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前項では、アフガニスタンに統治機構がなかったのが問題だった、と指摘した。
アフガニスタンには、文明社会としての長い歴史はなかったし、政府の統治機能にも長い実績はなかった。だから、政府の統治機能はずさんだったし、軍の統治機能もずさんだった。そういうずさんな体制のなかでは、まともな軍が形成されるはずがなかったのだ。
ここでは「失敗した理由があった」のではなく、「もともと成功する理由が何もなかった」というだけのことだ。
( → アフガン政府軍の無力さ: nando ブログ )
その上で、次のように述べた。
では、成功するには、どうすればよかったか? それは、先にも述べたとおりだ。つまり、こうだ。
「米国が、アフガニスタン政府軍を強化・養成するべきだった」
問題は、その手法だ。前項では、次のように述べた。
これは敗戦後の日本において、占領軍(GHQ)が日本を民主化する過程に似ている。日本を民主化するのと同様に、アフガニスタンを近代化するべきだった。
これは比喩である。比喩は比喩であって、具体的な方法を示していない。では、具体的にはどうすればよかったか?
――
いきなり結論を言おう。それはこうだ。
「そのためには、敗戦後に日本を見習うよりも、明治維新のときの日本を見習うべきだ。その本質は、こうだ。
旧来の重鎮を一掃して、斬新な若手のみによって政府を構築すること」
これが日本の明治維新のときになされたことだった。明治維新では新政府がつくられたが、そこには、旧来の重鎮(江戸幕府や各藩の殿様)は含まれなかった。かわりに、明治維新をなした実力者が新政府を構成した。その実力者は、いずれも若手だった。おおむね、35歳以下である。(高くても 40歳だ。)
明治維新は 1868年。そのときに 35歳というのは、1933年生まれだ。40歳というのは、1928年生まれだ。実例で示そう。(生年)
・ 西ク隆盛 (1928)
・ 副島種臣 (1828)
・ 大久保利通(1830)
・ 木戸孝允 (1833)(桂小五郎)
・ 板垣退助 (1837)
・ 三条実美 (1837)
・ 後藤象二郎(1838)
……
・ 岩倉具視 (1825)
このなかで岩倉具視だけが 43歳で、若干の年長だが、それでも老年ではない。あとはみな 40歳以下の若手だ。このような若手ばかりだったからこそ、新政府を一挙に構築することができたのだ。(馬車馬のように働いたのだろう。)
→ 明治維新 - Wikipedia
なお、これに先立って、松下村塾という私塾があった。ここから有為の人材が数多く輩出した。この私塾のことも忘れてはなるまい。
→ 松下村塾 - Wikipedia
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これに似たことは、戦後日本の改革期にもあった。
日本を民主化するという方針自体は、占領軍(GHQ)から方針を与えられた。また、官僚機構も、それ以前から近代的な官僚機構が備わっていた。
しかしながら、政治家だけは、まともな政治家がいなかった。日本を統率するべき首相や大臣という「日本の頭の部分」が欠落状態だった。(有能だった人間は公職追放の憂き目に遭っていた。)
そこでどうしたか? 吉田茂が「吉田学校」というグループを作って、若手を育成したのだ。
→ 吉田学校 - Wikipedia
東大出のエリートが抜擢されて、ここに加わり、吉田茂のもとで自由党の国会議員として選出された。さらには、内閣の大臣となり、内閣総理大臣ともなった。
そのうちの最有力だったのが、池田
池田勇人と佐藤栄作。この二人が戦後日本を構築して近代化する役割を果たしたという点は、大きな歴史的事実となっている。どちらも京都大・東大卒のエリートだった。その点、(Dラン大学の出身の落第生だった)安倍晋三・菅義偉とは雲泥の差があると言える。
安倍晋三・菅義偉は、コロナの災禍のなかで、日本を破滅的な事態に導いた。こういう連中が、戦後日本を牛耳っていたなら、日本は近代化することも叶わず、アジアの中進国に留まっていただろう。敗戦後にはガレキの山だった日本が、その後、急成長して、先進国のトップレベルにまで成長できたのは、池田勇人と佐藤栄作が日本を近代化したからなのだ。
なかんずく、池田勇人が高度成長をもたらしたのは、特筆するべき偉業であったと言える。この件は、別項でも論じた。
→ 最大のトンデモ経済学者(下村治): Open ブログ
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まとめて言おう。
明治維新の前には、松下村塾があり、明治維新では若手の政治家が明治新政府を構築して主導した。
敗戦後の日本では、吉田学校があり、戦後の政府では若手の政治家が日本政府を構築して主導した。
いずれにおいても、旧弊を知らない新鮮な若手が、新国家の構築に貢献した。
とすれば、アフガニスタンもまた、若手によって新国家を構築するべきだったのだ。
( 現実には、そうしなかった。旧弊に染まった、北部連盟という地方豪族の実力者が、政府の重鎮となった。その結果は、無能な汚職国家の構築となった。それが現実だ。)
[ 補足 ]
情報の補足。
※ 日本敗戦は 1945年。1948年第2次吉田内閣では、池田勇人と佐藤栄作は、非議員ながら入閣した。翌 1949年には二人とも国会議員として当選した。その後はどちらも重職の大臣として活躍した。(新人議員なのに。)
※ 池田勇人と佐藤栄作は、年齢的には明治維新の若手政治家ほどには若くなかったが、老人天国の当時の政界では、十分に若手政治家と言えた。
[ 余談 ]
余談だが、ATOK で「いけだはやと」を漢字変換すると、「池田勇人」がなくて、「イケダハヤト」になってしまう。
何じゃ、これは。ひどいね。 (^^);
【 関連サイト 】
本項と同じテーマを扱った記事がある。
→ 何が悪かったのか:アフガニスタン政権瓦解を生んだ国際社会の失敗|ニューズウィーク
ここでは結論部で、こう論じている。
真剣に進めるべきは、大国の力や知識や善行に頼ったり期待したりしなくてもよい、人々の生活を守る国際システムを追求することではないか。
これは違う。人々の生活を守るのは、国際システムではなく、国内システム(= 統治機構・政府)である。システムそのものは、国際的ではなく、国内的なものであるべきだ。そのような国内システムを構築することに、国際的な協力があればいい。(国際システムそのものが直接的に関与するのであってはならない。)
これを軍事的に言うならば、強力な国連軍を派遣するために国際的なシステムを構築するべきではなく、強力なアフガニスタン政府軍を構築するために世界各国が協力すればいい。つまり、世界各国が軍隊を派遣するべきではなく、世界各国が軍事指導をすればいい。(魚を与えるよりも、魚を釣る技術を与えよ、というのに似ている。)
上の論者は、何でもかんでも「おんぶにだっこ」という方針であるが、そんなことをいくらやっても、アフガニスタンは自立できない。大切なのは、「おんぶにだっこ」ではなくて、アフガニスタンが自立できるように指導することだ。
途上国の救済において大切なのは、援助の額を増やすことではなく、知識や技術を与えることなのだ。そのことを理解できなかったのが、米国の失敗であった。そしてまた、上記の論者も、そのことに気づいていない。
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