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「死刑廃止」と「死刑維持」の二つを両立させる……というのは、不可能に見える。それは「生」と「死」を両立させることのように見えるし、矛盾そのものであるように見えるからだ。
しかし、ここでアクロバティックな解決策を採ることで、うまく矛盾を回避することができる。
では、どうやって? そのヒントは、次の投書だ。
私は、死刑制度を廃止した方がよいと考えています。
死刑囚がどんな人間であれ、死刑はかけがえのない生命を奪う刑罰であり、それ以外のどんな刑罰とも本質的に異なります。
犯罪者であっても人を殺してはいけないということが、私たちにとって重要なのではないでしょうか。
( → 朝日新聞「声」欄 2022-08-20 )
この意見は「人の命を奪うことはいけない」と言っているが、同時に、「殺人犯が人の命を奪うこと」については容認している。つまり、
「殺人犯が人の命を奪うのは構わないが、自分たちが殺人犯の命を奪うのはイヤだ」
というわけだ。換言すれば、
「自分たちの手を血に染めたくない」
という自己中の主義だ。それが「犯罪者であっても人を殺してはいけないということが、私たちにとって重要なのではないでしょうか」という文中の言葉から見て取れる。
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とすれば、ここではうまい解決策が見つかる。こうだ。
「死刑囚を死なせるが、しかし、自分たちの手は血に染めない」(自分たちは殺さない)
ということだ。
では、そんな方法があるか? ある。
「自分たちの代わりに、他の何者かが手を血に染める」
ということだ。
その具体的な方法は、こうだ。
「死刑囚を、危険な領域に投入する。そのあと、死刑囚が生き延びるかどうかは、偶然に任せる。もしかしたら運良く、死なずに生き延びるかもしれない」
具体的な例は、こうだ。
(1) 虎のいる檻に死刑囚を入れる。
(2) 虎のいるジャングルに死刑囚を解き放つ
(3) 刃のように尖った山稜の一点に死刑囚を解き放つ
いずれの場合も、致死率は 99.9% ぐらいになるような危険を設定する。その場合、必ず死ぬわけではないから、処置の決定者は「殺した」ことにはならない。特に、(1)(2) の場合には、殺すのは虎であるから、人が殺すことにはならない。(3) の場合には、誰も殺さないで、死刑囚自身が自らの過失によって事故死するだけだ。この場合も、人が殺すことにはならない。
かくて、誰も死刑囚を殺さない。しかし死刑囚は結果的には死ぬ。
誰も死刑囚を殺さないのに、死刑囚は死ぬ。
こうして、「殺したくない」という死刑廃止論者の希望は満たされるし、「死刑囚を死なせたい」という死刑維持論者の希望も満たされる。つまり、両方の要求がともに満たされる。めでたし、めでたし。
【 関連項目 】
「死刑廃止」については、他にもいくつかの項目があります。
→ サイト内検索
[ 余談 ]
「生」と「死」を両立させるというと、「シュレーディンガーの猫」みたいだが、その話は関係ない。
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「虎で殺すか、それとも生かすか」というと、「女か虎か」という有名な小説(小話)がある。
→ リドル・ストーリー - Wikipedia
最近は、死刑になりたくて複数人を無差別に襲う事件がふえているので、そのような場合には役立ちそうです。ただ、津久井ヤマユリ園の犯人のように、一審の死刑判決を受け入れながら、気が変わって、再審請求をするようなものもいます。死刑になりたくなかったのなら、ぷろの登山家か、猛獣使いになっていたら、良かったとも思います。反社会的で、精神的に不安定な人でも2人以上殺せば、必ず有意義に死ねると思い込めるのですから、死刑制度はよい制度です。即ち、一般人には危険な制度と言えましょう。特に最近は。世論調査で死刑制度が支持されているのは、殺人をおかすような人にはじぶんはならないーとおもいこんでいる単純な人の割合が高いということの表れに過ぎないのではないでしょうか。