これにならって、「戦争における正義とは何か?」を考えよう。
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正義と科学
「正義とは何か?」ということが話題になったことがある。ハーバード大のサンデル教授の講義がネタ元だ。そこであらためてこの話題を取り上げよう。
この話題については、次の立場もありそうだ。
「物事はすべて科学的に扱うべきだ。つまり、客観的な数値で示すべきだ。正義についても、客観的な数値で表現することで、問題を科学的に扱うことができる」
こういう立場はありがちだろう。理系の人ほど、こういうふうに思いがちだ。
数値化の否定
しかしながら、本サイトでは、前にそれとはまったく正反対の結論を出した。
→ 正義とは何か? : nando ブログ
→ 悪とは何か? : nando ブログ
ここでは、次の趣旨のことを述べた。
「正義については、数値化してはならない」
「特に、正義を数字で足し算・引き算してはいけない」
これはどういうことか?
人々は通常、正義と悪を数値で計算したがる。
「正義がプラス 50 で、悪がマイナス 30ならば、差し引きして、プラス 20 だから、正義の方が多いね。ゆえに、総合的には、正義の方が多いと評価できる」
このように、正義と悪を数値で差し引きしたがる。数字による加算・減算を認めるわけだ。
しかし、上記項目では、私はその方針を真っ向から否定した。
「正義と悪を数値で差し引きしてはいけない」
と。つまり、こうだ。
「正義の多さによって、悪を隠してはいけない。どれほど多くの正義があるとしても、悪は悪として認識するべきだ。双方を通算する形で悪を隠してはいけない。正義と悪をそれぞれ別個に評価するべきだ」
たとえば、正義がプラス 50 で、悪がマイナス 30ならば、プラス 50 と マイナス 30 をそのまま認識すればいい。逆に、「差し引きすればプラス 20 だから、マイナス 30 をもたらす悪のことは忘れてしまえばいい」というふうに通算する主義の立場を取るべきではない。それは悪を見失うことになるからだ。
実例
実例で言えば、こうなる。
(1) 広島原爆
「広島で原爆を落としたことで、終戦が早まったというメリットが生じた。多大なメリットが生じたのだから、原爆で数十万人の市民を虐殺したという悪のことは無視していい」
という主張がある。だが、このような主張は、認められない。どれほど大きなメリットがあるとしても、そのメリットによって悪が帳消しになることはない。メリットはメリットとして認識し、悪は悪として認識するべきだ。それぞれは別の話だ。
(2) パレスチナ
「ハマスがイスラエル人を 1200人も殺したのは絶対悪である。絶対悪であるハマスを壊滅させることは正義である。この正義を達成する過程で、パレスチナ人の民間人に多数の死者が出るとしても、それは小さな悪でしかない。ハマスを壊滅させるという巨大な正義のためであれば、パレスチナ人の市民に死者が出るという小さな悪は仕方ない。大きな正義のためであれば、小さな悪はやむを得ない」
という主張がある。だが、このような主張は、認められない。どれほど大きなメリットがあるとしても、そのメリットによって悪が帳消しになることはない。メリットはメリットとして認識し、悪は悪として認識するべきだ。それぞれは別の話だ。
トロッコ問題
この発想から、トロッコ問題についても、いくらか判断をすることができる。
線路の切り替え器を動かすことで、列車の進路を変えることができる。10人の死者が出るのを、5人の死者が出るように、変えることができる。死者の数を半減することが可能である。では、そのように切り替え器を動かして、列車の進路を変えるべきか?
これについては「どうするべきか」という正解などはない。正解が選択肢に含まれていないのだ。かわりに、こう言える。
「どちらを選択しようと、その選択には自分が責任を負わなくてはいけない」
・ Aグループの 10人を死なせて、Bグループの 5人を生かす。
・ Aグループの 10人を生かして、Bグループの 5人を死なせる。
この二つの、どちらを選択することもできる。そして、いったん選択したならば、その選択に含まれる善と悪をともに引き受ければいい。
・ 前者ならば、10人を死なせた悪が生じる。
・ 後者ならば、5人を死なせた悪が生じる。
そのいずれにおいても、それぞれの悪が生じる。そういう悪を、そのまま引き受ければいい。悪は悪として、あるがままに引き受ければいい。決して「悪をゼロにする」というようなうまい選択肢はないからだ。
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ここを理解しないと、愚かな算術主義になる。
「5人を救うよりは、10人を救うことの方が大切だ。数の上からして、当然だ。 5 < 10 だからだ」
こういう理屈で、強引に切り替え器を動かして、5人を死なせる。それが正しいことだ、と言い張りながら。
そのあとで、報道が出る。
「不法に線路に乱入した悪漢 10人が、自分たちの命を守るためという理由で、切り替え器を動かしました。そのせいで、通学中の小学生 5人が列車に轢かれて死んでしまいました。小学生は何の罪もないのに、命を奪われてしまいました」
ここでは、悪漢が違法行為をした自分たちの命を救うために、善良な人を5人も死なせるわけだ。
つまり、単純な算術主義を使うことで、善良な人を死なせるわけだ。
結論
ともあれ、本サイトの結論ははっきりとしている。
「正義と悪を数値で通算するな」
「正義と悪を足し算・引き算で計算するな」
「正義によって悪を隠蔽するな」
「いかに大きな正義があろうと、悪は悪としてそのまま直視せよ」
こういう立場を取れば、ガザ問題でも取るべき立場ははっ切るするだろう。
ハマスがどれほど大きな悪をなそうと、また、ハマスを壊滅させることがどれほど大きな正義であろうと、そのことによって、イスラエルが何万にもの市民を大量虐殺されるという悪は打ち消されないのだ。
「悪いのはハマスなのから、イスラエルはちっとも悪くない」
というイスラエルの主張は、採用されない、ということだ。
逆説
以上のことから、逆説的に、次のように言える。
正義とは何か?
正義の側に立つものは、正義を自称しない。なぜなら、正義の側に立つ者は、自己の悪を認識するからだ。おのれの罪深さを常に自覚するがゆえに、正義の側に立つものは、自分を正義だと自称しない。
悪の側に立つものは、正義を自称する。なぜなら、悪の側に立つ者は、自己の悪を隠蔽したがるからだ。おのれの悪を自覚しても、おのれの罪深さを自覚しないので、悪を正義だと偽装したがる。ゆえに、悪の側に立つものは、自分を正義だと自称する。
つまり、正義とは、悪にとっての「隠れミノ」なのである。悪魔の本体をもつものが、正義の仮面をかぶる。羊の皮をかぶるオオカミのように、天使の皮をかぶる悪魔となる。そういう表面的な偽装をなすときの仮面のようなものが、正義という言葉なのだ。
本質的には悪であるものほど、自分を「正義」であると自称する。そのことは、イスラエルを見てもわかるし、ロシアを見てもわかる。
「正義」という言葉は、偽りの皮のようなものだ。その皮をかぶるのは、たいていは悪の側なのである。
※ ただし、純粋な正義というものを否定するわけではない。たとえば、自分のお金をどんどん寄付するばかりという、大谷翔平みたいな人もいる。
※ 1円の得にもならないのに、せっせとブログに記事を書く(ヒゲもじゃの)変人もいる。

まとめ
本項のまとめは、次の通り。
・ 正義と悪を数値化すると、悪は正義に隠蔽されてしまう。
・ 正義と悪を数値化してはならない。数値化せずに直視せよ。
人々は「数値化することで、文系の学問は科学になる」と思いがちだ。しかし、正義と悪という倫理学の問題は、科学になることで、かえって真実から遠ざかってしまうのだ。
それは芸術の課題に似ている。科学で芸術作品を作ろうとして数値で研究すればするほど、作品はどんどん凡庸になっていく。芸術は決して科学ではないのだ。
それはちょうど、愛が科学ではないのと同様だ。あるいは、科学が食物ではないのと同様だ。人がいくら科学を食べようとしても、科学の数字は食い物にはならないのだ。ちょうど、夫婦喧嘩は犬も食わない、というように。
【 追記 】
今回のガザの侵攻の例は、興味深い。それまでロシアの侵攻を非難していた西側の諸国が、ガザの侵攻では一転して、イスラエルの側を支持しているからだ。ロシアがブチャで虐殺したときには大々的に非難したくせに、それを圧倒的に上回る大虐殺がガザでなされているときには口を閉じる。イスラエルを非難するかわりに、殺されているパレスチナ人の方を「テロリスト」と非難する。たしかに 10月7日 という一日だけはハマスがイスラエル領内に入ったが、以後はいっぺんも入っていない。一方で、イスラエルは以後ずっと、ガザで虐殺を続けている。こういうときに、西側諸国はハマスばかりを非難して、イスラエルを支持してきた。ウクライナに与える武器を削ってまで、イスラエルに武器を供与して、大量虐殺を支援してきた。
西側の唱える正義というものが、どのようにご都合主義であるか、赤裸々に暴露されたわけだ。まったく、皮肉なものである。
今こそノブリス・オブリージュ!!