛」とか「優しさ」という言葉に対して、反射的に胡散臭さを感じてしまうのは、きっと私だけじゃないと思います。
利己的主張を「愛」や「優しさ」で語られることがあまりにも日常に多いので。
典型的なのが「みんなが優しくしてくれない」という小学生の女の子の主張だったりします。
だから、南堂氏が「愛」とか「優しさ」を文章として書くとき、条件反射的に胡散臭さを感じて、文章の意図を正しく読めない人は多いんじゃないかと思います。
今回の文章は、その胡散臭さをあまり感じなく、だから名文だと思いますが。
個人が利己主義であるのは当たり前だと考え、そのなかで個人が「愛」や「優しさ」を持てるための社会(システム)を作ることが重要なんだ、そういうことですね。
個人的には、「利」というものを本質的に考えられる賢明ささえあれば、徹底的に利己主義を追求することが社会を良くすると考えてます。
ただ、誤解を生みやすい表現なので、理解してもらうのは難しいかもしれません。
元の文章で「究極的」と私が書いた意味は、究極的状況という意味もありますが、究極的意味合いで「利」を考えたとき、という意味でもあります。
「情けは人のためならず」、情けだって自分の利のためなのです。
誤解をおそれず、書くと
『人は本質的に、利のためにしか動かない』
が私の持論、というより、1つの絶対的判断基準なのです。
だから、南堂氏の文章にどうしても違和感を感じてしまっていたのですが、今回、補足説明も含めて考えがそれほどずれてないと分かって良かったと思います。