( ※ つまり、世間でなされている議論は、ナンセンスである。「AかBか」という議論とは別のところに、物事の本質がある。その本質を論じる。)
──
議論はおおむね、次のように対立する。
70年論。
「著作権の保護期間を長くすることで、著作権者の意欲が湧いて、文化が向上する」
50年論
「そんなに長くしたって、ほとんどの著作者人には無意味だ。それよりは、社会の利便性を考えて、50年にした方がいい」
──
以上の議論を要約すれば、次のようになる。
「著作者のための1の利益を優先するべきか、社会全体のための 100の利益を優先するか」
ここで、70年論者は、社会全体の利益を考慮せずに、著作者の1という利益だけを重視する。著作者のためのエゴイズムである。
50年論者は、著作者のエゴイズム的な権利を剥奪して、社会全体の利益を向上させる。これは社会主義である。
──
この対比を誤解してはならない。
これは、「私的利益(エゴ)か公益か」という問題ではない。「資本主義か社会主義か」という問題である。
なぜか? ここでいう著作権というのは、著作者の私的所有物であるからだ。
この私的所有物としての権利は、他の土地や家屋や骨董品の所有権と同様である。土地や絵画の所有権が「50年で没収」ということがないように、著作権としての所有権も「50年で没収」ということはあってはならない。それが資本主義の原則だ。
すなわち、資本主義のもとでは、「著作権は永遠」というのが原則である。
そしてまた、「社会的公益性」というものは、本来、一切考慮の必要がない。たとえば、銀座のどこかの土地が、公益上でボッシュされた方が国民の福祉のためになるとしても、国家はそれを没収できない。また、あなたの土地や家屋も、あなたが所有するよりは、国家が没収して後援にでもした方が国家的に有益なのだが、だからといって、国家があなたのものを没収することはない。──これが資本主義の原則(私有財産制)である。
したがって、「著作権の期間を制限する」というのは、資本主義の原則を逸脱した、例外的な社会主義適性度だ、ということになる。この本質を理解しよう。
──
なお、このことを理解するには、特許権と比較するといい。
第一に、「著作物をコピーしたからといって、著者の物質的な紙などを盗んだわけではない」という反論がありそうだが、それを言い出したら、特許権というものは成立しなくなる。だから、そういうふうに「知的財産権」と鋳物を否定するのは、中国の馬鹿連中と同様で、非文化的な未開人(もしくは知的泥棒)の発想なのである。……そして、そういうふうに知的泥棒が横行する社会は、本質的には自壊するものだ。(当り前ですね。説明はしません。)
第二に、特許権の期間が制限されるのは、特許権で保護されるものが「著作」ではなくて「真実」であるからだ。これが著作物とどう違うかというと、著作物には独創性があるが、真実には独創性がない、ということだ。たとえば、「二重らせん」という真実は、誰が発見しても、同じ真実である。しかるに、「二重らせん」というワトソンの著作物は、彼自身の書いた著作物であって、類書とはまったく異なる独創的なものである。同様に、ある新薬は、どの製薬会社が発見しようと、結局は同じ新薬となるが、新薬の箱のデザインは、独創的なものである。……ここにおいて、新薬としての事実は、それなしには社会が困るが、新薬のデザインは、それなしでも社会は困らない。
──
上の「第一」のことからわかるように、特許権も著作権も、共通性がある。そのどちらも、知的財産権として保護される必要がある。どちらも、「物」ではないが、「物」と同様に財産権が認められるべきだ。
上の「第二」のことからわかるように、特許権と著作権には本質的な違いがある。特許権は、独創性はなくて普遍的であるがゆえに、本質的には発見者個人よりも社会に属する。著作権は、独創性があり普遍的でないがゆえに、本質的に創造者に属する。
──
具体的に言おう。モーツァルトの音楽がある。これは、誰のものか? 社会主義者ならば、「これは社会のものだ」と主張するだろう。しかし、モーツァルトを尊敬する人ならば、次のように主張するだろう。
「これは社会が作り出したものではなく、モーツァルトが作り出したものだ。社会が真似しようとしても真似することはできない。その創造性は、100%、モーツァルトに帰する。とすれば、モーツァルトの作品は、完全にモーツァルトのものである。社会はそれをありがたく無料で使わせていただいているだけだ。つまり、モーツァルトの音楽は、モーツァルトからの贈り物なのである。それを、社会が勝手に奪取する権利はない。二重らせんの真実ならば、どうせあとで誰かが発見しただろう、と考えることはできるが、モーツァルトの音楽は、そういうふうに考えることはできない。社会には何一つ奪い取る権利はない」
──
以上のことから、結論を出せる。
著作権というものは、本来ならば、永遠の所有権があるものだ。それを「社会にとって有利だから没収する」というのは、社会主義者のエゴイズムにすぎない。仮に、そのような主張が許されるのであれば、著作権というものは一切認められなくなるはずだ。50年どころか、1年も権利がないはずだ。……つまりは、「社会のため」というような理屈は、私有財産権を否定する理由にはならない。人のものを奪い取るには、「公益性」などは何の意味もない。
ただし、「社会のものにした方が社会にとって有利だ」という事実はある。しかし、その場合には、「没収」ではなくて「買収」にするのが正当だ。
たとえば、銀座の特定の土地を、国家的に利用した方がいいのだとすれば、その土地を「没収」するのではなく「買収」にするのが正当だ。それが私有財産制の発想だ。
(これは、近代的な思想と言ってもいい。その意味で、「没収」を主張する人々は、あまりにも前近代的または社会主義的なのである。)
──
では、「没収」ではなくて「買収」にするとは、どういうことか? 具体的な例を挙げれば、次のような方法が妥当だ。
「著作権者には、私有財産権を50年に制限する、という制限を課する。つまり、私有財産権を一定期間後に剥奪する」
「その代償として、生前の所得については、減税する。たとえば、同じ所得であっても、一般の人よりも20%ぐらい減税する。その分は、死後に著作物を社会に贈与する、という形で、相殺される」
──
上の案は、なかなかうまい仕組みでしょう?
ただし、実を言うと、このことは私の案ではない。日本はもともと、この制度を実施していた。それは「簡易課税制度」というものである。
この制度のもとでは、たとえば、小説家は、「収入の50%が必要経費」というふうな形で認定され、残りの50%にのみ課税された。現実には、確かに必要経費はある(取材費とか、女遊びする金とか)。……それが 50%かどうかはともかく、こういう形で、著作権者はかなり優遇されていた。そのかわり、著作権は将来的には没収された。
その後、この制度は変わった。小説家にも、厳密な経理の記帳が義務づけられた。「領収書を一枚一枚、全部添付して下さい。さもないと、経費とは認められません」ということになった。
しかし、そんなことを言い出したら、素人の女を相手に遊ぶ金もまともに出せなくなるし、ハチャメチャナ人生を送ることもできなくなる。
結果的に、サラリーマンみたいに、きちんと領収書を集める小説家ばかりがのさばるようになる。「小説家にとって一番大切なのは、小説を書くことだ」というふうにはならず、「小説家にとって一番大切なのは、領収書を集めることだ」というふうになる。
(これは嘘ではない。東野圭吾の「超・殺人事件」という本に、詳しく説明してある。小説家にとって一番大切なのは、何より、領収書を集めることだ。それを忘れたら、莫大な税金がかかって、破産する。何しろ、必要経費がすべて所得と見なされてしまうのだ。)
こうして「領収書を集める小説家」ばかりが誕生するようになり、「文学を書く小説家」というのは経済的に成立することができなくなってしまった。
つまり、社会が自分の利益ばかりを目的にして、創作者の創造性を尊重しなくなくなった結果、社会の自壊作用(文化的な崩壊)が起こっているわけだ。自業自得。
これを聞くと、「大げさな」と思うかもしれない。しかし、考えてみよう。もしモーツァルトが今、日本に誕生したら、どうなるか? 彼はすばらしい音楽を作曲できたか? いや、できなかった。もし音楽に専念していたら、税務署から莫大な税を取られて、破産してしまうからだ。
かといって、せこせこと領収書を取ることに気を遣っていたら、モーツァルトの音楽は、驚くほどの美を備えることはできず、音符の間から銭の音が聞こえてくるようになっただろう。そういうものだ。
──
結論。
50年か70年か、というのは、本質をはずれた議論である。むしろ、
「著作権は本人に永遠に帰属するものだ」
という立場を取って、「没収」のかわりに「買収」という発想するといい。そして、そのためには、文化的な著作者には十分な支援を与えて、細々とした納税の義務などを免除すればいい。文化を、ただの経済とは見なさず、国家の宝だと見なして、支援すればいい。
現代の日本の文化的が貧しいのは、決して偶然ではない。日本という国が、金、金、金、と騒いでばかりいて、文化というものをないがしろにしたからだ。欧米にはパトロンがいたが、日本にはパトロンがいない。企業もメセナをやる気がない。
現代の日本の文化が貧しいのは、現代の日本の心根がさもしいからだ。
[ 付記 ]
ここで「支援する」というのは、「金を与えて育成する」という意味ではなくて、「創作環境をちゃんと与える」ということだ。
その逆が、「創作環境を悪化させる(虐待する)」ということだ。たとえば、小説家が創作に専念しようとすると、「創作なんかどうでもいいから、とにかく領収書を集めなさい」と言い張る。(東野圭吾のパロディ作品[上記]を見ると、そういう感じだ。)
一般に、あらゆる商売は単なる経済活動と見ていいが、文化だけは単なる経済活動と見るべきではない。文化というものは金儲けを目的としていないからだ。創作家は、「最も儲かる作品」を書こうとして競争するのではなく、「最も質的に高いもの」を書こうとして競争する。そこには、「市場原理」という経済原理は成立しない。
何でもかんでも金を優先すると、政治家すら「金儲けのための政治」をするよようになる。
経済学者はやたらと「市場原理で状況は改善する」と主張するが、そういうのは、実にさもしい心根である。
[ 補足 ]
「良い物が売れる」
ということ(市場原理)は、一般商品については当てはまるが、芸術作品については当てはまらない。このことに注意のこと。
たとえば、自動車なら、どの自動車だって、大同小異である。車輪が四つあって、エンジンとブレーキがあって、人を乗せて、目的地まで安全に移動する。どれだって大差はない。百年ぐらい前の自動車に比べれば、現代の自動車はみな似たり寄ったりだ。そのなかで、微小な差異を比較するだけだ。たとえば、「燃費がちょっといい」というふうに。
一方、芸術作品は違う。それぞれの芸術作品はまったく異なる。そのなかで、売れ線の大衆芸術と、売れにくい前衛芸術とは、まったく似ても似つかぬものになる。こうなると、「どっちがいいか」と比べることは不可能になる。
ただし、次のことは言える。
「爆発的に売れる物は、大衆の理解力に合わせて、程度を下げたものであることが必要だ」
小説であれ、音楽であれ、絵画であれ、爆発的な人気をもつものは、わかりやすい低レベルの大衆性が必要となる。小説で言えば、「世界の中心で〜」とか、「ダビンチコード」のように、芸術性のかけらもないような低レベルの作品が爆発的に売れるようになる。ここでは「良い物が売れる」のではなく、「良くない物が売れる」のだ。
こういうことからわかるように、「市場原理で状況が改善する」ということは、芸術分野では成立しない。
「売れりゃいい」
という発想は、芸術分野では成立しないのだ。(それは、芸術家の発想ではなくて、芸術プロモーター[芸術を食い物にする人]の発想だ。)
[ 余談 ]
なお、本項の趣旨を誤解されると困るので、注記しておく。
本項は、次のことを主張しているのではない。
「芸術家に対して、領収書の義務づけを免除しよう」
「芸術家に対して、社会的にみんなで援助しよう」
つまり芸術家に対して、「脱税っぽいことを認めよう」「乞食っぽいことを認めよう」というふうに主張しているのではない。芸術家というのが、絶滅保護動物みたいなものであることは事実であるが、だからといって「可哀想だから保護して上げましょう」と主張しているわけではない。
では、何を主張ているのかといえば、芸術家に対する処遇ではなくて、芸術家に対する世間の人々のさもしさだ。
「著作権を制限して、芸術家の作品を無料で利用しよう」
「コピーを自由にして、音楽や映画を勝手にコピーし放題にしよう」
こういうふうに「著作権を制限しよう、そうすれば経済が活性化する」と主張する身勝手な人々への批判だ。「他人のものをタダで利用して、自分が儲けよう」というふうにだけ考えて、「そのためには金の卵を生むダチョウを虐待したって構わない」と考えているような、その心根のさもしさ。
ああ、いやしい、いやしい。他人の著作権に対して、「そこからいかに自分が儲けるか」ということばかりを考えている、ほとんど泥棒のような根性。
これはまあ、グーグルと同じだが。
( → http://openblog.meblog.biz/article/62790.html )
とにかく、こういう世間の人々のさもしさを話題にしている。それが主題だ。
(で、そのさもしさを理解した人々が、心根を改めて、金の卵を生むダチョウを大切にしようとするのであれば、それはそれで、意図を正しく理解したことになる。ただし、本項は、そのことを直接的には命令しない。そういうことは、心のきれいな人が、自発的になすべきことであって、他人に命令されてなすべきことじゃない。本項はただ、人々の心根のさもしさを指摘するだけだ。そのあと、どういうふうに人々が考えるかは、人々しだいだ。)
本項の趣旨がよくわからなかったら、コメント欄にある管理人の解説をご覧ください。また、本項冒頭(テーマの呈示)もご覧ください。
【 追記 】
本項で述べたのは、「著作権問題の根源」である。
一方、最近、「著作権を 50年にするか 70年にするか」という問題も、話題になっている。たとえば、次のサイト。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0707/25/news057.html
http://www.icpf.jp/archives/2007-07-27-1434.html
この件について私の見解を示すと、次の通り。
「この問題は、著作権問題の根源ではない」
換言すれば、こうだ。
「この問題は、著作者自身には関係なく、そのまわりにいる雑魚たちの問題である。ゆえに、文化政策として大騒ぎするような問題ではない」
──
まず、論者の主張は、次の通り。
70年論者 「文化のためには、期間は長い方がいい」
50年論者 「文化のためには、期間は短い方がいい」
そのどちらも、「文化のためにはどちらがよいか」というふうに論じている。
しかし私は、次のように主張する。
「どっちにしたって、文化のためにはならない。これは、文化の問題ではなく、ただの経済の問題(金儲けの問題)である」
理由は、次の通り。
「50年であれ70年であれ、著作者自身にはたいして関係がない。50年よりは70年の方が、財産権は少し高まるが、そんなに先の話は、売るにしても高く売れるわけではないから、ほとんど影響しない。(たとえば、現存の誰かの作家の著作権の50年後の分のを売却するにしても、そんな先のことなど、わからないから、たいして価格に影響しない。)……また、現時点において、すでに死んだ過去の著作者が得をするわけでもない。……したがって、この問題は、『著作者のため』考える限り、ほとんど影響を及ぼさない」
「しかしながら、経済問題として考えると、この問題は、大きな影響をもつことがある。特に、映画はそうだ。50年前の映画を、今日の人間が利用するかどうか、というふうに考えると、そこには大きな差が生じる。小説だって、50年前に死んだ作家には影響しないが、50年後の子孫には影響する」
以上をまとめて言えば、次の通り。
この問題は、過去の祖先のもたらした富を、誰が食うか、という問題だ。
・ 著作者の子孫が食う
・ 社会全体が食う
つまり、目の前に残れた富について、「誰が食うか」という、食い合いをしている。卑しい獣が二匹いて、「オレが食う」「オレが食う」といがみあっている。そのどちらも、自分自身の富ではないのだが、たまたま、富の持主がすでに権利をなくしてるので、「だったらオレが食う」というふうに、いがみあっているいのだ。
単純に言えば、「泥棒の奪い合い」である。「オレが盗んだ方が有効だ」というふうに、泥棒同士がいがみ合っている。どちらにも正当な権利はないのだが、正当な権利を持つ人がすでに死亡しているので、勝手に「オレが取る」「オレが取る」といがみあっている。
まことに醜い。
私としては、「その富を生んだ著作者のために、生前に尽くした方(貢献した方)が取ればいい」と思う(つまり本項前半の話)。
しかしながら、現実には、二人の泥棒はどちらもただの泥棒であって、生前に尽くしたことなどはない。そんな殊勝なことはしない。泥棒のやることは、単に奪うことだけだ。
となれば、私としては、「勝手にしやがれ」と言うしかないね。どっちの泥棒が盗もうが、私の知ったこっちゃない。
ま、世界の趨勢が「70年」(つまり、子孫が盗む……というよりは、権利を安く買いたたいた買収者が盗む)というのであれば、そうするしかないのかもしれない。
しかしまあ、私としては、どっちにしたって、知ったこっちゃない。どちらの泥棒が盗もうが、著作者自身には関係のないことだ。「勝手にしやがれ」と言うしかないね。
私の望みは、ただ一つ。「文化のため」なんて立派な大義名分は使わないでくれ、ということだ。泥棒がたがいに盗みたがっているのであれば、そのあさましい本心を正直に言えばいい。
《 誤 》
70年論者 「文化のためには、期間は長い方がいい」
50年論者 「文化のためには、期間は短い方がいい」
《 正 》
70年論者 「権利買収者のエゴのためには、期間は長い方がいい」
50年論者 「社会のエゴのためには、期間は短い方がいい」
そのいずれも「文化のため」でなく「エゴのため」だ。つまり、「他人の生み出したものを、無償でちょうだいして、自分が得をしたい」ということだ。そういうあさましい発想がある。その本心を語って、盗み合いをすればいい。
立派な大義名分で論じ合うのは、馬鹿げている。
──
【 結論 】
この問題の本質は、「遺産争い」である。
悲劇「リア王」と同様で、二人の娘が、父の遺産をぶんどり合っている。「私がもらう」「いや、私がもらう」といがみあっている。で、その間、肝心の王( = 著作権者)のことなんか、ほったらかしである。
一方、「王を大切にしましょう」と、コーディリア(南堂)は思っているが、そんな言葉は誰も聞き入れない。世間は二人の娘の話しか聞かない。
当の王はどうか? 王は王で馬鹿王なので、片方の娘をひいきにすることがある。「こっちの娘の言うことを聞くと、自分の遺産を大切にしてくれるのか。じゃ、こっちの娘に遺産をやろう」と思う。
( ※ 三田誠広というリア王は、片方の娘ばかりを大切にする。上記のリンクを参照。)
で、結局、どうなるか? 王には悲惨な運命が待ち受ける。王は荒野で発狂したすえに、死ぬ。コーディリアもまた、運命のせいで、善の行為ゆえに、はかなく死ぬ。
これがこの世のならいである。
[ 余談 ]
( ※ 以下は特に読む必要はありません。)
上記のリンクのうち、下記を改めて読み直した。
http://www.icpf.jp/archives/2007-07-27-1434.html
これを読んで理解したのは、著作権制限論者(50年論者)の多くが、著作権というものを正しく理解していない、ということだ。
そこで、いくつか解説を示す。
(1) 著作人格権
著作権と著作人格権は異なる。これはイロハのイだから、自分で調べるなりして、ちゃんと区別してほしいものだ。
(2) 発想
著作権は、表現を保護するものであり、発想(アイデア)を保護するものではない。(それをやるのは特許権や意匠権だ。)
たとえば、シェークスピアは、「ロミオとジュリエット」や「リア王」などの物語の枠組みを、古い物語に依拠した。ゲーテもまた、「ファウスト」で同様のことをやった。これらのことは、著作権法違反にはならないし、また、「剽窃」ということにもならない。「物語の枠組み」というものは、著作権の保護の対象にならないのだ。(そっくりそのまんま、というのでない限り。)
当然、漫画の「銀河鉄道999」は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に対して、著作権を侵害していない。「物語の枠組み」を利用しただけであって、著作権を侵害していない。
ま、「発想を依拠したので、感謝の意を捧げます」という謝辞があればいいが、別に、なくたって、ちっとも問題はない。「真似しやがって」という読者の批判が起こる可能性はなくもないが、普通はそんなこともないだろう。
問題があるとすれば、「銀河鉄道」という言葉をタイトルに使ったことぐらいだが、これだって、「宮沢賢治へのオマージュ」だと受け取れれば、特に問題があるわけでもない。(判決例がある。「武蔵野夫人」というタイトルを丸ごとちょうだいした例でも合法。)
また、物語の枠組みを利用するという点では、黒澤明の「七人の侍」のシーンを真似したNHKの番組は「合法」とされた。そもそも黒澤明自身、そのシーンの多くは、先人の監督のものに似ている場面がたくさんある。
要するに、「発想」というものは、著作権法の保護の対象にならない。(よほどの丸写しでない限り。)
(3) 独禁法
著作権保有者が著作物の販売形態を勝手に決めることに対して、「独禁法違反だ」というふうに文句を言う人もいる。馬鹿馬鹿しくて、話にならない。経済学のイロハも知らないのだろう。
たとえば、トヨタはカローラを独占販売して、日産やホンダには販売させないが、これは独禁法違反ではない。また、レクサスをレクサスの豪華な店舗でのみ販売して、普通の大衆的な店舗で販売しないが、これも独禁法違反ではない。
独禁法違反というのは、「自分の販売物を阻害する」ことではなく、「他人の販売物を阻害する」ことだ。たとえば、トヨタが日産マーチやホンダ・シティの販売を阻害することだ。トヨタが自社の商品をどんなふうに売ろうが、それはトヨタの勝手であり、独禁法違反にはならない。(インチキ商法は別として。)
著作物も同様だ。たとえば、新潮社が三島由紀夫の全集を「革装の豪華版」だけに限って販売するとしても、遺族が「革装のものでなくちゃ嫌だ」と思っている限り、この販売形態を「独禁法違反だ」というふうに制限することはできない。
では、何ができるかと言えば、「たとえ高くても、とにかく金を払えば、三島由紀夫の全集を読める」ということに、感謝することだけだ。「全集が消えてなくなる」というふうに「文化の消滅」を避けて、まさしく作品に触れる機会があることに、感謝することだけだ。
こういう「著作者への敬意」のないエゴイスティックな人々が多すぎる。「いかに安く(または無料で)利用してやるか」ということばかり考えているわけだ。
彼らはたぶん、「創作活動」というものの意義を、まともに理解できないのだろう。創作活動を、ただの金儲けとだけ考えて、「金儲けのために売れる著作物を作るのが、著作者の目的だ」とで思っているのだろう。
こういう下賤な発想しかできない連中が、著作権の話に首を突っ込むから、議論が下賤になる。卑しい餓鬼連中とは、関わりにならない方がマシです。だから、他人の著作権を食い物にしようという餓鬼とは、議論しない方がいいですね。さっさと逃げるのが賢明。
( ま、逃げっぱなしだと、連中に食われてしまうが。)
(4) 表現の自由
「著作権法は憲法に定める表現の自由を制限する法律だ」という見解がある。
( ※ これは、あまりに馬鹿げた見解なので、出典はあえて明示しない。誰が言っているか、特に知りたい人は、ネットで検索するといい。)
「泥棒にも三分の理」という言葉があるが、上記の見解はもっとひどい。「泥棒の詭弁」というにふさわしいデタラメだ。ここには三分どころか、一分の理さえもない。
そもそも、表現の自由とは、何か? 自分の表現物を公開する自由だ。たとえば、音楽や、絵画や、言論など。これらを、自分が表現したあとで公開する自由だ。それは、「他人が表現したものを勝手に公開する」という自由ではない。……ここを勘違いしてはならない。
似た例を言おう。人は金を自由に使う権利がある。しかしその自由は、自分が稼いだ金を自由に使う権利だ。他人が稼いだ金を自由に使う権利ではない。……なのに、両者を混同するのは、泥棒の論理である。論理というより、狂気の屁理屈である。そこには一分の理さえもない。
( ※ なお、「著作権法は憲法に定める表現の自由を制限する法律だ」という見解は、部分的には成立する。それは「著作人格権」だ。つまり、「自分の著作物を勝手に改変されない権利」だ。これは、まさしく、「表現の自由を制限する」と言える。しかしそれは、特に問題とはなっていない。ごく一部に、パロディをしたがる人がいるだけだ。)
とにかく、泥棒精神に染まった人は、自分の泥棒行為を正当化するために、ちょっとまぎらわしい例を取りだして、人々をうまく言いくるめようとする。これは、詭弁であり、ペテン師のやることだ。
こういうペテン師は、自分の利益のために、他人のものを奪おうとする。そのあげく、自分の泥棒行為を正当化しようとする。だまされないように、注意しよう。
【 結語 】
著作権問題の本質は、「すでにある著作物をいかに安く普及させるか」ではなくて、「著作者が著作物を誕生させることのできる環境を整えること」である。
比喩で言えば、「金の卵を生むガチョウからいかに多くの卵を得るか」ではなくて、「金の卵を生むダチョウがまさしく存在できるようにすること」である。
この本質を忘れて、「卵をたくさんほしい」とばかり考える欲深い連中が多すぎる。
議論もまた同様。「どれが最も利益が多いか」ということを考える連中が多すぎる。「利益の大小を考えることが、経済学的で、学術的だ」とでも思っているんだろう。
学術的じゃなくて、卑しいだけなんだが。
【 追記 】
「著作権を廃止してしまえ」
という意見も、ネット上にはある。ほとんど暴論だが。その理屈は、
「著作者が得られる利益よりも、利用者の得られる利益の方が、圧倒的に大きい。だから、著作権を廃止した方が、社会全体の得られる利益は大きい」
というもの。
こんなことを書く人は、頭がどうかしているとしか思えない。たとえば、中国の企業は、同じことを言っている。
「特許権の権利者が得られる利益よりも、特許権の利用者の得られる利益の方が、圧倒的に大きい。だから、特許権を無視して、勝手に使った方が、社会全体の得られる利益は大きい。ゆえに、中国では、日本企業の特許権を無視して、勝手に利用してしまえ。また、意匠権も無視して、勝手に利用してしまえ。それで日本企業のこうむる損失よりも、中国人民の得られる利益の方が、圧倒的に大きいのだから、それが正しい」
泥棒の論理。 (^^);
論旨がどうもよくわからないのですが、死んで216年経った現在でもモーツァルトの作品を勝手に自作とするようなことは認められておらず、また金を払うとなれば「どの」遺族に払えばよいのかという問題があります。(子沢山のバッハを先祖に持つ人は相当な数に上るでしょう)
保護期間延長問題は「残された子供と若い未亡人を一生面倒見るか孫の代までケアするか」ということだと理解しています。
(下手に莫大な資産を残されるとその税金を払えなくなるおそれもありますから。漫画「ギャラリー・フェイク」で「大画家を父に持つ子供達が残された絵を燃やそうとする」場面がありましたね。)
奥村土牛という日本画家が亡くなられた時、相続税が払えないからそのお子さんは作品を所持していないとするために、お父さんの作品を隠れて焼いていました。
何か狂っている体制の国に住んでいる矛盾と感じます。
図書館はけしからん、本を回し読みして
本の売り上げが悪くなる。
と言う人もいます
ベストセラーを図書館で借りようとすると
一年待ちということもあります
以前、「下流社会」を図書館で予約しよう
としたら予約が46件入っていて自分が
借りられるのは2年先だったんで諦めました
なかったっけ?安いんだし…
立ち読みでも十分読めるような薄っぺらな本
なんで、ブックオフにもあふれてるし、
その気になればどうにでもなりますよ
図書館はもっと別の使い方をしましょう
個人の場合はそうです。
法人の場合は起算時期が「死後」ではなく「発表後」です。
本項では起算時点は特に問題にしていません。
> 論旨がどうもよくわからないのですが、死んで216年経った現在でもモーツァルトの作品を勝手に自作とするようなことは認められておらず、また金を払うとなれば「どの」遺族に払えばよいのかという問題があります。(子沢山のバッハを先祖に持つ人は相当な数に上るでしょう)
本項の趣旨は「永遠にせよ」ということではなくて、「原理的にはその権利がある」ということだけです。その上で、「それを制限するのであれば、没収ではなく買収にせよ」と主張しています。「有限/無限」ではなく「没収/買収」という違いです。
私有の土地の場合と対比してください。
> 保護期間延長問題は「残された子供と若い未亡人を一生面倒見るか孫の代までケアするか」ということだと理解しています。
それは著作権者の都合であって、金をどう使うかは著作権者の勝手です。自分で稼いだ金を全部自分で使ってしまってもいいし、孫子の代に残してもいい。そんなことは個人の自由です。
保護期間というのは、その分の権利があるということであって、基本的には次のように理解してください。
「著作権者は、死後における権利を、生前において他人に売却できる」
つまり、死後50年または70年の権利を、他人に500万円ぐらいで売却できる。権利があれば、その権利を生前に売却できる。権利がなければ、その権利を他人に売却できない。
もちろん、売却しないで、子孫に残しても良い。それは本人の勝手。
本項の問題は、著作権に限って、私有財産を没収することの是非です。「著作権者だけは虐待してよい」という文化政策を話題にしています。そういう文化政策の社会は、どういう社会になるか、ということを話題にしています。
個別の著作権者の子孫を保護したいわけではありません。社会全体を問題にしているわけです。
極端に言えば、「著作権を無視する中国のような社会がいいのか? そこでは各人が勝手にコピーできて、各人は大喜びだが、そういう社会でいいのか?」ということです。(これは極端な場合ですが。それに似た話となっている。)
世間では「50年/70年」という問題について、そのどちらにするかを話題にしている。
しかし私は、そのどちらにも賛成しない。問題は期間の長さではない。期間の点では、どちらも不足だ。原理的には、期間は永遠であるべきだ。しかし現実には永遠は無理である。そこで、期間を有限にするが、その代価として、減税ふうの措置を取る。つまり、「買収」とする。
この場合には、「期間を制限する」という形の「没収」ではなく、「将来の権利を購入する」という形の「買収」となる。この場合、「期間をどのくらいに制限するか」という問題自体が消えてなくなる。
例で言うと、モーツァルトの曲の著作権は永遠であるべきですが、その権利を社会が一定の代価を払ってモーツァルトから購入すれば、社会はその曲を自由に使えるようになります。これによって、社会もモーツァルトも、どちらも幸福になれます。
社会とモーツァルトが(たがいに傷つけ合う形で)「奪い合い」の競争をすればいいのではなく、「ともに幸福になる」という道を取ればいい、というのが本項の趣旨です。
モーツァルトの時代には、著作権というものはありませんでした。モーツァルトは自分の曲をすべて無償で勝手に演奏されてしまいました。得たのは、初演のときの作曲料だけです。(他に給付金などもあったが。)
そのせいで、モーツァルトはさんざん借金まみれになったあげく、35歳で死んでしまいました。それ以後にあるべき曲は、彼の死とともに消滅してしまいました。
社会が創作家を虐待すれば、作品そのものが消えてしまう、ということです。
( ※ この記述は、簡単すぎて、若干、不正確な面もあります。詳しい話は、モーツァルトの伝記などを読んでください。なお、映画の「アマデウス」は嘘ばかりなので、信じてはいけません。お勧めは、吉田秀和のモーツァルト論です。)
ただし適切な利用(←無断引用や盗作とかではない)までを制限する事は、文化にとってマイナスには違いないと私は実感しています。
(南堂さんの興味対象外でしょうが、ライトノベルの“文学少女”シリーズは先人の作品無しには生まれなかった良作でして……)
ただ『利用に関する制限』や『財産権』の話が、今の所『著作権』一つで話しているから、かみあう議論もかみ合わない訳です。
著作人格権だけ延長すれば済むのか、著作財産権も延長すべきなのかをごっちゃにしている人も多数だったりします。
期間延長の議論をする前に「作品に愛を。作者に敬意を。先人に感謝を。後人に遺産を。良い仕事には対価を」といった啓蒙活動こそが再優先でしょう。
それこそ小学校の義務教育で刷り込む位にすべきです。
それを抜きにして期間や権利や金銭の話をしても、作品と作者そして文化を本当に保護する事は出来ないと思います。
(あまり南堂さんの主旨とかみあってなくてすみません。邪魔でしたら消してくださって結構です)
書いてあることの揚げ足取りをする人とは正反対で、直接書いてない趣旨をわかりやすくかみくだいて理解している。最高の読者ですね。
こういうコメントがあると、励みになります。
※ 私が言いたいことは、(著作権であれ何であれ)「金儲け最優先の市場原理万能主義で片付けるのをやめよう」ということであり、それを裏返しに表現すると「愛を大切に」ということですから、pochi-p さんの見解の通りになります。
極論ですが、例えば、日本人は中国人が発明した漢字や紙を1000年以上にも渡ってタダで使用してきた事実があります。また、過去の遣唐使や遣隋使に至っては、中国が所有する著作権や特許を盗むように国命を受けたスパイだと中国から罵られても仕方のない一面もあるわけです。日本人が特許や著作権を意識したのは戦後のたかだか数十年程度にすぎません。著作権無視で漢字を無断使用した1000年に比べたら、ほんの一瞬にしかすぎません。たかが数十年だけ著作権や特許を保護してきたからといって、中国人を非難する資格など日本人にははありません。管理人殿が中国人を悪く言うなら、漢字を使って書物を書くのはやめなさい。日本人が発明した“かな”文字か“カタカナ”のみで表記しない。
次に、モーツアルトについて、管理人殿とは異なる見解もある事をコメントしておきます。
その日の生活にも困窮するほどだったからこそ、後世に残る名曲を作曲できたという見方もあります。例えば、もしモーツアルトが大金持ちの家に生まれていたら、作曲すらしなかったかもしれません。あるいはまた、何か名曲を作って、それで大金を手にし、その一曲だけで生涯楽して暮らせるほどの保障があったとしたら、現在残っている数ほどの名曲を作曲したでしょうか? 彼の性格から推測すると、もしも仮に彼が大金を手にし将来の保障も手にしていたら作曲のモチベーションは低下し、おそらくその後一生涯遊び暮らしていた可能性のほうが高いと思われます。
私だったら、”かな”、”カタカナ”のほうを問題にしますが...
ご自分で「極論ですが」と前置きするようならそれはとっても「極論」です。
> 中国人が発明した漢字や紙
特許権は20年、著作権も50年程度です。とっくに期限切れです。
さらに言えば、記号や言葉には、もともとどのような権利も付随しません。強いていえば、「登録商標」件があるが、これは、登録しない限り、無理。また、いったん登録した場合、他人は使えなくなる。
たとえば、漢字に対して、特許権のような権利を設定したなら、その漢字は、他人が自由に使えなくなります。「自分だけが使える言葉」となって、「社会では使われない言葉」となります。すると、それはもはや、言葉としての機能を失います。
言葉というものは、他人に使ってもらうためにあるのです。他人に使ってもらってこそ、全員が利益を得ることのできるものです。
逆に、他人に対して排他的に制限をすれば、その言葉はもはや言葉として使われなくなります。箱の中にしまわれて、使われなくなった言葉。死語。……言葉としての自殺行為。
(昔の中国人はそれほど愚かではなかったので、「漢字文化圏」というものを構築できました。賢明ですね。今の中国の科学用語では、日本の漢字熟語からの転用がたくさんあります。おたがい、もちつもたれつ。)
> スパイだと中国から罵られ
当時の中国人は、非難するどころか、歓迎してくれました。
もちろん現代の日本人も、中国からの国費留学生を歓迎しています。
真に賢明な人は、自分よりも劣る人に対して、寛容なものです。当時の中国人は立派でしたね。
> 管理人殿が中国人を悪く言うなら
私は別に、アンチ中国じゃありません。今回も、特定の一面を問題にしているだけであって、中国人全般を非難しているわけではありません。
こういう勘違いをする人が多いことについては、下記を参照。
wiki型と 2ch 型
http://openblog.meblog.biz/article/105967.html
(コメント欄の「モヒカン族」のあたり。)
なお、私が一番悪口を言っている相手は、日本人です。いつも日本政府や日本のマスコミの悪口を言っています。あなたの理屈に従うと、「日本語のひらがなもカタカナも使うな」となります。残るのは数字だけですか。