◆ プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神( 核心 ):  nando ブログ

2023年05月02日

◆ プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神( 核心 )

 マックス・ウェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について、その核心を考えよう。 【 重要 】
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  ※ おもしろくて、ためになる話。 長文です。


 ──

 マックス・ウェーバーの名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、よく知られている。これについて、朝日新聞の解説記事があった。
 この本の最初で、ウェーバーは読者になぞかけをする。資本の所有者や企業家、上級の熟練労働者といった資本主義を支える層の人びとには、伝統的なカトリックではなく、改革派であるプロテスタントが多い。それはなぜか。
 プロテスタントの方が現世でのお金もうけに関心があり、豊かな生活を望んでいるからか。……過去にさかのぼると、彼らは非常に禁欲的であり、決して「世の楽しみ」を追求するような人たちではなかった。にもかかわらず資本主義の発展を担ったとすれば、それはどんな経路をたどったのか。
 (ウェーバーの)母ヘレーネはプロテスタントの宗派に属する敬虔な信者で、自己犠牲の精神にあふれていた。一方でその母方の家系は、商売に成功しており裕福である。「母親はぜいたくをしたいなどとは全く考えない人だが、その家系が金持ちだという矛盾。それがウェーバーの出発点ではないか」
 矛盾を解明するためにウェーバーが注目したのが、プロテスタントの宗派の一つ、カルヴァン派が強調する「予定説」だ。どの人間が死後に救われるかは神によりあらかじめ定められており、いくら祈っても変えられない。信徒たちは自分が救われるかどうか、不安で仕方がない。救いの確信を得るためには、神に与えられた職業、すなわち「ベルーフ(天職)」に勤勉に従事するしかない。そう考えたのがカルヴァン派だった。
( → (明日へのLesson)第1週:ブック 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』:朝日新聞

 このように要約されている。

 一方で、別の要約もある。
 プロテスタントではキリスト教と資本主義の発展(お金儲け)が矛盾しない。勤勉に働くことこそ神への奉仕、結果お金を多く稼ぐことは罪ではない。
( → 共和党と宗教保守票ーなぜトランプを支持するのか

 この点については、カトリックと対比した説明もある。
 中世ヨーロッパにおいて、カトリック教会は「蓄財や同胞からの利子取り立ては、『罪』である。しかしその罪は、教会への寄進によって免れることができる」という教えを利用して、莫大な財産を築きます。
( → “お金儲けは善ですか? 悪ですか?”「資本主義」の原点、カルヴァンの教えとは? | 経済は世界史から学べ! | ダイヤモンド・オンライン

 以上のような形で、「カトリックよりもプロテスタンティズムの方が、資本主義に合致していた」というふうに説明される。

 以上では、朝日新聞の記事をきっかけとして、いくつかの要約を示した。

 ──

 さて。それらの要約を読むことで、ウェーバーの名著についてはおおまかに理解できた。ただ、それで話を済ませてはつまらない。これだけでは話の発展がない。
 そこで、私は私なりに新たに考察してみた。以下の通り。

 本著の意義はどこにあるか? それは、単に要約を読むだけではわからない。本著の意義を理解するには、それまであった他の説明と対比するといい。では、他の説明とはどんなものか? それは、アダム・スミスとダーウィンによって代表される考え方だ。つまり、こうだ。
 「人々が利己的にふるまえば、全体は自動的に改善される」

 この発想は、二つの分野で唱えられた。

 (1) アダム・スミス

 経済学の分野では、アダム・スミスが「神の見えざる手」という原理を唱えた。
 市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される、とする考え方。スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成されると考えた。スミスは、価格メカニズムの働きにより、需要と供給が自然に調節されると考えた。
( → 見えざる手 - Wikipedia

 (2) ダーウィン

 進化論の分野では、ダーウィンが「自然淘汰(自然選択)による進化」という原理を唱えた。これは、次のような説だ。
 「生物は世代が代わるごとに、(突然変異によって)さまざまな形質のもののバリエーションが生じる」
 「その後、それぞれの生物が自分の生存を目的として[利己的に]競争をすれば(生存競争をすれば)、環境のなかで有利なものが生き延びて、不利なものが滅びる。つまり、より有利なものが増えていく。こういうことが繰り返されることで、有利さが積み重なるので、進化が起こる」

 ──

 この二つには、次の原理が見て取れる。
 「人々が利己的にふるまえば、全体は自動的に改善される」

 このことを拡大解釈することで、(市場経済や進化理論だけでなく)人間社会にも適用しようとしたのが、スペンサーによる「社会進化論」だ。それは、こうだ。
 「人々が利己的にふるまえば、社会は自動的に改善される」

 このような発想は、社会における利己主義を正当化するものだ。そのせいで、あちこちで批判を浴びた。
  ・ 泥棒や殺人のようなエゴイスティックな犯罪を正当化しかねない。
  ・ 少数民族や女性などへの差別を正当化しかねない。
  ・ 身障者や病人などの弱者を冷遇しかねない。
  ・ 社会的な強者を過剰に優遇しかねない。


 ともあれ、ここまでは、いずれも「利己主義」によって社会現象などのさまざまな事柄を説明しようとするものだった。

 ──

 ここでウェーバーが登場する。ウェーバーの見た現実は、上記のような発想で解釈されるものではなかった。利己主義とは逆に、自己犠牲の精神をもつ人々が、かえって社会的に成功して、よりたくさんの富を持つようになっているのだ。
 つまり、欲張りな利己的な人々が利益を増やすのではなく、質素で利他的な人々が利益を増やしているのだ。これは、上記のような発想(利己的な人ほど利益を増やすと見なす発想)とは、正反対だ。
 これは矛盾である。これはおかしい。これは一見、「失敗をめざしたら成功した」というようなことだ。では、一体どうしてこういうおかしなこと(逆になること)が起こるのだろう? 

 実は、この着目点こそがウェーバーの白眉である。ここには問題提起のすばらしさがある。
 よく言われることだが、本当に頭のいい人は、問題に対する正解を出す能力が高いというよりは、新たな問題を見出す能力が高いのだ。人々がそれまで何も見出せなかったところに、思いもかけぬ問題を見出すからだ。
 ウェーバーがなしたのは、まさしくそういうことだった。

 一方で、ウェーバーの出した結論は怪しい。いかにももっともらしいが、どうも信頼が置けない。詭弁っぽいところがある。
 ウェーバーの結論を見よう。問題に対して、彼はこう答える。
 「死後が不安だから、死後の不安をなくすために、働く」(カルヴァン主義)

 ──

 だが、私の考えによれば、それは宗教の本質への誤解がある。ウェーバーは宗教というものを社会科学的にとらえすぎた。宗教というものがどのような損得をもたらすかという数理的な(科学的・合理的な)認識にこだわりすぎた。要するに、ウェーバーは「宗教とは何か」をまったく理解できていなかった。
 では、宗教とは何か? 私が答えよう。
 宗教の本質は、不安や苦痛への慰めだ。つまり、「信じるものは救われる」と諭すことで、苦しんでいる精神に安らかさをもたらすことだ。「神を愛すれば、神に愛される」という形で、苦しむ人々に慰安を与えようとするのだ。
 なのに、ウェーバーはこれを逆に認識する。
 「死後が不安だから、死後の不安をなくすために、働く」(カルヴァン主義)
 というのでは、宗教に帰依することの目的は不安になることだ、というふうになりかねない。
 「教会に行って、神父の教えを聞いて、そのたびに死後の不安を受けて、それで怯えるので、せっせと働く」
 というのでは、「慰安を得る」というのとは逆になる。それでは、宗教の目的に反する。人々はわざわざ苦悩を得るために教会に行くことになる。あまりにも馬鹿げている。
 というわけで、ウェーバーは宗教の本質を理解できていない。したがって、
 「死後が不安だから、死後の不安をなくすために、働く」(カルヴァン主義)
 という認識も間違いだ。そんな理屈は根本的に成立しないのである。その意味で、本著の結論は誤りだ。

  ※ 教徒たちは、(将来の)不安をもたらす脅迫を受けるために信仰するのではなく、(現在の)苦痛への安らぎを得るために信仰するのだ。「神を愛し、神に愛される」という形で。

 ──

 ここで、先の問題に戻ろう。
 「欲張りな利己的な人々が利益を増やすのではなく、質素で利他的な人々が利益を増やしていくのは、どうしてか?」
 これがウェーバーの出した疑問だった。それに対して、彼は回答を出したが、その回答は前提からして間違っていた。
 では、彼の回答が間違いであるとすれば、正解は何なのか? 上の問題には、どういう回答があるのか? 

 そこで、私なりに回答を出そう。以下の通りだ。

 ──

 人はどう生きるべきか? 金や利益を目的として生きるべきか? とすれば、金や利益を得ようとして、それをつかもうとして、そこに手を伸ばそうとして生きるべきか? 
 いや、違う。人生で成功するためには、長期的な計画に基づいて、コツコツと努力を重ねるべきだ。将来の成功のためには、現在の懸命な努力が必要だ。若いときには苦しい勉学や修業が必要だし、大人になってからも鍛錬や倹約が必要だ。そういうことをなし遂げた者だけが、長期的には、将来の成功を得る。
 逆に、現時点で「今の楽しみが最優先だ」「今がよければそれでいいさ」と遊びほうけていれば、将来の成長はない。今の時点で楽しく浪費していれば、将来もまた貧しいままだ。

 その原理は何か? 一種の「迂回経路」だと言える。
 A地点からB地点へ移動したい。そのとき、最短の直線的な経路を取るのが最も手っ取り早いと見える。


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 しかし最短経路の途中には、川や山や崖がある。最短経路を取ろうとすると、目的地にはとうてい到達できない。そこで、あえて迂回経路を取ると、結果的には容易に目的地に到達できる。

 要するに、人は欲しいものがあるとき、がむしゃらにそこをめざして一直線に進めばいいのではない。むしろ計画に基づいて、目的とは別の方向に進む必要がある。金をたくさん得たいのであれば、「金が欲しい、金が欲しい」と思えばいいのではない。金に向かって突き進めばいいのではない。むしろ逆に、目先の利益を我慢して、将来の成功のために、厳しい努力をするべきなのだ。
 そして、そのために必要なのは、欲望とは逆の克己心なのである。換言すれば、利己主義よりも克己心こそが、成功の秘訣なのだ。

 とはいえ、克己心を持つことは容易ではない。将来的には果実と富を得るとしても、それは何年も先のことだ。それまではひたすら努力を続ける必要がある。そのためには、自己規律や自己犠牲が必要となる。倫理や忍耐も必要だ。(これらは快楽主義者[エピキュリアン]の発想とは逆だ。)……そういうことを続けることは難しい。ほとんど無理だと言える。

 そこで出番となるのが、宗教だ。特に、プロテスタンティズムだ。
 実は、宗教といっても、カトリックは役立たずだ。カトリックでは、「教会に献金すれば救われる」というふうになる。つまり、「金を出せば救われる」というわけだ。(いわゆる免罪符のことだ。)だから、カトリックの人々は、目先の享楽を求めて、好き勝手をして遊ぶ。それで今は楽しめる。(将来の成長はないが。)
 プロテスタンティズムは違う。大事なのは教会への献金ではなく、自分自身の信仰だ。つまり、神を大切にして、日々に正しい行いをすることだ。ここでは、信仰心を強めることで、自己規律も達成される。また、日々の勤勉さを重視することで、労働も遂行される。さらには、教育や人生計画も重要視される。

 ウェーバーは、特に「天職」という概念で、(プロテスタンティズムでは)「人は神の導きに従い、自らの専門性を磨き、労働しなけばならない」というふうに指摘した。( → 出典 p.190 )

 以上のように、プロテスタンティズムは、その宗教性によって、人々に(自己規律・自己犠牲・倫理・忍耐といった)克己心を植え付けようとした。そしてそれはそのまま、「目先の幸福よりも、将来の幸福のための努力が大切だ」という迂回経路の原理に導くことになった。
 迂回経路の人生を取ることは、非常に難しい。そんな長期的な見通しで何十年間も努力を続けるというのは、知能の高い人にはできても、普通の凡人には無理だ。十年以上の長期計画で日々の人生を生きることなど、意志薄弱で欲ばかりの強い凡人には無理だ。
 そこで、宗教が諭す。「日々、勤勉に働け。そうすれば神に救われる」と。しかし実は、それは嘘だ。神などは存在しない。神が救ってくれるというのは嘘だ。つまり、宗教は嘘によって、人々をだましている。
 その意味では、宗教は詐欺的なところがなくもない。だが、詐欺的ではあっても、詐欺ではない。詐欺とは根本的に違う。どう違うか? だまされた人は、損をするどころか得をする、ということだ。 

 普通の詐欺では、だまされた人が損をする。だが、プロテスタンティズムの場合には、だまされた人が得をするのだ。「神に救われる」と信じて勤勉に働いた人は、損をするどころか、得をして、豊かになり、幸福になる。本人は「自己犠牲をして損をする」つもりでいたのだが、予想とは逆に、「自己犠牲をして得をする」ことになるのだ。
 ここで人々は疑うかもしれない。「結果的に得をして幸福になれたのなら、やっぱり、神に救われたことになるのでは? だまされていないのでは?」と。
 いや。違う。彼らはだまされているのだ。なぜか? 彼らが豊かになって幸福になったのは、神に救われたからではなく、自分自身が努力したからだ。その幸福は、神によって天から授与されたものではなく、自分自身によってつかみとったものなのだ。
 その意味で、プロテスタンティズムは人々をだましている。ただし、そのだまし方は、詐欺ではない。人々に損をもたらすのではなく、人々に得をもたらすからだ。その意味で、「詐欺」のかわりに「逆詐欺」をなしている、とも言える。……これがプロテスタンティズムの本質だ。
 ※ 嘘をつく悪魔でなく、嘘をつく天使、という感じだ。


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 以上で、核心となる話は示した。このあとは、ウェーバーと同様だ。
 宗教という逆詐欺によってだまされた人は、勤勉に労働する。また、倹約して、せっせと貯蓄する。その貯蓄が資本主義の原資となる。金は銀行を経て、投資に回り、工場などで生かされる。こうして投資による経済成長が果たされる。かくて資本主義経済が拡大して、社会が発展する。……この点は、ウェーバーの述べた通りだ。

 ──

 最後に、話の全体を振り返ろう。
 ウェーバーの美点は、目の付けどころがよかったことだ。資本主義の発展とプロテスタンティズムの関係に着目して、プロテスタンティズムが資本主義経済の発展の重要な原因であることを見抜いた。ここまではよかった。
 しかし、その先で誤認が起こった。ウェーバーの失敗は、「宗教とは何か」を正しく理解できなかったことだ。彼の認識では、「宗教とは脅迫だ」ということだった。「真面目に働かないと来世で不幸になるぞ。そうなりたくなければ、真面目に働け」と脅迫する。それが宗教だ、と。
 違う。「宗教とは脅迫だ」ということは妥当ではない。「宗教とは嘘つきだ」というのが真実だ。宗教はウソつきであり、宗教は人をだます。ただし、そのだまし方は、詐欺師のだまし方とは逆だ。甘いもの与えると見せかけて苦いものを与えるのではなく、苦いものを与えると見せかけて甘いものを与えるのだ。得をさせると見せかけて損をさせるのではなく、損をさせると見せかけて得をさせるのだ。
 そのとき、あえて損をさせる行動に踏み切らせるために、「今は損をするが、来世では救われる」と諭す。「信じるものは救われる」と諭す。(それはいわば洗脳だ。)
 では、それは嘘か? 文字通りの意味では、嘘だ。神などは存在しないので、「神に救われる」ということはないからだ。しかし、「経済的に豊かになる」という意味で、実質的には真実となる。「来世で神に召される」という形で救われるのでなく、「現世で金銭的に恵まれる」という形で救われる。救われるときの場と形は違うのだが、「信じるものは救われる」ということはまさしく実現するのだ。
 ここでは、宗教的な救済だと見せかけて、現実的な救済を与える。そのために宗教的な嘘を持ちだして、人々をだます。だますことによって、人々を幸福にする。ここに、プロテスタンティズムの本質がある。
 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神とは、そういうことだ。

 そして、それは、「利己主義こそが善だ」という古典的な発想を否定する。それまでの一般的な学問的土台を根本的にくつがえす。……そこに、ウェーバーの立てた問題提起の意義がある。


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これではダメ




 [ 付記1 ]
 プロテスタンティズムが信者に諭したことは、勤勉さと貯蓄だけではない。もう一つある。それは禁欲だ。
 禁欲は大切だ。若年者がみやみやたらとセックスをすると、若くして出産することになり、人生の形成を阻害する。そのせいで人生が貧困化する。また、人口増加による、社会的な貧困化も起こる。だから、そういう貧困化を防ぐために、セックスを戒めるわけだ。それが禁欲だ。
 これとは逆になったのが、アフリカだ。「貧乏人の子だくさん」という形で、人口爆発が起こった。そのせいで、いつまでたっても貧困状態から脱せない。
 アフリカの人口爆発を解決するには、若年層の禁欲が大事だ。そのためにはキリスト教が役立つだろう。倹約もそうだ。アフリカの近代化のためには、カルヴァン主義のようなプロテスタンティズムがあるといい、とも言える。現実には、それがないから、いつまでたっても貧困状態が続くわけだが。

 [ 付記2 ]
 次の二つの点が重要である。

 (1) カトリックとプロテスタントでは、識字率が違った。

カトリックではかつて聖職者しか聖書を読むことが出来なかった。
→聖職者が特権的な地位にあり、その特権を乱用した聖職者に。
対して怒ってルターがプロテスト→プロテスタント教会設立(16
C)
プロテスタントでは聖書中心主義で誰でも聖書を読める→高識字

( → 共和党と宗教保守票ーなぜトランプを支持するのか

 (2) カトリックではラテン語聖書だったが、プロテスタントでは自国語の聖書だった。そこではグーテンベルクの印刷術が寄与した。その背景にはルネッサンスがあった。

 「ルネッサンス期になると、ラテン語学校の教育から、人文主義の教育へと移行して、学校は学問を教えるようになった。このときようやく、西洋文明が開化した。
 このころ、同時に、ルターが口語聖書を普及させた。それまでのラテン語の聖書から、自国語の聖書へ、聖書の言語を転化した。……これに少し先だって、グーテンベルクの活版印刷も始まった。」
( → なぜ中世アラブは先進国だったか 1: Open ブログ




 【 関連項目 】

 本項に先だって、次の項目を記したことがある。
  → 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」批判 : nando ブログ

 ここでも、同じ著作を取り扱っている。ただし、私の独自見解はない。他人の見解を消化しているだけだ。その意味では、独自記事というよりは、ただの資料にすぎない。



 【 関連サイト 】
 「利己的な遺伝子」(ドーキンス)という学説がある。これも利己主義によって進化を説明しようとするものだ。(基本的にはダーウィン説を原理としているが。)
 この学説は正しいとみられることが多い。だが、実はまったくの誤りである。なぜなら、それで説明できるのは小進化だけだからだ。そして、小進化を説明したあとで、「小進化の蓄積が大進化となる」と推定する。だが、その推定はまったくの間違いだ。
 現実の進化とは、小進化ではなく、大進化だ。そして、大進化は、小進化の蓄積では起こらず、まったく別の原理によって起こる。では、別の原理とは何か? 「迂回経路を取る」ということだ。(上記の図を参照)

 「迂回経路を取ることで大進化が起こる」
 ということは、次の項目で説明している。
  → パレオスポンディルス .3: Open ブログ
 ここで「ミュー進化論」という名称で示されている学説が、「迂回経路を取ることで大進化が起こる」という学説だ。
 こうして、「利己主義によって進化を説明する」という原理は否定された。


 ※ 「利己主義で市場原理を説明する」という経済学説はどうか? これも間違いか? いや、間違いではない。市場原理については、利己主義で説明できる。だが、利己主義で説明できるのは、せいぜい市場原理ぐらいだ。それ以外については、ほとんど無力である。その意味で、進化論やら何やらに、やたらと「利己主義」を導入しようというのは、誤った拡大解釈だと言えるだろう。(その典型が、スペンサーの「社会進化論」やドーキンスの「利己的遺伝子説」だ。)

posted by 管理人 at 23:29 | Comment(1) | 経済 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
 あちこちで誤字(タイポ)を訂正しました。

 
 【 関連サイト 】 を最後に加筆しました。
Posted by 管理人 at 2023年05月03日 09:23
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