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日本の敗戦は二度あったことになる。次の二つだ。
・ 幕末における敗戦
・ 第二次大戦における敗戦
日本の敗戦というと、後者ばかりが思い浮かぶが、それに先だって、幕末における敗戦もあったことになる。
ただし、これは話が単純ではない。歴史の流れの変転を見ていくうちに、そのうちの1コマとして現れるのだ。
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まず、話のきっかけはこれだ。
→ 黒船来航@浦賀 見て聞いて、刺激された好奇心:朝日新聞
浦賀にペリーが来て、日本は大騒ぎになった。このとき、黒船に恐れおののいただけでなく、商機を見出して、ひと儲けしようとした人も出てきたそうだ。
ここで私が気になったのは、「ペリーは(大統領からの)国書を渡したが、その国書はどの言語で書かれていたか?」ということだ。米国人は日本語を理解できそうにない。(当時の)日本人は英語を理解できそうにない。双方で言葉が通じないのに、どうやって国書を渡そうとしたのか?
これについての回答は、ここにあった。
→ ペリーは、どうやって日本人と話したの
→ フィルモア米大統領から日本国皇帝への国書
→ 1853年にペリーが来日した際、フィルモア大統領から天皇に宛てた親書…
つまり、日本語と英語で直接つなぐことができなかったので、間に、オランダ語または漢文を挟むことで、間接的に翻訳したわけだ。なるほど。これで氷解した。
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この国書が 1853年。ペリーは要求したあと、返事を受け取らずに帰った。黒船に大騒ぎした人々は、黒船が何もしないで帰ったことで、一安心した。

ペリー
その翌年の 1854年、ペリーが再来訪した。今度は返事を求めた。すでに清国が列強との戦争で負けたことを知っている幕府は、びびってしまって、日米和親条約を結んだ。
ペリーは翌年の嘉永7(1854)年1月16日、7隻の艦隊を率いて再び来航し、和親条約の締結を迫ります。結局、幕府は3月3日に横浜村で12条の日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。
日米和親条約は、アメリカが望んだ自由貿易を規定する「通商条約」ではありませんでした。ペリーは、この時点で通商条約を押し付けると相当な抵抗が予想されると考え、通商条約は近い将来に必ず締結されるであろうと判断したのです。
( → 日米和親条約(にちべいわしんじょうやく) | 史料編 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 )
このあと、米国は本格的に実益を得ようとして、貿易を求める条約を要求した。それに幕府が(びびりながら)応じて、日米修好通商条約を結んだ。(1858年)
→ (画像)国立国会図書館デジタルコレクション
※ 日本語と英語の併記による条文(実物)の画像。
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さて。この日米修好通商条約が問題だ。歴史的には、これは「不平等条約だ」と見なされている。
→ https://x.gd/I1Eae (Google検索)
では一体どうして、こんな不平等条約を結ばされたのか? いくら列強にびびったからといって、あまりにも腰砕けすぎるのではないか? 先人はそれほどにも肝っ玉のない腑抜けだったのか?
そう思って調べたところ、意外な真相が判明した。
→ 【100】日米修好通商条約は不平等条約ではなかった | 松平忠固史
日米修好通商条約は不平等条約だと言われている。なるほど、パッと見たところでは不平等条約だ。だが、詳細に条文を調べると、実は不平等条約ではないそうだ。
関税自主権がない
ということが不平等といわれる一つ目の要因ですが、実は関税は締結時は一般品目は、20%で、これは欧米各国で取引される関税と同率です。
その他の品目での、漁具、建材、食料などは5%、酒類は35%も併せて、これらの税率は欧米諸国同士で結ばれる条件と遜色ないものでした。
実は不平等になったのは、1858年の条約締結から8年後の1866年6月。
一般税率が20%から、植民地状態にあった清国・インドと同じ5%へと変更され、輸出超過から輸入超過へ。
日米修好通商条約の締結の時点では不平等条約ではなかったが、8年後に条約が改定されて、ひどい不平等条約になった。そこで、これを見た人が、両者を混同して、「日米修好通商条約のときに不平等条約となった」と思い込んでしまったのだ。歴史知識の勘違い。
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そこで問題だ。1858年の条約締結から8年後の1866年に、どうして不平等条約を結んだのか?
それは、歴史を調べれば、すぐにわかる。下関戦争のせいである。ここで、長州藩が列強を砲撃したあとで、列強に砲撃されて、コテンパンに負けてしまった。陸上から船に砲撃したら、逆に船から陸上に砲撃を受けて、陸上の砲台は破壊されてしまった。
海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。
( → 下関戦争 - Wikipedia )
ここで敗北したのは長州藩だが、その敗北を幕府が負うこととなった。ここでは、日本という国が列強に敗北したことになる。そして、戦争に敗北したことの結果として、不平等条約を受け入れざるを得なくなったのだ。(さもなくば長州藩のように、列強の全体から砲撃を受けてしまいそうだ。そもそも、こちらから手出しをしたので、文句を言えない。)
かくて不平等条約が結ばれた。これを「改税約書」という。
条約所定の開港期限を間近に控えて兵庫港沖に集結した列国艦隊の圧力を受け、1866年(慶応2)5月13日、英、米、仏、蘭4国代表との間に、老中水野忠精が調印した。この際、イギリス公使パークスを主役とする列国側は、財政難の幕府が困窮している下関戦争償金支払い額の3分の2を減免することを条件に、条約勅許、兵庫開港、関税率低減を要求項目に掲げ
( → 改税約書(かいぜいやくしょ)とは? 意味や使い方 - コトバンク )
「下関戦争償金支払い額の3分の2を減免する」というのが、財政に困窮していた幕府にとって、どうしても飲まざるを得ないことだったようだ。
つまり、下関戦争で負けたことで巨額賠償金の支払いを迫られたが、その金を払えないので、さらに損をせざるを得ない不平等条約を結んで、もっと大きな損をするハメになったのだ。
まあ、これは貧乏人が借金地獄に落ちて、どんどん借金を増やしていくようなものだ。金を借りて、返せないので、さらに大きな金を借りて、ますます返せなくなる……というわけだ。ひどいものだね。
こういう形で、馬鹿な日本は不平等条約を結ばされるハメになった。そして、それというのも、長州藩が勝手に砲撃して、列強に攻撃を仕掛けたせいだ。(それでコテンパンに負けてしまったが。)
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とはいえ、このあと、戦争に負けた長州藩は、それまでの「攘夷」(鎖国)から一転して、海外との貿易に励むようになった。その金儲けの金で、兵器をしこたま買いためて、幕府を倒せるほどの兵力を備えるに至った。かくて、明治維新が起こった。
これは歴史の皮肉かもしれないね。
長州藩(山口県)は、馬関戦争に惨敗したこともあり、尊王攘夷論から開国・尊王倒幕論へと考え方を変え、江戸幕府との2度にわたる戦い(第1次は1864年、第2次は1866年)を経て、明治維新(日本を近代国家とするため、江戸幕府にかわってできた新政府が進めた改革と社会の変化のこと)へと突き進みました。
( → やまぐちを知ろう 【やまぐちの歴史】 )
Wanted

ついでだが、長州は兵力では幕府を越えたが、この背後には、武器商人ふうの坂本龍馬の暗躍があった。
龍馬が討幕のために薩長同盟の成立を仲立ちしたことは有名ですが、犬猿の仲といわれた薩摩、長州両藩の手を結ばせるため重要な役回りを果たしたのが、龍馬率いる亀山社中による、経済面での連携でした。
当時、長州藩は幕府との決戦に備え、西洋式武器を増強する必要がありましたが、幕府による厳しい監視が続いており、表立って長崎で取引をすることはできませんでした。龍馬はこの点に目をつけ、1865年5月(龍馬31歳)、薩摩藩名義で長州藩の軍艦や武器を購入する一方、兵糧米が不足していた薩摩藩に長州藩が米を提供するという和解案を長州藩に提案しました。
長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)がこの提案を受け入れたため、同年6月29日、龍馬と中岡慎太郎は京都薩摩藩邸にて、武器購入のための薩摩藩名義の借用を西郷隆盛に申し入れました。西郷がこれを了承したため、龍馬は亀山社中に対して武器購入のサポートを指示しました。これを受け、長州藩から派遣された伊藤俊輔(後の伊藤博文)らが、8月、亀山社中の高松太郎の紹介でイギリス商人グラバーから、ミニエー銃(当時最新式のもの)4300丁、ゲベール銃3000丁を9万2千4百両で買い付けました。銃はその後、薩摩藩小松帯刀の指示のもと、薩摩藩船で下関へ運ばれ、長州藩の手に渡りました。
一方、龍馬は山口を訪れ、西郷から依頼された兵糧米の調達を長州藩に要請し、5百俵を用意してもらうことに成功しました(結局、薩摩藩は受け取らず、亀山社中が受領したといわれています)。このように龍馬は両藩に横たわる感情面のしこりを、経済面での連携も利用して取り払い、翌年(1866年)1月に実現した薩長同盟を手繰り寄せたのです。
なお、亀山社中は1865年5月頃、神戸海軍塾の同志が、薩摩藩と長崎の豪商小曽根乾堂の力添えにより設立した組織です。龍馬はこの社中を物資の輸送などで利益を得る商社として、運営することを目指していました。また、スポンサーである薩摩藩からは一人当たり3両2分の給与が支給されていました。
( → 坂本龍馬とおかね(長州藩の武器購入額92,400両)|日本銀行高知支店 )
坂本龍馬は明治維新の立役者となった英雄だ、というふうにしばしば言われる。だが、その英雄という意味は、武器商人ふうの仕事をした、という意味だ。つまり、莫大な武器を長州藩に与えて、幕府軍を倒す(倒幕する)能力をもたせた、という意味だ。
そのとき、グラバー邸の武器商人であるグラバーとも取引をした。そしてまた、自分たちはスポンサーから多額の金をもらって、一儲けしていた。正確には、武器商人というよりは、武器ブローカーと言える。
幕末の日本が開国して近代化したのは、坂本龍馬というヒーローが獅子奮迅の働きをしたからだ、という俗説がある。
だが、本当はそうではない。日本は自らの意思で自発的に鎖国を解いて開国したのではない。戦争に負けたせいで、イヤイヤながら開国するハメになったのである。仮にヒーローがいたとすれば、それは日本人ではなく外国人であるペリーだっただろう。愚かな原住民である日本人に文明をもたらすきっかけとなったのだから。
そして、坂本龍馬の働きは、薩長同盟の成立を仲立ちしたことだが、それというのも、武器ブローカーとしての仕事で信頼を得ていたからだ。その意味では、武器商人として活躍した長崎のグラバーなどと同様だ。(幕府側に付いた武器商人のスネル兄弟もいる。)
日本が開国したのは、かっこいいヒーローが活躍したからだというよりは、きな臭い武器商人が武器を手玉に暗躍したからだ、とも言える。その武器商人の中で最も暗躍したのが、坂本龍馬という黒幕だった、と言えるだろう。
※ 歴史の常識がひっくり返りそうだが。
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なお、坂本龍馬の話は、本項の本筋ではない。あくまで余談だ。
本項のテーマは、あくまで「開国」という日本歴史上の最大の変革だ。そして、それをもたらしたものは、日本人自身の意思ではなく、外国との戦いにおける「敗戦」という結果だったのである。つまり、自らの意思で開国したのではなく、開国したくもないのに(敗戦のせいで)無理やり開国させられたのである。
この意味では、(第二次大戦の敗戦のせいで)無理やり民主化させられたのに似ている。
日本の二度の敗戦は、日本を二度も近代化した。それ以前の日本が前近代的であったのが、敗戦のおかげで近代化することができたのだ。
ともあれ、日本の開国は、一人のヒーローが活躍した結果ではなく、日本の軍事的な敗戦の結果なのだ、ということを強調しておきたい。多くの歴史が戦争の産物であるように、日本における最大の歴史的事件もまた戦争の産物なのである。
※ 武装解除することこそ最善の安全策だ……なんて思っている鈍物は、日本の自衛隊幹部だけだろう。
→ スーダンから邦人の退避: Open ブログ
[ 付記1 ]
過去において、日本の近代化をもたらしたのは、二度とも敗戦だった。
とすると、今の非近代的な日本の政治制度を、近代的な政治制度に変革するためには、日本が(戦争をして)三度目の敗戦を経験する必要があるのかもしれない。……自力ではできないがゆえに。
※ あくまで皮肉です。
非民主的な日本の政治制度というのは、「得票率が4割以下の自民党が、過半数の議席を取る」という歪んだ政治制度のことだ。ところがどういうわけか、この非民主的に政治制度を、日本人自体が歓迎しているそうだ。
→ 小選挙区制「よい」53% 朝日新聞社世論調査:朝日新聞
[ 付記2 ]
ペリーの写真を見て、ふと思ったのだが、安倍元首相に似ているね。


【 関連サイト 】
→ エネルギーの確保は誰が?: Open ブログ
※ 幕末の武器商人の話がある。
近隣国が相手だと……近代的どころか、歴史が100年くらい後退してしまいそうな気が。