◆ 明治維新の真相:  nando ブログ

2024年02月27日

◆ 明治維新の真相

 われわれが明治維新として信じている歴史的事件は、虚構である。それは真実ではなくて、小説的なフィクションである。では、明治維新の真相とは?

 ──

 明治維新とは、何か? 通常、次のように理解されている。
  ・ ペリー来航などの黒船外交で、外国の圧力にさらされた。
  ・ 清国が植民地化されて、次は日本だという危機感をもった。
  ・ 幕府の鎖国政策に、開国派の人々が異を立てた。
  ・ なかでも武力のある薩長が幕府に対抗した。
  ・ 天皇から「討幕の密勅」が出た。
  ・ これを知った徳川慶喜は「大政奉還」を申し出た。
  ・ 薩摩軍が江戸城に迫る。江戸が戦場になる危険。
  ・ 勝海舟と徳川慶喜の英断で、無血開城が決まる。
  ・ 討幕派による新政権の成立。京都で。(王政復古)
  ・ 幕府軍の残りと、「鳥羽伏見の戦い」に。戊辰戦争。
  ・ 幕府軍は敗退して、徳川慶喜は逃げて江戸城に戻る。
  ・ 江戸城を明け渡して、徳川幕府は消滅する。
  ・ 西郷隆盛が征韓論を唱えて、幕府から下野する。
  ・ 西郷隆盛が西南戦争で敗北し、大久保利通が確立。
  ・ 大久保利通の方針で、富国強兵と殖産興業が推進される。
  ・ 大久保が暗殺される。以後は、他の人々で。

 おおざっぱには、この通りに理解していいのだが、ところどころに歪んだ知識が混じっている。
 

 坂本龍馬


 「明治維新が無血の革命となったのは、坂本龍馬が活躍したからだ」
 という俗説がある。しかしこれはフィクションであると判明している。坂本龍馬という人物はいたし、かなり活躍したのも事実だが、彼が明治維新で大きく影響したというのはフィクションだ。
 特に、維新をもたらした「船中八策」に関与した、という俗説は、捏造されたフィクションであると判明している。
 《 坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった 》
『竜馬がゆく』などの小説を読んで、「薩長同盟を締結できたのは龍馬がいたからだ」「大政奉還の立役者だった」と思い込んでいる方も多いかもしれません。
 しかし歴史学の観点に立つと、実態はぜんぜん違います。上記のような彼の業績とされるものは、あれもウソだ、これもウソだといった感じで、「ほとんど真実がない」と言っても言い過ぎではないでしょう。
 実際には、坂本龍馬は日本史にほとんど影響を与えなかった人物でした。
 
 小説において、「竜馬」が果たした価値、すなわち“司馬史観”では「薩長同盟の締結において中心的な役割を果たした」ことになっています。ほかにも、「大政奉還に貢献した」といった扱いもなされています。
 しかし、歴史学の世界でこれらは完全に否定されています。教科書からも龍馬の名は、あやうく消えるところでした。……歴史学の見解として、坂本龍馬は日本史にさほど影響を与えなかったということになったからです。
 例えば、「薩長同盟」。龍馬は、憎み合っていた敵同士の薩摩と長州が手を組んだ薩長同盟において、実際には重要な役割は担っていないのです。
 
 大政奉還でも、龍馬は何もしていません。
 龍馬が書いたとされた「船中八策」……は、師の勝海舟や佐久間象山(しょうざん)、あるいは横井小楠(しょうなん)から教わったことを、まとめただけの話です。龍馬のオリジナリティーはどこにもありません。
 従って、風来坊だった龍馬が幕末の日本を動かして歴史を変えたかのように考えるのは、あまりにも無理があります。明治維新のみならず、日本の歴史全体に龍馬はたいした影響を与えていません。『竜馬がゆく』でつくられた物語は、あくまで司馬さんの創作の世界なのです。
( → 日経ビジネス電子版

 これは、この記事の独自見解ではなくて、今日では標準的な見解だ。だから日本史の教科書でも坂本龍馬は消えかけた。

 典型的な根拠とされる「船中八策」も、ただの捏造文書にすぎないと判明している。
  → https://x.gd/IXb6H
 こういう捏造された証拠にもとづいて、「坂本龍馬は偉大な人物だ」という俗説が形成された。そのあと、これを信じた司馬遼太郎が、坂本龍馬を持ち上げる小説を書いた。また、NHK が大河ドラマ「竜馬がゆく」で坂本龍馬を持ち上げた。こうして世間に「坂本龍馬は偉大なる人物だ」という俗説が広まった。

 では、真相は? 正確に言うなら、坂本龍馬はただの武器商人である。武器を輸入して売却することで、ボロ儲けをした。わかりやすい言葉で言えば「死の商人」だ。これが坂本龍馬を伝える最も簡単な言葉だ。
 ※ これだけでなく、他の面もあるのだが、最も主要な面は「武器商人」である。
 ※ 坂本龍馬については、前に別項で概説した。
    → 幕末の開国は敗戦から : nando ブログ

 薩長の財政


 上の引用記事には次の説明がある。
 例えば、「薩長同盟」。龍馬は、憎み合っていた敵同士の薩摩と長州が手を組んだ薩長同盟において、実際には重要な役割は担っていないのです。
 いがみあっていた両藩の仲をとりもつために龍馬が奔走し、交渉が進まない中で「西郷さん、なんとかしてくれよ」と頼んで、西郷が「分かった」と応じるような場面が登場するのは小説の世界。しかしこれは、歴史学の視点からは完全に間違っています。そもそも西郷はあの当時、流刑地となっていた島から薩摩に戻ったばかりで、藩の決定権など、ありませんでした。
 実際には、薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)が薩長同盟の締結において決定的な役割を果たしたと考えられています。小松の部下が西郷と大久保利通でした。
 薩長同盟を実現するカギだったのが、当時の薩摩藩の国父(藩主・忠義の父)、島津久光(ひさみつ)の賛同を取り付けること。小松帯刀は、どうやったら久光が納得してくれるか、落としどころを考えながら、時間をかけて薩長同盟を実現するための策を練っていたのです。
( → 坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった

 ここで島津久光という名前が出てくるが、これについては下記記事が話題になった。
  → 「風雲児たち」 薩摩近代化の源流、”蘭癖”島津重豪が主人公の「識りたがり重豪」
 「風雲児」というネット上の無料漫画に、島津重豪という殿様が出てくる。非常に開明的な殿様で、鎖国の時代に西洋のものを取り入れた。
 この殿様の孫の庶子に、島津久光という人物が出た。殿様にはならなかったが、本来の殿様を代行する形で、実質的には殿様のようにふるまった。結果的に、(島津家の)薩摩藩は外国との貿易で大いに繁栄することになった。

 この経済的な繁栄は非常に重要である。なぜなら、ここで得た貿易による金で、薩摩藩は外国から武器を輸入して、強大な軍備力を備えるようになったからだ。
 最終的には、薩摩藩を中心とする討幕派が、幕府軍を打破することになる。だが、こういう形で明治維新が起こったのは、その基盤に薩摩藩の巨額の資金があったからだ。(その資金が軍備力をもたらした。)

 では、薩摩藩の資金は、いかにして生まれたか?
 一つは、琉球王国との交易による貿易利益だ。
 もう一つは、綿花取引による巨額利益だ。
 上海市場で綿花の価格が3〜4倍に暴騰しているという情報を入手しました。この暴騰は、アメリカの南北戦争が原因です。
 南部全体の綿花畑の荒廃により成り立たなくなり、世界中が綿花不足になりました。その結果、綿花の価格は高騰したのです。
 薩摩藩はこの戦争を利用して、日本全国を駆け回り、日本のあらゆる綿を最低価格で買い付け、それを上海でトーマス・グラバーに頼み6〜7倍で売却し、莫大な利益を得ました。その額は、今のお金にして約6000億円だそうです。
( → 明治維新を可能にした薩摩と長州の経済力 | 島田晴雄

 こうして薩摩藩は巨額の資金を得て、軍備を拡充した。

 《 参考 》

 ここで、グラバーという人物が出てくる。長崎で有名なグラバー邸の人物だ。彼は薩摩藩の綿花栽培を仲介しただけでなく、薩摩藩に莫大な武器を売りつける武器商人でもあった。南北戦争が終わると、もはや武器は必要なくなり、大量の武器が余った。その不用品となった武器を、中古品販売の形で、日本に売りつけることで、大儲けした武器商人がいた。その一人がグラバーだ。この件は、前にも述べた。
  → 幕末の開国は敗戦から : nando ブログ
 他の武器商人(スネル兄弟など)の話は、別項で述べたこともある。
  → エネルギーの確保は誰が?: Open ブログ

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 なお、この当時には、薩長連盟というものがあったが、討幕派となるのは薩摩と長州の二つだった。長州もまた、多額の黒字で豊かな資金を持っており、強大な軍事力を持っていた。
 では、その資金源は? 初めは新田開発をしたらしいが、それでは足りなくなり、別途、産業の改革で利益を得たそうだ。
 藩士の俸禄を引き下げました。
 それだけでなく、村田は下関に私的な税関ともいえる越荷方をつくりました。そこで商人の便宜を図りつつ、手数料を取ることで儲けを得ました。また、別会計の産業振興期間である撫育(ぶいく)局というものをつくり、特産品の発展に注力しました。こうした取り組みの結果、幕末には相当なお金を持てるまでになりました。
( → 明治維新を可能にした薩摩と長州の経済力 | 島田晴雄

 《 維新の原動力となった長州藩の石高以上の財力 》
 いち早く藩政改革に着手し、財政再建に成功したことが挙げられます。新田開発をはじめ、「防長四白」と呼ばれる特産品(米、紙、塩、ろう)の生産を強化しました。また、その特産品を流通させるため、海上交通の要所である下関などの港湾開発に着手し、交易による収入や、藩直営の倉庫を作って商人に貸し出すビジネスも始めました。
 さらには、「撫育局」(ぶいくきょく)という組織を作りました。この撫育局は、藩主直属の特別会計を持ち、余った資金をヘソクリとして蓄財するだけではなく、新規事業を推進するためのベンチャー投資も行っていました。
( → 明治維新タイムトリップ

 西郷隆盛


 西郷隆盛は明治維新のなかで一定の役割を果たした。その後、維新のあとでは、政権のなかで、征韓論を唱えて、好戦的な方針を示したが、大久保利通らの非戦主義に屈して、九州に下野し、その後に西南戦争で武装蜂起したあとで、政府軍に敗れた……というのが、標準的な歴史記述だ。(教科書的)
  → 【中学歴史】「征韓論をめぐる対立」
 だが、これは誤りだというのが今日では定説だ。

 (1) 維新における役割

 明治維新における役割は、西郷隆盛が圧倒的な力を発揮した。具体的には、西洋の近代的な兵器を装備した薩摩が、長州に兵器を供与して、薩摩と長州の強力で、幕府軍を打倒した。
  → 第二次長州征伐/ホームメイト
 要するに、明治維新をもたらした「幕府の敗北」は、薩摩の兵器によってもたらされたのであり、それを主導したのが西郷隆盛だった。
 それだけではない。優勢な倒幕軍が江戸に侵攻しようとしたとき、将軍の大政奉還を受けて、江戸侵攻を止めた。無血開城だ。
 このとき、勝海舟と西郷隆盛の会談で方針が決まったようだが、勝者の側としてこの方針(攻撃停止)を最終決定したのが、西郷隆盛だった。
 結局、明治維新とは、最初から最後まで、西郷隆盛がやったことだ、と言っていい。勝海舟は二の次だし、坂本龍馬は蚊帳の外だ。西郷隆盛こそが立役者なのだ。

 (2) 征韓論

 西郷隆盛は韓国を武力制圧しようとしたとされるが、実際はそうではなく、むしろ、武力制圧に反対した。
 そもそも西郷には武力で朝鮮を征する意思はなかった。
 閣議では参議の板垣退助が「朝鮮にいる居留民を守るため、朝鮮に出兵すべき」と強硬に主張し、他の参議もこれに同調した。ところが西郷は朝鮮派兵に反対し、自分を全権大使とする使節団の派遣を主張する。議論の結果、西郷を遣韓大使とすることが8月17日に閣議決定され、岩倉ら使節団の帰国を待って正式決定することにした。
 従来は、「自分が朝鮮で殺されれば、心置きなく朝鮮に派兵できると考えた西郷が、使節として自ら朝鮮に乗り込むことを主張した」というのが一般的な定説だった。しかし、実際は武力で朝鮮を征する考えは西郷の頭になく、むしろ平和的なやり方での国交回復を望んでいたようだ。
( → 西郷隆盛と大久保利通が決別した本当の理由 「征韓論」をめぐる対立だけが原因ではない | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン


 (3) 下野

 西郷隆盛は、征韓論が実現できずに、大久保利通らの非戦主義に屈して、九州に下野した……とされる。だが、それは妥当ではない。正しい事情は、このあとで説明する。

 (4) 西南戦争

 西郷隆盛は、西南戦争というクーデターを起こしたあとで、政府軍に敗れた……とされる。だが、それは妥当ではない。正しい事情は、このあとで説明する。

 大久保利通


 西郷隆盛と大久保利通の関係では、西郷隆盛が悪人で大久保利通が善人だ……というふうに評価されることが多い。しかしこれは誤りだ、というのが今日の定説だ。

 前章の番号をそんまま引き継ぐと、次のようになる。

 (3) 下野

 西郷隆盛は、征韓論が実現できずに、大久保利通らの非戦主義に屈して、九州に下野した……とされる。だが、それは妥当ではない。
 正しくは、こうだ。
 西郷隆盛は、兵隊を韓国に派遣するかわりに、自身を韓国に派遣する、という方針を立てた。政権内では双方の意見が5対5で割れたが、その後、西郷の方針が多数を占めて、西郷を派遣することに決まった。
 これを悔しがった大久保利通は、裏技を使った。天皇が西郷を好きなことを知っているので、「このままだと、韓国に派遣された西郷が現地で殺されてしまいますよ」と天皇に吹き込んで、西郷の派遣を中止させた。この際、西郷が反論できないように、西郷を宮中に入れないように工作した。
 こうして裏技によって政府方針を天皇の声で逆転させた。とんでもない政治工作だ。あまりにも理不尽である。それで怒った西郷が自ら下野して、九州に引き込んだ。

 つまり、西郷は、政権内で負けたから下野したのではない。政権内では勝ったが、イヤーゴーのように卑怯な裏工作によって逆転されたので、憤慨して、政権から去ったのだ。

 (4) 西南戦争

 西郷隆盛は、西南戦争というクーデターを起こしたあとで、政府軍に敗れた……とされる。だが、それは妥当ではない。
 正しくは、こうだ。
 西郷隆盛が九州に下野したあとも、西郷隆盛の人気は高い。これを大久保利通は恐れた。このままではいつか西郷隆盛に寝首をかかれかねない。そう心配した。
 そこで大久保利通は、政府軍の正規戦力を使って、西郷隆盛を殲滅することを狙った。まずは九州で、あれこれと薩摩藩にイヤガラセをした。それを知った薩摩藩の若者は、血気に はやって、武装蜂起しようとした。西郷隆盛は、平和主義なので、それを止めようとした。しかし若者たちは、どうにも止められなくなって、武装蜂起を続けた。かくて、西郷隆盛もやむなく若者たちに乗せられる形で、武装蜂起することになった。
 結局、大久保利通の挑発に乗せられる形で、イヤイヤながらも、武装蜂起をせざるを得ないところに追い込まれてしまった。大久保利通としては「してやったり」というところだろう。あとは強大な政府軍の戦力を使って、薩摩藩の軍を打破した。
 こうして大久保利通は宿敵を打倒して、独裁的な権力を握ることに成功した。大久保利通の狡猾な策謀は見事に成功した。その権謀術数の手法は、プーチンや習近平にも通じるところがある。とにかく、自分の独裁体制を構築するために、ライバルを徹底的に排除しようとしたのだ。その犠牲になったのが、西郷隆盛だった。

 ※ 西郷隆盛の西南戦争の事情については、「ラストサムライ」という映画が参考になる。西郷隆盛をモデル化した人物が現れる。(この映画は秀作だ。お勧め。)






 [ 付記 ]
 参考資料は、本文中でリンクしたページを、個別に開いて、そこにある詳しい説明を読むといいだろう。
 次のページもある。
  → 西郷隆盛は本当に征韓論者だったのか〜明治六年の政変の真相
 一部抜粋。
 同年10月14日、朝鮮問題を議題とする閣議が開かれました。
 大久保は、「もし使節に危害が加えられ、それがもとで開戦ともなれば、財政的負担が重くのしかかり維新の改革も一時的に頓挫することになる。よって、使節派遣は延期して朝鮮問題はしばらく保留にすべきだ」と主張しました。西郷に同調したのが、板垣、後藤、江藤、副島で、三条、岩倉、大久保、大隈、大木が反対に回り、5対5で賛否が分かれ議論は白熱したといいます。結局、この日は結論が出ず、翌日再開することになりました。
 翌日の閣議には西郷は欠席しました。そして、これまでの経過を記した『始末書』を三条に提出して、もし自分の意見が通らなければ、すべての役職を辞任して鹿児島に帰ると伝えたといいます。
 この日の閣議でも、賛否双方の意見がぶつかり合いました。特に、海外情勢にも詳しくディベート能力にたけた江藤新平が、西郷訪朝に賛成する立場から岩倉や大久保の主張をことごとく退けていったといいます。しかし、双方譲らずなかなか結論が出ませんでした。その時突然、三条が西郷訪朝賛成を言い出しました。西郷が職をかけてでも訪朝を望むのであれば、やらせてみようではないか、と。三条は、西郷が職を辞して鹿児島に帰った後に、不平士族を中心にした反乱が起こること危惧したのだと思われます。これで局面ががらりと変わってしまい、大久保以外のメンバーがすべて賛成に回り、朝鮮使節派遣は予定通り行われることと決しました。あとは三条太政大臣が天皇の裁可を得るだけという運びとなったのです。
 しかし、大久保もこれでひきさがるような男ではありませんでした。
 策士・大久保が、子分となった伊藤(俊輔)を使って策動します。三条の代わりに岩倉を太政大臣代理とし、閣議決定を天皇に上奏する際に、西郷訪朝の危険性(使節が殺されるかもしれない、そうなれば戦争が始まる)を岩倉に説明させ、閣議決定不裁可の方向に誘導しようとしたのです。明治天皇は西郷を大変お気に入りだったので、西郷が危険にさらされることを容易に認めないだろうという読みがあったと思われます。
 24日、大久保、岩倉の思惑通り天皇は西郷の朝鮮使節派遣を不裁可としました。

 このあと、西郷は下野して、大久保が権力を握った。
 大久保らが西郷以下5人の参議を失脚させようとした本当の狙いは何だったのでしょうか。それは正院内での政権抗争だったと考えます。具体的に言えば、大久保派と反大久保派との争いです。

 つまり、大久保が独裁政権を確立させた。そういう政治抗争があった。そこで敗れたのが西郷隆盛であり、勝利したのが大久保利通だった。

 ただしその大久保利通は、独裁政治をしばらく続けたあとで、暗殺されるに至った。
  → 紀尾井坂の変 - Wikipedia

 なお、大久保利通が独裁的であったことについては、ググれば記事がたくさん見つかる。
  → https://x.gd/whI98
 

 ※ 安倍晋三や菅義偉は、独裁的と呼ばれることもあったが、大久保利通に比べれば、はるかに小規模であったようだ。戦争を起こしてライバルを殲滅するということもなかったし、ライバルを殺すために多数の兵士を巻き添えにするということもなかった。政治工作もたいしたことはなかった。


posted by 管理人 at 23:58 | Comment(0) | 歴史 このエントリーをはてなブックマークに追加 
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