◆ 感情と論理:  nando ブログ

2018年11月14日

◆ 感情と論理

 感情よりも論理が大切だ、と見なす風潮が強い。そこで、感情と論理の関係を、脳や言語の立場から考え直してみる。

 ──

 感情よりも論理が大切だ、と見なす風潮が強い。特に、学校や学術界では、その傾向が強い。
 たとえば、次のような傾向が見られる。
  ・ 感情的ではいけない、論理的であれ。
  ・ 国語を学ぶなら、論説文を学ぶのがいい。


 ──

 ここで、問題を原理的に探るために、脳( or 脳科学)の立場から考えよう。

 感情と論理は、脳で扱う領域が異なる。
  ・ 感情は、前頭前野
  ・ 論理は、左脳(言語領域)


 左脳(言語領域)というのは、ウェルニッケ領域だ。ここを阻害されると、言葉を理解できなくなり、論理能力もなくす。

 前頭前野は、「脳についての脳」のようなものであって、脳の各領域に対する司令塔のような役割をなす。ここが同時に、感情を扱う。……では、それは何を意味するか? 
 
 ──

 そもそも、脳の前頭部というのは、あらゆる動物に存在する。魚にも存在するし、昆虫にも存在する。一方、脳の言語領域というのは、人間ぐらいにしか存在しない。この点では、両者は大きく異なる。

 魚や昆虫は、言語領域を持たないが、前頭部を持つ。とすれば、そこには「感情」のようなものがあると考えてもいいだろう。(高度な感情ではなく、原始的な感情だが。)
 では、それはどういうものか? 

 私の推測を言えば、こうだ。
 生物の行動には、本能的な行動と、自律的な行動とがある。たとえば、餌をとるための行動や、交尾する行動は、本能的な行動だ。
 一方、目の前に急に「天敵」となる生物が登場したときに、あわてて逃げ出す行動は、自律的な行動だと見なせる。ここでは、天敵の姿を遺伝子レベルで知っていたわけではない。天敵を見たあとで、恐怖を感じて、あわてて逃げ出そうとしているだけだ。
 ここでは「恐怖を感じる」ということが大切だ。それは一種の感情である。

 このような感情は、次のようなものが考えられる。
  ・ 強力な敵に対する 恐怖
  ・ 同類の敵に対する 憎悪・怒り
  ・ 弱小の敵に対する 軽蔑
  ・ 得をしたときの 喜び
  ・ 損をしたときの 悲しみ


 こういう感情があれば、眼前の状況に対して、自分が何をするべきかが、すぐさまわかる。
  ・ 恐怖 → 逃げる
  ・ 憎悪・怒り → 攻撃
  ・ 軽蔑 → 放置・無視
  ・ 喜び → 現状維持 ( or 攻撃の解除)
  ・ 悲しみ → 脱力(無為)


 このような感情があるからこそ、たいていの動物は、いちいち論理的に考えたりしないで、直感的に行動を取ることができるのである。

 そして、そういう直感的な行動は、あまりにも原理的であって単純であるがゆえに、たまには間違った行動を導くこともある。
 それゆえ現代人は、「感情的になるな。冷静に論理的に考えよ」という教訓を取ることが多い。
 ま、それが良くないというわけではないのだが、感情というものがあるからこそ、たいていの場合には間違うことなく正しい行為を瞬間的に取ることができるのだ。
 たとえば、おいしいものを食べれば、嬉しくなって、どんどん食べようとする。まずいものを食べると、イヤな思いがして、食べるのを中断する。……こういう能力が生得的に備わっているからこそ、次のような行動が取れる。
  ・ 甘い果実を食べると、喜んで、どんどん食べる。
  ・ 苦い果実を食べると、不快で、食べるのをやめる。


 ここで、甘い果実とは、栄養分のある食物である。一方、苦い果実とは、アルカロイドを含む有毒物である。したがって、感情に従うだけで、最適の行動を自動的かつ瞬間的に選択することができる。
 感情というのは、それほどにも有益なものなのである。このような仕組みを備えていない動物は、あっという間に滅びてしまうだろう。

 ここまで理解すれば、感情の有益さと、感情の限界が、ともに理解できるはずだ。

 ──

 感情と論理について、「どちらが大切か」というような議論は無意味だ。感情と論理は、人間にとってはどちらも大切なのである。一方だけを優先するべきものではない。

 ただ、感情というのは、生物として備わっているのに対して、論理というのは、ホモ・サピエンスが後天的に獲得したものである。その点、原理的に、かなり異なった種類のものである。そう理解して、適材適所ふうにして用いるようにするべきだろう。(ケースバイケースという感じ。)
 たとえば、食事のときには感情(好き嫌い)に従うだけでもいいが、そのときついでに論理的に食品の栄養やコストなどを考えてもいい。どちらもそれなりに大切である。



 [ 付記 ]
 入試の国語ではどうか?
 そもそも国語というのは、言語の勉強だ。だからテストで使うのは、論説文でいい。小説や詩などの文学は、言語よりも感情(心理)を扱うことが多いので、言語の能力を測るためには適さない。この件は、前に述べたとおり。
  → 国語と文学を区別せよ: Open ブログ

 一方で、国語力そのものを基礎からアップするためには、感情と結びついた言語表現を学ぶことも必要だ。言語に関する感性を高めることで、言語力そのものを磨くことができる。
  → 高校の国語改革の倒錯: Open ブログ

 たとえば、次のような有名な詩句がある。
  ・ 白鳥は かなしからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ
  ・ 久方のひかりのどけき春の日に しず心なく花のちるらむ
  ・ まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき


 こういう言葉を読んで、打ち震えるような言語的な感性を持つことは、とても大切だ。それが言語力を磨くということだ。
 ただしそのとき、それぞれの詩歌の意味をあれこれと論理的に分析する必要はない。それよりもむしろ、心でじっくりと感動することが大切だ。そういう体験を得ることが国語教育だ。
 ただ、それは、試験に馴染むような「言語能力の評価」とは異なるものである。

 大学入試では「論説文のテスト」だけで足りるが、だからといって、「そのためには常日頃から論説文だけを読めばいい」とか、「小説や詩歌を読む必要はない」とか、そういうことにはならない。

 近年の入試では、「単にその教科だけでなく、総合的な学力や思考力を問う」というタイプの試験が増えてきている。(共通テストもその傾向がある。)……こういうことは、慶賀すべきことだ。
 にもかかわらず、国語に関する限りは、「総合的な国語」を捨てて、「論理国語と文学国語に分ける」という逆方向の方針が取られている。まったく、残念なことだ。

 どうも、文科省は、自分のやっていることが自分でもわかっていないようだ。アクセルを踏みながら、同時に、ブレーキを踏んでいる。(というか、逆方向に向かってアクセルを踏んでいる。)
 これはまあ、ほとんど精神錯乱的だと言える。それが今の文科省だ。
  → 高校の国語改革の倒錯: Open ブログ

posted by 管理人 at 23:58 | Comment(7) | 思考法 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
>管理人さま

誤字がいろんなところに見受けられますので、修正して下さい。

その方が、読みやすくなって良いと思います。
Posted by 反財務省 at 2018年11月15日 15:44
 ご指摘ありがとうございました。誤字を修正しました。
 見たら、誤字が多すぎて、ひどすぎましたね。反省して、これからはもっとチェックするようにします。
Posted by 管理人 at 2018年11月15日 18:47
>近年の入試では、「単にその教科だけでなく、総合的な学力や思考力を問う」というタイプの試験が増えて・・・


都立中学(中等教育学校)の入試問題が好例かと思います。よく作りこまれている印象を受けます。良問が多いと思います。

そこいらの大学入試問題なんかよりも難しいのでは?と思ってしまうほどです。
制限時間を無視すれば十分解けると思いますが(笑)、すごく疲れますよ。
Posted by 反財務省 at 2018年11月15日 20:04
>ウェルニッケ領域
ここがダメになっても論理は失いません。発言は支離滅裂ですが。
前頭前野が昆虫にもあったと聞いてビックリです!(笑)ぜひNatureとかScienceに投稿してください。エビデンスがきちんとあれば一躍時の人になれるでしょうね。
それからひとくちに「感情」といってもいろいろです。
恐怖のような感情は扁桃体というかなり原始的な領域で生まれると考えられています。

「直感的な行動」というのは正しいとか間違っているというものではなく「丁か半か」にかけてみるということなのです。
いうなれば著名な進化理論学者である木村資生の「中立説」とでもいいますか。
Posted by とおりがかり at 2018年11月15日 21:52
> ここがダメになっても論理は失いません。

 私が言う論理は、言語的な論理であって、論理的行動というような意味とは違います。言語がなくなれば、言語的な論理も必然的になくなります。

> 前頭前野が昆虫にもあった

 たしかに普通の用語で言う前頭前野は、哺乳類のような高度な動物にしかありませんが、ここでは細胞構造的に言っているのではなく、「人間の前頭前野の働きに相当する前頭部」ぐらいの意味で理解しておいてください。
 その意味では、「前頭前野」という用語は誤りだったので、本文中の記述を「前頭部」というふうに書き直しました。
 たしかにご指摘の通りですね。失礼しました。

 なお、本文中における意味は:
    脳の各部を統率して随意運動を定めるもの
 というぐらいの意味です。
 
> 扁桃体というかなり原始的な領域で生まれる

 それはかなり疑問ですね。扁桃体も関与している、というぐらいでしょう。そもそも、視覚や聴覚で対象を認識しないと、恐怖が起こることもないので、脳の認識能力の後に来るものであることは確実です。扁桃体がそれ単独で働くはずがない。

> 「直感的な行動」というのは〜

 それはあなたの独自解釈。

> 木村資生の「中立説」

 全然関係ないでしょう。あれは脳じゃなくて遺伝子の話。進化の話というよりは、進化がないことの話。
Posted by 管理人 at 2018年11月15日 22:45
いえいえ、言語的な論理性も失われません。
覚醒下の脳外科の手術を見学することをおすすめします。ウェルニッケ野に電気的刺激を与えて麻痺させても言語的な論理性は失われません。

Posted by とおりがかり at 2018年11月15日 23:30
 言語なしの言語論理というのは、色を認識できない人による色の区別みたいなもので、意味をなさないでしょう。

 とはいえ、統語的な能力はウェルニッケではなくブローカ野でなされるので、おっしゃることの意味はいくらかはわかります。
Posted by 管理人 at 2018年11月16日 07:17
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