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歌詞は下記。(著作権があるので転載しない。)
→ あなた 小坂明子 歌詞 - うたまっぷ
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この曲の特徴は、歌詞と曲の双方から見ることができるが、特に転調が重要となる。このことに留意してほしい。
※ 転調とは何かがわからない人は、以下の話を読んでもチンプンカンプンだろうから、読まない方いい。
まず歌詞の点からいうと、最初はこうだ。
「もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう」
ここでは過去形の「建てた」になっていることに注意。これは仮定法過去である。つまり、未来に起こるかもしれない「もしも」ではなく、過去に起こらなかった「もしも」である。
ここでは、それが「現実には起こらなかったこと」であることが示される。とすれば、以後に示されたことが素晴らしければ素晴らしいほど、それが現実には起こらなかったことの哀愁が感じられることになる。そのことが、冒頭の「もしも私が家を建てたなら」という言葉を述べた時点で、すでに明らかになっている。
次に、「小さな家」の状況が具体的に示される。窓、ドア、部屋、暖炉、花、というふうに描写される。ここまでずっと聞いてきた人は、「ふんふん、そういう家なんだな」と思う。
そのあとで、「子犬」という言葉が出るが、これも家具類の一種だな、と感じられる。
と思ったら、「子犬」はそれ単独では済まずに、「子犬のよこには あなた」とつながる。
ここで初めて、得られなかったものは家でもなく、家具でもなく、子犬でもなく、あなたなのだ、と気づく。
ここまでずっと、「家を得られなかった」という話だとばかり思っていたら、実は「あなたを得られなかった」という話だと気づく。女の子の夢の話だとばかり思っていたら、これは愛の喪失の話なのだ、と気づく。
その意外感を受けるとともに、感動が襲いかかる。
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以上は歌詞の話だが、次に曲の話に移る。
家の話だと思ったら、愛の話だった……というふうに転じるが、このとき、曲もまた転じる。それは転調による。
「子犬のよこには」のところで転調が起こる。その次の「あなた」のところで完全に転調されている。話が「家」から「愛」に変わると同時に、曲もまた転調される。
その効果は劇的だ。曲が転調するのにともなって、話もまた転じるからだ。
しかも、転じるのは、話だけではない。心もまた転じる。それまでは現在の時点という視点で、理性的に「もしも」というふうに語っていた。ところが、転調すると同時に、心は過去に飛ぶ。「子犬のよこには あなた」と言ったときには、心はまだ半分ぐらいは現在に属していた。しかし、二度目の「あなた」を言ったときには、もう心は現在から離れている。そして三度目の「あなた」を言ったときには、もう心は過去の世界に飛んでいる。だから過去の世界において「いてほしい」という願望を望む。それは過去の時点の「私」が望んでいる心だ。
そのあとでまた転調が起こり、曲はもとの調に戻る。このとき、心もまた現在に戻る。「それが私の夢だったのよ」と語っているとき、直前の叫びは過去のものとして思い出されるだけだ。そうして心は落ち着いて、曲は完結する。
と思ったのだが、そうではなかった。1番が終わり、2番が終わり、曲は完結するはずだった。ところが、そのあとで、最終部になる。
「そして私はレースを編むのよ」のところでは、普通に曲が続いていると思う。しかし不思議なことに、これは現在形である。つまり、心は過去の私になっている。心が過去の私になっているのは、これまでは転調後の曲においてであったが、ここではなぜか、転調前の曲において、心は過去の私になっているようだ。ちょっと不自然に感じられる。
そして「わたしの横には」でまた転調が起こることで、心は過去の私に移りかける。それだけではない。次にまた「わたしの横には」という言葉が来るが、言葉は同じでも、曲はもはや完全に転調している。このとき、心は完全に過去の私に移っている。
そして「あなたがいてほしい」という言葉は、前半では語尾が下がる感じで、落ち着いていたが、最終部では、語尾が上がる感じで、絶叫するように望んでいる。このとき、心はまさしく完全に過去の私に移っている。
そして、その心は、もはや現在には戻らない。現在に戻って落ち着く、ということにはならない。曲の前半では、過去に飛んだ心は、また現在に戻ってくるのだが、最終部では、過去に飛んだ心は、もはや現在に戻ってこない。あっちへ行ってしまっている。ぶっ飛んでいる。気違いじみているとも言えるし、常軌を逸しているとも言える。最早まともではない。
だが、本当の恋愛というのは、そういうものだ。「二人で楽しいひとときを過ごして、それが終わったあとでは元の日常生活に戻る」というような常識的なものではなくて、「常軌を逸するほどにぶっ飛んでいる」というものだ。全身全霊をかけるようなものだ。そこにこそ人間の恋愛の深奥がある。
そして、この曲は、そういう人間の心の深奥にまさしく達しているのである。その意味では、「天才的な作品」と言っていい。
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こういう作品は、他にあるか? ある。モーツァルトの作品がそうだ。彼の作品もまた、人間の心の深奥にまさしく達している。
たとえば、フィガロの結婚の「伯爵夫人のアリア」。
この作品も、半音をうまく使って転調しているところがあって、その精妙な感じは、「あなた」の転調の箇所によく似ている。
というか、「あなた」の転調の方法は、モーツァルトの天才的な部分によく似ているのだ。
意識しているかどうかはともかく、小坂明子の作曲能力は傑出している。モーツァルト的なところがあると言える。それどころか、「あなた」という曲は、曲単独で見れば、「フィガロの結婚」におけるどのアリアよりも優れていると言えそうだ。その意味では「フィガロの結婚」以上だとも言える。(モーツァルトの全体に比べれば、上回ってはいないが。たとえば「魔笛」の「夜の女王のアリア」の水準には達していない。)
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小坂明子は、その後、作曲家に転じて、数多くの有名な曲を提供した。作曲家として見事に成功したと言える。この部分における才能が素晴らしかったようだ。
一方、歌手としては、最初の「あなた」だけが有名で、あとは見るべきものはないようだ。本人も言っているが、最初の時点が、一番歌がうまかったようで、以後は歌の才能が衰えたらしい。
もしかしたら、思春期なので、痩せていったせいかもしれない。歌手というのは、太っている方が、圧倒的に有利なのだ。私の従姉妹も、大学時代に音楽大学の声楽科に属していたときには、とても太っていた。そのときだけ太っていて、それ以外の時期では太っていなかった。小坂明子も、太るのをやめたときに、声がツヤを失っていったのかもしれない。逆に言えば、「あなた」という曲が美しい声質で歌われたのは、彼女の太った体質によるもので、一時的なものにすぎなかったのかもしれない。
「もしも小坂明子が太り続けていたら
美しい歌ができたでしょう」
【 関連サイト 】
小坂明子自身の解説。
この曲は大失恋の歌なんですよね(笑)。全部過去形になっていて、<もしもわたしが家を建てるなら>が正しくて、<建てたなら>は過去進行形ではないと言われました。でも私はそれを変えるだけで、終わった夢を4小節で表せると思いました。
( → 日本のポップス史に残る名曲「あなた」発売から45年 音楽家・小坂明子が語る“あの頃”と今(田中久勝) )
業績。
小坂は83年からは、元々やりたかった作品提供およびプロデュースに集中した。松田聖子やももいろクローバーZをはじめ、多くのアーティストに楽曲提供を行うほか、アニメやゲーム、CM、さらにライフワークといってもいい『美少女戦士セーラームーン』の音楽を手がけるなど、これまでに2000曲以上の曲を生み出し、多岐に渡り活躍している。
Sailor Moon - Moon Revenge (小坂明子 作曲)
[ 余談 ]
上白石姉妹(萌音・萌歌)は、ともに美声で知られる。
→ 美声
この二人は、ともに顔がぽっちゃりしていて、ほっぺにやたらと肉が付いている。「ずいぶんぽっちゃりしているなあ」と思っていたが、だからこそ美声なのだ、とも考えられる。顔のあたりに脂肪がたっぷり付くから、声帯にも脂肪が付いて、美声になるのだろう……と解釈できる。
そう思うと、ぽっちゃり顔にも一興がある。