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長州なんて幕末のただの一藩にすぎない。……そう思う人が多そうだが、違う。
長州は討幕に成功して、幕府を滅ぼした。その意味で、日本史上で唯一、革命に成功したと言える。それも、テロリストによる暴力革命だ。こういう極端な歴史的事件があった。その主人公たる組織が長州なのだ。
なのに、明治維新の立役者である長州は、維新のあとではすっかり勢力を失っていった。明治以後、どんどん衰退して、昭和以後では田舎の弱小県にまで位置を落としてしまった。
どうしてこのような栄枯盛衰が起こったのか? それは謎だ。
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実は、この話題を取り上げたのには、きっかけがある。次のことだ。
→ 福島県の県庁所在地 中央にある“郡山市”でなく なぜ県北の“福島市”に? | NHK
福島県の県庁所在地は、中央の郡山市でなく、北端に近い福島市にある。そのせいで、位置的に不便である。何でそんな端っこの方が県庁所在地となったのか?
これに対して、上記記事ではこう答えている。
わかりやすく地図で示すと、この3県が、今でいう会津・中通り・浜通りのもとになったと言えます。
当時、旧福島県の県庁が置かれた場所はどこだったのか。
そのヒントが、今も県庁の敷地内に残されていました。
本丸跡と書かれたこちらの石碑。
当時、ここには福島城が建っていて、本丸の隣にある殿中、いわゆる御殿が県庁舎として使われていたことが発覚。
( → 福島県の県庁所在地 中央にある“郡山市”でなく なぜ県北の“福島市”に? | NHK )
ここから「戊辰戦争の影響だ」と推定している。
それはそれでいいのだが、その「影響」の具体的な意味が、記事では曖昧だ。どういうことなのか、よくわからない。
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そこで私がはっきりと言葉にしよう。こうだ。
「戊辰戦争では、西の会津藩と、東の磐前・磐城などの藩は、幕府側についた。中央の福島藩だけは、新政府軍についた。結果は、新政府軍の勝ち。敗北した西と東は、廃藩(お家取りつぶし)となった。中央の福島藩は、廃藩となった東と西を吸収する形で、福島県となった。
かくて、大きな面積をもつ県が誕生した」
実に、その広さは、東京と神奈川と埼玉と千葉を合わせたよりも、もっと広いほどだ。
2,194+2,416+3,798+5,157=13,565 < 13,784
( → 面積の狭い都道府県ランキング )
ともあれ、こうして「信賞必罰」「論功行賞」みたいな形で、福島藩の殿様に大きなご褒美が与えられた。その殿様の住んでいる福島城のある場所が、県庁所在地となったのだ。
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以上は、NHK の記事の話題である。これは、きっかけだ。
このきっかけのあとで、さらに調べると、次のことにたどりついた。
「戊辰戦争では、会津藩と長州藩の間に、深い確執が生じたが、その確執は、もっとずっと前からあった」
それは何か? 「八月十八日の政変」だ。これは幕末にあった事件だ。詳細は下記。
→ 八月十八日の政変
幕末には、長州は攘夷派だった。ペリー来航のあと、開国の方針を取った幕府に反発したが、薩摩藩と会津藩が結託してクーデターを起こして、長州藩を排除した。
長州は中枢から排除されて、勢力を失った。その間、悔しまぎれにテロ活動を続けていたが、内心では、排除した会津藩には恨み骨髄が続いた。
そういう過去の事件があったのだ。
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さて。その後、時が流れて、攘夷派だった長州は、外国の軍艦の大砲に打たれて壊滅状態となり、外国の武力の威力に尻尾を巻いて、正反対の開国派に転じた。
こうして長州は、外国から強力な武力を導入して、その武力によって、幕府を打倒するに至った。つまり、明治維新という革命の成功だ。……この話は、先に述べたとおり。
→ 明治維新と武力 : nando ブログ
※ 明治維新に失敗していれば、ただのテロリストで終わっただろうが、明治維新に成功して、政権を握るに至ったので、ただのテロリストでなく、正統派に転じたわけだ。「勝てば官軍」とはよく言ったものだ。「負ければ賊軍」というところだが、今の言葉で言えば「負ければテロリスト」だろう。
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さて。ここまでは、NHK の記事から展開した話だ。歴史を追っていくと、上のような事実にたどり着く。これは、別に新たに判明した情報ではなく、ずっと前から判明していたことだ。調べれば誰でもわかることだ。
一方で、新たに次の疑問が思い浮かんだ。それは、次のことだ。
「たいていの革命は失敗するのに、長州の革命は成功した。それは、なぜか?」
換言すれば、次のことだ。
「たいていの革命では武力が正規軍よりも弱いのに、長州の軍力は幕府の正規軍よりも強かった。それは、なぜか?」
これについては、すでに前々項・前項で説明を与えた。
→ 明治維新の真相 : nando ブログ
→ 明治維新と武力 : nando ブログ
ここでは一応、回答を与えたのだが、これだけでは不十分だと思える。
そこで、新たに次の質問を考えた。
「長州は幕末に栄えてから衰えた。それはなぜか?」
この質問は、本項の冒頭に掲げた質問だ。
そして、その質問に、私なりに答えた。こうだ。
「長州は、幕末には日本海貿易で巨額の利益を得たから、それによって財力を得た。その財力で、強力な武力を獲得した。
その貿易は、日本海貿易であるから、中国・朝鮮・ロシアを対象とするものだった。これらとの貿易は、対馬海峡を越えるので、下関が中継点となって、長州は繁栄した。
一方、開国後には、米国や英国やオランダとの貿易が多くを占めるようになった。港も、横浜や神戸が主体となった。こうなると、日本海貿易の主体であった下関の座は、一挙に転落した。それとともに、長州の経済的地位も、一挙に転落した。それまでは貿易の中心点であったのに、もはや辺鄙な一地域になりさがった」
この答えは、妥当だろうか? それを知ろうとして、AIに質問したところ、AIが歴史的知識で答えてくれた。私の上の推定は、妥当であったと言える。
以下では、AIの回答を引用しよう。
Perplexity の回答
長州藩が下関を中心に日本海貿易を発展させた主な理由は以下の通りです:
地理的優位性
下関は本州の最西端に位置し、日本海と瀬戸内海を結ぶ要衝にありました。この地理的条件は、日本海沿岸と瀬戸内海沿岸を結ぶ中継貿易の拠点として非常に有利でした。
経済的利益
長州藩は下関に「越荷方」(こしにかた)という委託販売システムを設置しました。これは西廻り航路で運ばれてくる商品を預かり、高値で売れる時期まで保管して販売する仕組みでした。このシステムにより、長州藩は大きな利益を上げることができました。
Gemini の回答
長州の下関を中心とした日本海貿易について
長州藩の下関は、日本海貿易において重要な拠点として機能していました。その理由と特徴について詳しく見ていきましょう。
なぜ下関が重要拠点だったのか?
- 地理的条件:
- 関門海峡に位置し、日本海と瀬戸内海を結ぶ要衝でした。
- 朝鮮半島やロシアとの交易路の玄関口であり、物資の集積地として最適でした。
- 関門海峡に位置し、日本海と瀬戸内海を結ぶ要衝でした。
- 藩の政策:
- 長州藩は積極的に海外貿易を奨励し、下関を貿易港として整備しました。
- 越荷方(こしにかた)と呼ばれる独自の貿易システムを確立し、貿易による利益を最大化しました。
- 長州藩は積極的に海外貿易を奨励し、下関を貿易港として整備しました。
- 品目:
- 主な輸出品は、米、麦、塩、紙、ろうなどの特産品(防長四白)でした。
- 輸入品は、毛皮、薬材、海産物などでした。
- 主な輸出品は、米、麦、塩、紙、ろうなどの特産品(防長四白)でした。
- 相手国:
- 主な貿易相手国は、朝鮮、ロシア、清でした。
- 主な貿易相手国は、朝鮮、ロシア、清でした。
- 交易ルート:
- 下関から対馬を経由して朝鮮との交易が行われ、また、日本海を北上してロシアとの交易が行われました。
- 下関から対馬を経由して朝鮮との交易が行われ、また、日本海を北上してロシアとの交易が行われました。
日本海貿易が長州藩にもたらしたもの
- 経済の発展:
- 貿易による収入は、藩の財政を潤し、産業の発展を促しました。
- 貿易による収入は、藩の財政を潤し、産業の発展を促しました。
長州藩の下関は、日本海貿易において重要な役割を果たし、藩の経済や文化の発展に大きく貢献しました。
しかし、幕府の規制や国内情勢の不安定などにより、日本海貿易は衰退していきました。
以上で、AIの示した記事によって、推定は裏付けられた。
※ 長州は幕府を倒して、日本を近代社会に導いた。日本に文明開化をもたらした。しかしその結果、自分自身は繁栄することなく、逆に衰退していった。自分で自分自身に、衰退の引導を渡した。ほとんど自殺的行為である。しかしその時点では、そうなるとは見通していなかった。だから倒幕に突き進んだのである。
関門海峡 なかなかの難所なんですけどね