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ソ連が崩壊した過程は、歴史的に説明されている。ただし、具体的な細かな事象の列挙であり、それらが「ソ連崩壊」という大事件に結びついた理由ははっきりとしない。なぜ大きな国が一挙に崩壊したのか? あらためて考えてみよう。
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本日、当時の事件を現地で体験した人の体験記が公開された。(はてなブックマークで話題になった。)
→ ぼくは見た、国の消滅を | NHKニュース
これを受けて調べ直すと、Wikipedia でいろいろと情報を得ることができる。
ソビエト連邦は、……1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。かつてのソビエト連邦を構成した国々は、それぞれが独立国として別々の外交政策を採り始めた。
ソビエト連邦が解体され、CISという緩やかな国家同盟へと変容した。
反ゴルバチョフを掲げる国家非常事態委員会などの守旧派による8月クーデター失敗後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国もソビエト連邦からの離脱を国民投票で決定し、12月8日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3ヶ国のソビエト連邦からの離脱とEUと同レベルの共同体の創設が確認された。
( → ソ連崩壊 - Wikipedia )
改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年8月のクーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は崩壊した。
( → ロシア - Wikipedia )
最も重要なのは、クーデター失敗であった。
エリツィンロシア共和国大統領が記者会見を行い「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表する。エリツィンはゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得、市民はロシア共和国最高会議ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードを構築した。また市民は銃を持ち火炎瓶を装備、クーデター派ソ連軍に対し臨戦態勢を整えた。クーデターには陸軍最精鋭部隊と空軍は参加しなかった。
午前11時頃、ロシア最高会議は国家非常事態委員会に対して夜10時までに権力の放棄を求める最終通告を行う。この通告に動揺したせいかは定かではないが国家非常事態委員会の一部メンバーが辞任を表明、ヤナーエフ副大統領は飲酒の果てに泥酔して執務不能の状態にあった。午前11時40分、国家非常事態委員会の実質的リーダーであるクリュチコフKGB議長がエリツィンにゴルバチョフ大統領との話し合いを申し出る。
午後1時53分、エリツィンはクーデターが未遂に終わったことを宣言した。午後2時になると国家非常事態委員会のメンバーがソ連国内から逃亡を始め(プーゴ内相は拳銃・アフロメーエフ元参謀総長は首吊り自殺)、エリツィンはメンバーの拘束指令を発する。
( → ソ連8月クーデター - Wikipedia )
こうしてクーデターは失敗した。このあと、ゴルバチョフが復帰するのだが、ここではゴルバチョフが権力の把握を取り戻すことに失敗した。
第1に、権力の中枢である側近たちがこぞって逮捕されて、権力の麻痺状態が生じた。
第2に、軍部の中枢も逮捕されて、軍部も麻痺状態に近くなった。
これらは「政治的な空白」となった。
さらに、それに続いて、決定的な出来事があった。
翌日の8月23日、ゴルバチョフはロシア最高会議で今後のソビエト連邦と共産党に関する政見演説を行うが、議員たちは彼の演説に耳を傾けることはなかった。エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党の活動停止を命じる大統領令に署名を行う。翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任、資産を凍結し党中央委員会の自主解散を要求。ロシアはエストニアとラトビアの独立を承認した。
クーデターからおよそ10日後の8月28日、ソ連最高会議の臨時両院(連邦会議・民族会議)合同会議がパヴロフ首相の不信任案を可決し、共産党の活動全面停止を決定。クーデターを支持した「プラウダ」等の共産党系新聞5紙が発禁処分となった。また、クーデターを支持したとしてタス通信やノーボスチ通信の社長も解任された。
( → ソ連8月クーデター - Wikipedia )
ゴルバチョフはこの当時、すでに国民の支持を失っていた。(経済的崩壊が理由。彼のもたらした民主主義的な自由な思想も理由となった。 → 出典 )
そういう状況で、「政治的空白」のなかで、二つの事件があった。
・ エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党の活動停止を命じる大統領令に署名を行う
・ ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任、資産を凍結し党中央委員会の自主解散を要求
エリツィンがロシア大統領としてロシア共産党を崩壊させ、同時に、ゴルバチョフがソ連共産党を崩壊させた。この二人の決定が、ロシア共産党とソ連共産党の崩壊をもたらした。かくて、共産党の崩壊を通じて、ソ連は崩壊した。
その核心は、こうだ。
「ソ連が崩壊したのは、国が自然に崩れ落ちたのではない。クーデター失敗という事件で国の中枢がぼろぼろになった状態で、エリツィンとゴルバチョフという二人が、自らの権力を使って、ソ連崩壊という解体処分を実行したからだ」
比喩的に言えば、ソ連という病人は、衰弱したあとで、クーデター失敗を通じて、ほとんど瀕死の状態になった。しかし、それでもまだ、瀕死のまま生き続けていた。そこへ、エリツィンとゴルバチョフが、最後に死亡の引き金を引いたのである。「息の根を止める」というような形で。
ここでは、別のシナリオもありえた。クーデター失敗のあとで、ゴルバチョフがエリツィンに抵抗して、ソ連の再構築を企てる、ということだ。その場合、ソ連軍の残る権力機構を通じて、ソ連軍とロシアの軍事対決という形もありえた。しかしその場合、ソ連軍がロシアの民衆を弾圧するという形になるので、非常にまずいことになる。民主的なゴルバチョフとしては、そういう道を取ることはなかった。( ※ わがままなトランプとは違うので。)
基本的に言えば、ゴルバチョフがソ連という鉄の国を、「自由」という思想で緩めたあとで、緩んでガタガタになったソ連を、すっかり解体してしまったのである。
ゴルバチョフは、自ら意図してソ連を崩壊したわけではなかったのだが、自らのもたらした「自由」という思想が、思いも寄らぬほど制御不能になって、ソ連崩壊という経路に結びつかせてしまったのだ。
【 補説 】
このあと、ソ連崩壊のあとで、ロシアという国が誕生したわけだが、しかしながら、それも決してバラ色の歴史にはならなかった。
ゴルバチョフのあとを継いだエリツィンは、ロシアを再建しようとしたが、大失敗して、ロシア経済を崩壊させた。
1992年1月2日、首相を兼任したエリツィンは貿易、価格、通貨の自由化を命じた。同時にマクロ経済安定化の経済政策を採用し、厳格な緊縮財政を行った。財政均衡を実現するため、エリツィンは金融を引き締め、産業への補助金や福祉支出などを大幅に削減した。しかし、この急激な市場経済への移行は市民の貯蓄・資産に打撃を与え、ソ連時代の生活水準は破壊された。同年6月に首相代行に指名したエゴール・ガイダルやアナトリー・チュバイスに経済政策のイニシアティヴを取らせ、国際通貨基金 (IMF) 等の国際機関の助言に従って「ショック療法」と呼ばれる急進的な経済改革で完全な資本主義の導入を図った。市場経済化への一環として行われた価格自由化と国債濫発は1992年に前年比2510%ものハイパーインフレーションを引き起こし、1992年の国内総生産 (GDP) は前年比マイナス14.5%となってしまった。1990年代を通じてロシアのGDPは50%減少し、不平等と失業は激増し、収入は劇的に減少した。一部のエコノミストは、1990年代にロシアが経験した経済危機は1930年代にアメリカやドイツで起きた大恐慌に匹敵するとも評した。
( → ボリス・エリツィン - Wikipedia )
その晩年は、権力基盤を失い、プーチンの監視下に置かれた。
→ 故エリツィン大統領、「晩年はプーチン政権監視下」と露元首相:AFPBB News
→ ボリス・エリツィン|プーチンロシアの前大統領で酔っ払いとしても有名
このあと、プーチン大統領が登場したが、彼はロシア経済を立て直したかわりに、民主主義を崩壊させ、ソ連時代のような独裁国家をもたらした。元の木阿弥みたいに。
こうして見ると、ソ連とロシアは、いろいろと歴史的な皮肉に見舞われていると感じずにはいられない。
まあ、安倍という独裁者を国民が支持している日本としては、偉そうなことは言えないが。
また、トランプという独裁者を頂いている米国としても、偉そうなことは言えないが。
欧州だって、さんざん「自由」を掲げて移民を導入したすえに、英国離脱という形で EU の分裂をもたらしたのだから、偉そうなことは言えないが。
どこもかしこも、ひどいものだ。
なかんずく、最大の経済的成功を享受している中国が、世界最悪の独裁国家であるというのには、もう、引きつるほどの冷笑を浮かべるしかないね。
【 追記 】
ゴルバチョフがソ連を崩壊させたのは、なぜか? それは自爆ではないのか? ── そういう疑問もあるかもしれない。だが、先の話を読めば、真実に気づく。
ゴルバチョフは、ソ連共産党の書記長およびソ連の大統領という座にあって、絶対的な権力を握っていると見えたが、実はそうではなかった。ソ連の権力の大部分は、依然として保守派に占められていた。ゴルバチョフが保守派を動かそうとしても、大きな抵抗にあって、改革はなかなか進まなかった。
こういう状況がある一方で、ロシアではエリツィンの率いる改革派が権力を握るに至った。さらに、保守派によるクーデターという事態まで発生した。
ここに至ってゴルバチョフは決断したのだ。
「現状のままでは保守派の抵抗が強くて、ソ連を改革することはできない。一方、ソ連を消滅させれば、ロシアの改革派が権力を握る。ならば、保守派をつぶして改革派を勝たせるために、ソ連を消滅させよう」と。
ここでは保守派と改革派という対立図式がある。それがソ連とロシアという対立図式に重なった。だからこそ、ソ連を消滅させることで、保守派を消滅させて、改革派に権力を委ねようとしたのだ。(たとえその改革派がエリツィンという未熟な政治家の勢力だとしても。)
かくてゴルバチョフは、保守派つぶしのために、ソ連に向かって「バルス」という崩壊の呪文を唱えたのである。ここが本質だ。
なお、ゴルバチョフの改革路線があったにもかかわらず、保守派の抵抗が非常に強まったことの理由には、レーガンによる対ソ強硬策があった。この件は、次項で述べる予定。