◆ なぜ言語力が重要か?:  nando ブログ

2007年08月19日

◆ なぜ言語力が重要か?

 中教審は教育の方針を、「ゆとり教育」から「学力向上」に転じ、そのために「言語力」を重視するという方針を取ることにした。
 この方針は正しい。ただし、その理由がよく理解されていないようだ。そこで「なぜ言語力が重要か」を示す。

 ──

 まず、中教審の方針を示そう。( 読売新聞・朝刊 2007-08-17 )
 今年度中に改定が予定される小中高校の学習指導要領について、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)は16日、基本方針を「ゆとり教育」から「確かな学力の向上」に転換した上で、自分の考えを文章や言葉で表現する「言語力」を全教科で育成していく方針を固めた。
 「言葉は学力向上のために欠かせない手段」と位置づけ、小学校の低学年から、国語だけでなくすべての教育活動を通じて言語力を育成する必要があると判断した。
 例えば、小学校低学年では、体験学習で感じたことを作文にまとめたり、発表したりして、他の人と比べる学習を重視。中学の理科では、予想や仮説を立てた上で実験や観察を行い、結果を論述させる。体育の授業でも、筋道を立てて練習計画や作戦を考え、状況に応じて修正させる訓練を積むことを想定している。
 新たな指導要領で「言語力」を重視するのは、表現力や思考力の重要性を改めて学校現場に浸透させるためだ。
 文科省は「なぜ言語力なのか」をわかりやすく現場に伝え、真の学力向上につなげることが求められる。
( → 読売新聞
 ──

 中教審のこの方針は正しい、と私は思う。私も前からかねて主張してきたことと同じだからだ。
 ただ、記事の最後でも記しているように、「なぜ言語力なのか」という問題がある。頭ごなしに押しつけるよりは、その説明が求められているわけだ。
 ただし、記事のように、文科省に求めるのは、お門違いだ。文科省は、行政の役所であって、教育や文化を自ら実施する研究者ではない。この説明をなすべきは、研究者であって、文科省は、その成果を広めるだけでいい。文科省自身が説明することは必要ない。(仮に説明するとしたら、メチャクチャな説明になる。役人の教育論なんて、考えただけでもぞっとする。)
 そこで以下では、研究者の立場から、説明しよう。

 ──

 Q 「なぜ言語力が重要なのか?」
 A その答えは、次の二つによってなされる。

 第一に、教育の現場において、経験論からわかっている。理屈はどうだか知らないが、とにかく「書く訓練」をすると、生徒の学力は急激に向上する。単なる計算のような機械的な能力は向上しないし、単に教わって理解するだけの能力もあまり向上しないが、「自分で物事を考えて対処する」という能動的な能力が急激に向上する。
 たとえば、山に連れていって、「自分たちでキャンプを張りなさい」と言われたとする。その場合、指示待ちで自分では何もできない子供もいるし、自分で考えて何かをしようとする子供もいる。後者のように「自分で考える能力」をもつというのは、「書く訓練」をした子供では多く見られる。逆に、「書く訓練」をしていない子供だと、前者のように指示待ちの子供が多い。
 つまり、「書く訓練」をすることで、単に文章力だけでなく、一般的に物事を考える能力が形成される。
 これは、あくまで教育の現場での、経験論だ。

 第二に、言語哲学からの根拠づけがある。本項では、このことについて詳しく説明しよう。

 ──

 Q 「なぜ言語力が重要なのか?」
 A これについての説明は、言語哲学から、次の四点で示される。
  ・ 言葉は思考の道具である
  ・ 自分自身で考える
  ・ 言葉で思考を操作する
  ・ 言語力と論理力

 この四点について、以下の (1)〜(4) で順に説明しよう。


(1)言葉は思考の道具である


 言葉は思考の道具である。
 この意味は、「言葉は思考の道具にすぎない」という意味ではなくて、「言葉は思考にとって必要不可欠な道具だ」(それなしには思考ができない)という意味だ。
 普通、言葉と思考とは、別々のものだと考えられている。「まず思考があって、それを表現するために言葉が選ばれる」というふうに思われている。
     思考 → 言葉
 という順になる。
 しかしながら、そのような古典的な発想は、近代の言語哲学では否定されている。(ソシュール以来の発想。)
 一般的に言えば、「言葉なしの思考」というものは存在しない。つまり、思考というものは、言葉なしには存在しえない。
 ひるがえって、言葉なしの感情というものなら存在する。たとえば、言葉なしに、「水を飲みたい」と漠然と感じたり、「遠くに行きたい」と漠然と感じたり、異性を愛したりすることがある。ここでは、感情には言葉は必要ない。
 また、具体的な物を見て、それに触ろうとする、というふうな具体的・身体的な気分(行動意思)もまた、言葉を必要としない。
 一方、抽象概念については、必ず言葉を必要とする。たとえば、「国」とか「村」とかいう概念を考えるときには、そのための言葉を必要とする。しかも、その言葉に応じて、概念が自動的に定まる。
 だから、外国語との比較などで、言語が異なれば、概念のとらえ方もまた異なる。たとえば、日本語の「国家」と、英語の「 country 」では、意味内容が微妙に異なる。日本語の「かわいい」と、英語の「 cute 」では、意味内容が微妙に異なる。(……こういうことは、言語の「分節の違い」というふうに理解される。)
 以上のように、抽象概念に関する限り、「言葉なしの思考」というものは、存在しない。人が抽象的思考をするには、言葉が絶対に必要なのだ。言葉は思考のために絶対的に必要な道具である。
 つまり、ここでは、
     思考 → 言葉
 という順の図式は成立しない。まず思考があって、それを言葉にするのではない。言葉なしには思考は存在しえないのだ。図式的に言えば、
    ( 思考 + 言葉 )
 というふうに、両者は一体化している。(ソシュールはこれを「両者は一枚の葉の裏表のようなものだ」というふうに述べた。)

 ここまで述べたことに続いて、話題を広げよう。
 「言葉は道具である」と述べたが、それだけでなく、「道具は必要である」ということがある。
 たとえ話で示そう。
 ケーキを食べるためには、道具が必要だ。このことを示す。
 ウェディングケーキのように大きなケーキがあって、「食べていいですよ」言われる。ここで、ナイフとフォーク(という道具)があれば、切り分けて食べることができる。しかし、ナイフとフォーク(という道具)がなければ、切り分けることができない。すると、犬のように、顔を直接近づけてケーキを食べようとするが、ケーキが顔にぶちまけられて、ケーキをまともに食べることができない。
 ケーキを食べるためには、道具が必要だ。「道具なんかなくたって、道具なしに食べればいいんだ」ということは成立しない。
 同様のことは、ケーキを食べることのほかに、別の事柄にも言える。たとえば、「東京から大阪まで自動車で行け」と言われた人が、「ふん、運転さえすればいいんだ、自動車なんかなくたっていいさ」と主張しても駄目だ。自動車という道具なしには運転はできない。
 また、「キャベツを千切りにしろ」と言われた人が、「包丁なんかなくたって、調理用具なしに千切りにすればいいんだ」と思っても、駄目だ。
 こういうふうに、「道具なしには済まない」という事柄は、いろいろとある。
 思考もまた同じ。思考をするには、言葉という道具が必要だ。


(2)自分自身で考える

 「言葉は道具として必要だ」というだけでなく、もっと本質的な意味で、「言葉は根源的に必要だ」ということもある。
 ここでは、言葉と思考の関係を探ろう。特に、言葉の不可欠さを示す。言葉は、思考の道具としてあるだけでなく、思考のためには絶対的に必要不可欠である。
 言葉の不可欠さについて理解するには、逆に、言葉がない人を見ればいい。
 その例の一つは、言葉のない原始人だ。狼のなかで過ごした少年は、狼のようで、人間らしさがまったく欠けていた。また、視覚と聴覚のなかったヘレン・ケラーは、少女時代には狼のように粗暴だった。(その後、言葉を習うことで、人間らしさを得た。)
 もう一つの例は、言語機能が損なわれた患者(失語症の患者)だ。特に、ウェルニッケ失語というタイプの患者では、脳の言語領域を損傷したせいで、言語を理解することができなくなっている。すると、どうなるか? 抽象概念を扱えないせいで、ほとんど思考能力がメチャクチャになってしまっている。一見したところ、メチャクチャなことばかり言っている狂人のようにすら思える。(本人はまともなつもりでも、外部から見ると狂人が語っているように見える。)
 ウェルニッケ失語の患者は、言葉を失っただけではない。「抽象概念で思考する能力」をも、失っているのだ。この患者は、他人と会話する能力が欠けているだけでなく、自分自身と会話する能力が欠けている。そのせいで、自分の頭のなかで、抽象概念によって思考を構築することができない。
 ここでは何が大切か? 次のことだ。
 「言葉には、自分自身との会話という機能がある」

 ということだ。
 たとえば、次のように。
 「明日は学校へ行こうかな。行くのをやめようかな」
 「彼女は私を愛しているのかな。愛していないのかな」
 こういうふうに考えるとき、自分自身で言葉を使って、自分自身と会話している。そして、この機能は、「思考する」という機能だ。

 結局、言葉とは、次の二面がある。
  ・ 他人との意思伝達
  ・ 自分自身との会話

 後者は、「思考する」ということだ。つまり、言葉には、「思考する」という機能がある。
 逆に言えば、「思考する」ためには、言葉が絶対に必要だ。
 人は、思考するとき、「ああだ、こうだ」と考える。その際、自分自身と会話しているのだ。

 このことは重要なので、もう少し説明しよう。
 「言語力」という言葉を聞くと、人は次のいずれかだと思いがちだ。
  ・ 他人の思考を理解するための「読む力」
  ・ 自分の思考を伝えるための「書く力」

 なるほど、これらも大切だ。しかし、「読む力」は、初歩であって、初歩だけでは仕方がない。(学ぶだけの子供のようなものだ。)
 だから、「書く力」も必要だが、そのためには、「文章をこねまわす能力」よりも、それに先だって、「伝えるべき内容を構築すること」が必要だ。そういう肝心のことができないと、文章ばかりがきれいで内容空虚な論文ができる。
 したがって、「書く力」に先だって、次のことが必要になる。
  ・ 自分の思考をまさしく構築するための思考力

 こういう「思考力」こそが重要だ。言語力として何よりも大切なのは、実は、これである。つまり、「読む力」や、「書く力」よりも、「考える力」こそが重要なのだ。


(3)言葉で思考を操作する


 すぐ前に述べたことから、こう結論できる。
 「思考力を養うことが大切だ。そしてそのために、言語力を高めることが大切だ」と。
 要するに、思考力を高めるためにこそ、言語力を高める必要がある。

 ここで、もうちょっと根源的に考えよう。言葉と思考はどういう関係にあるか?
 言葉と思考は一体化している、と言ってもいいだろう。ただし、である。言葉と思考とは、たがいにまったく同じものだというよりは、不即不離の関係にある。(まったく別々のものだということはないが、かといって、同一のものでもない。)
 正確に言えば、こうだ。
 「言葉は思考を定着させる」
 「言葉は思考を固定する」
 「言葉は思考を明晰にする」


 思考というものは、漠然として、ぼんやりとしたものになりがちだ。霧のように。そういう漠然とした思考に、言葉を与えることで、言葉が明晰化する。下手な図で描くと、次のような感じだ。

    .....................
    ...............    ⇒    
    .....................

   <不明瞭>      <明瞭>

 これは「言語化」の過程である。
 ここでは、どういう言葉を選ぶかによって、思考を明晰にする仕方が異なる。
 (図で言えば、  としてどのようなものを選ぶか、ということ。いくつかのものが候補となるのが普通だ。)

 ここで、言葉を選ぶ際、言葉の語彙数が乏しければ、思考を明晰にする手段が限定されてしまう。思考をうまく構築できない。
 たとえば、「科学」という言葉を知らない未開人が、「科学」という概念を示そうとしても、その言葉がない。そこでかわりに、「神様」とか「天地」とかいう言葉を用いても、なかなか「科学」というものをとらえることができない。
 だから、思考をうまく明晰にするには、十分な語彙をもつことが必要だ。実際、数学者や物理学者だと、語彙が足りないときには、新しく語彙を創出する。新概念を示すために、新語を創出する。そのことで、学問を進歩させる。
 語彙というものは、かくも大切なのだ。語彙の乏しい人は、思考の基礎力が乏しい。数学で言えば、高度な数学力がなく、四則演算しかできない人が、高度な数学問題と取り組むようなものだ。最初から無理がある。
 高度な数学問題と取り組むには、高度な数学知識が必要だ。同様に、複雑な思考を扱うには、多くの語彙をたくさん知っている必要がある。……たとえば、科学者ならば、その分野の専門用語をたくさん知っている必要がある。政治や経済や心理学の学者ならば、その分野の専門用語をたくさん知っている必要がある。……のみならず、専門用語以外に、思考を操作するための語彙をいろいろと知っている必要がある。(ここでは、語彙そのものが重要だというよりは、語彙の使い方が重要となる。たとえば、「たとえば」という言葉をどういうふうに使えばいいか、という使い方。いろいろと使い方があるので、よく知っておく必要がある。)
 ともあれ、思考の基盤(基礎力)としての語彙は必要だ。それは「思考の道具の数」のようなものである。道具箱には、ドライバーがたくさんあると便利であるように、思考の道具としての語彙は豊富である方が便利だ。
 たとえば、次のような語彙がある。──「主客転倒」、「枝葉末節」、「両面価値」、「二重基準」、「偽善者」、「面従腹背」、「長いものに巻かれる」。── これらの言葉を自由に駆使することができれば、それだけ、発想の仕方は豊かになる。


(4)言語力と論理力


 語彙だけでなく、言葉をどう運用するか、という事柄もある。これは、論理力の問題だ。そして、論理をどううまく駆使するかということは、言語力と強い密接な関係がある。
 言語力の豊富な人は、文章を長々と書きながら、多様な論理を駆使して、大きな理論を構築する。
 ここでは、「大きな思考を、大量の文章で表現する」というふうに思ってはならない。むしろ、著者は、大量の文章を駆使することができたから、大きな思考を構築できたのだ。

 比喩的に言おう。ある人Aは、小さな犬小屋しか作ることができなかった。一方、別の人Bは、巨大な大聖堂を構築することができた。なぜか?
 Aはこう思った。「自分の手持ちの材料は乏しかったが、彼の手持ちの材料は多かった。だから自分と彼とには、これだけの差が生じた。両者の差は、手持ちの材料の差だ」と。
 しかし、それは違う。Aに同じぐらい大量の材料を与えても、Aはやはり犬小屋しか作ることができない。なぜか? Bには、大量の材料があっただけでなく、大量の材料を駆使するだけの能力があったからだ。
 
 この能力。大量の言葉を駆使する能力。大量の論理を駆使する能力。── それこそがまさしく、言語力だ。特に、言語の「書く能力」だ。
 「書く能力」というのは、「話す能力」とは、まったく異なる。話すだけなら、思いつきで、そのときに思い浮かんだことだけを、無駄にペラペラとしゃべっていればいい。しかし、「書く能力」の場合には、大きな概念を見事に書き出すだけの「構築力」が必要となる。
 そして、このような「構築力」のパワーを養成することが、「言語力」の訓練なのだ。

 たとえば、読者が今見ているこの文章だ。この文章では、著者が頭のなかにある概念を、長い文章にして示している。なぜそういうことができるかというと、著者にはそのような「構築力」があるからだ。
 その「構築力」とは、頭のなかに漠然とある思考を、細かな言語の断片に分解しながら、その言語の断片によって巨大な文章を構築する能力だ。いわば、セメントや骨材によって大聖堂を構築するように。
 こういう能力は、先天的に備わるものではなくて、一人一人が訓練によって獲得するものだ。人は生まれたときには、ただの赤ん坊であって、文章力などは持たない。その後、長年をかけて、しっかりと訓練をした人のみが、このような構築力を持つことができるようになる。
 こういう構築力を持つことによって、基盤となる発想の上に、次々と大きな思考を構築することができるようになる。いわば、建物を構築するように。(ただのヒラメキだけでなく、体系化する能力。)

 こういうことが、「思考力を持つ」ということだ。こういう能力があればこそ、その先で、あれこれと自分なりに独自の思考を形成することができるようになる。
 独自の思考というものは、天下り的にいきなり頭に湧くものではない。ただのヒラメキならば、天下り的にいきなり頭に湧くこともあるが、体系化された思考は、天下り的にいきなり頭に湧くものではない。
 体系化された思考は、基盤から順々に構築していくものだ。天下り的に降ってくるものではなく、各人が努力して少しずつ構築していくものだ。……そして、そういうふうに独自の思考を構築するために、「言語力」というものが必要不可欠のものとなる。

 逆に、失敗の例を見よう。言語力の劣る人は、思考を操作する力そのものが劣る。人は、言葉なしで思考はできない。人は、言葉を上手に操作できなければ、思考を上手に操作できない。
 とにかく、大切なのは、思考を上手に操作することだ。その際、言葉を上手に操作することが必要となる。

 優れた言語力とは、優れた道具である。それを備える人は、優れた道具ゆえに、見事な成果をなしとげる能力をもつ。逆に、それを備えない人は、いくら独自の発想があっても、自分の発想を「形のあるもの」にするために、四苦八苦するハメになる。たとえヒラメキが湧いても、ヒラメキがいつまでも断片のままになって、そのヒラメキを体系化することができなくなる。もちろん、巨大なものを構築することもできない。
 世の中には、「私は文章が下手なんで」と弁明する人がいる。「私は思考力はいいのだが、文章が下手なだけなんだ」と思っているようだ。それは違う。「文章が下手だ」というのは、「思考力がない」「構築力がない」ということなのだ。
 他人に自分の思想をうまく伝えることのできない人は、自分の考えていることを自分でもよく理解していないのである。


 なお、このことを逆に利用することもできる。自分の思考が不完全で未完成であるときに、言語によって思考を明晰化することで、不完全で未完成である部分が、はっきりとしてくる。どこが問題であるかが明確になる。すると、そのことで、何をじっくり考えればいいかがわかる。(指針が立つ。)
 たとえば、「××について考えよ」と言われたとき、ああだ、こうだ、と頭をひねるだけでは、考えがまとまらない。そこで、すでにわかっている範囲で、思考を言葉にしてみる。すると、どこが足りないかがわかる。それについて狙いを定めて、じっくりと考えるといい。
 人は自惚れやすい。「そんなことはわかっているさ」と思いがちだ。しかし、「わかっているつもり」であっても、わかっていないことは多い。そして、その「わかっているつもり」であることに、どんな欠陥があるかが、言葉によって明らかになる。
 おのれの不足を教え、おのれの進歩をもたらす。そういう効果が、言葉にはある。逆に言えば、「自分は利口だ」と思って、自惚れたまま、進歩したがらない人には、言葉は不要だ。たとえば、自惚れた原始人には言葉は不要だ。

 ──

 結論。
 以上の (1)〜(4) という四点を示した。
 これらによって、「言語力を高める訓練がなぜ必要か」がわかるだろう。
 言語力の訓練とは、ただの表現訓練ではない。思考を形にする訓練であり、思考の訓練そのものなのだ。
 なお、実を言うと、「思考の訓練」は、国語だけでなされるわけではない。英語を学ぶ際にも、「思考の訓練」は可能である。特に英文では、文章の論理構造がはっきりと示されることがあるから、その論理構造をはっきりととらえるながら読むことで、思考の訓練も可能となる。
 たとえば、「 as 」という言葉の使い方。「 while 」や 「 whereas 」の使い方。こういう論理構造をとらえる意識を、英文学習の際にももつといい。
 「思考の訓練」は、あらゆる言語を使いながら、なすことができる。だから、本当を言えば、「日本語を書く訓練」だけでなく、「英語を書く訓練」もやった方がいい。
 学校の英作文では、「駅から学校へ行くにはどうしますか?」というような作文ばかりをやっているが、本当は、論説文を書かせる訓練をするべきなのだ。ついでに言えば、日本語でも同様である。「面白いエッセー」の書き方なんかは、やっても仕方がない。「ちゃんとした論説文」を書く訓練をこそ、やるべきだ。
 そして、そのことは、社会に出たあとで、誰もが役立つ。たとえば、会社で業務報告のレポートを書くときにも、役立つ。エッセーの訓練なんかやっても、社内報の雑記ぐらいにしか役立たない。そういう人は、最初から(普通の仕事をしないで)窓際族でもやっていればいい。
 言語訓練において大事なのは、一に論理、二に論理、三に語彙である。おもしろおかしく書く能力なんかは必要ない。ま、そういう能力があっても悪くはないが、あくまでも枝葉末節的なことだ。「面白おかしいが肝心の内容が空っぽ」という文章を書く人は、会社でまともな仕事はしないで宴会係でもやっていればいい。
 言語の訓練といっても、どんな訓練をするかを、間違えてはいけない。「言語の訓練ならば小説を書けばいいんだ」なんて思っている人は、とんでもない勘違いをしていることになる。
 とにかく、言語訓練では、一に論理、二に論理、三に語彙である。

 ──

 [ 補足 ]

 「思考と体系化」という話題で、言語の意義を説明しておこう。

 まず、現代社会を見よう。現代社会は、昔に比べて、圧倒的に優れている。では、人間は? 現代の人間は、昔の人間に比べて、圧倒的に優れているのか?
 いや、そんなことはない。現代人は、昔の人間と、まったく同様である。生物種としてみる限り、十数万年前の人間とまったく同じだと考えていい。数百年前の人間と比べても、同様である。数十年前の人間と比べれば、かえって劣っているかもしれない。(現代の若者のボンクラさ加減を見よ。父や祖父の世代に比べて、ずっと劣っている。)
 ではなぜ、現代社会は、過去の世代に比べて、圧倒的に優れているのか? たとえば、トヨタの自動車でも、NECのコンピュータでも、数十年前に比べると圧倒的に優れているのは、なぜなのか? なぜ、劣った(または同等の)人間が、圧倒的に優れた技術開発をなせるのか?
 それは、過去の蓄積があるからだ。すなわち、科学技術などの知識には、次の事実がある。
 「知識は単調増加で増える」

 現代の知識は、過去の知識を基盤として、その上に追加されるだけだ。だからこそ、現代の科学技術は、過去の科学技術よりも優れている。
 現代の人間は、過去の人間よりも優れているということはない。かわりに、現代の人間は、過去の人間の築いたものを利用して、それを基盤として、その基盤の上に立つ。だからこそ、人類の知識は時間とともに進歩していく。

 とすれば、問題は、次のことだ。
 「なぜ知識は単調増加で増えるのか?」

 これは、次のことからわかる。 
 「過去の知識は失われない」

 過去の知識は失われないのだから、新たに追加された分だけが増えることになる。
 では、なぜ、過去の知識は失われないのか? それは、言語があるからだ。言語があるから、過去の知識は、ちゃんと形となって残る。
  ・ 文字の形で残る。 (バビロニア時代の知識もまた文字の形で残る。)
  ・ 口承の形で残る。 (企業で先輩から後輩へと伝わる。)
 これらのいずれも、「言語」を利用して、知識の蓄積がなされる。
 結局、言語こそ、人類の知識を進歩させた源泉なのだ。

 さて。以上のことは、人類レベルのことだった。一方、個人についても、同様のことは当てはまる。
 個人が思考をするとき、その場その場でヒラメキを思いつくだけでは、知識は蓄積されない。しかし、ヒラメキを言葉にして書き留めておけば、過去のヒラメキの蓄積をあとで利用できる。こうして、ヒラメキを体系化して、自分なりの思考を構築できる。ただの断片的なヒラメキだけでなく、大きな体系を構築できる。
 これが言語の役割だ。言語によって思考を体系化する、とは、こういうことだ。

 現代においては、パソコンの利用によって、知識の断片を体系化することが、かなり便利にできるようになっている。大量の情報を蓄積することも、再構築することも、検索することも、容易になっている。とすれば、そういう状況をうまく利用して、「思考の体系化」をなせばいいのだ。
 言語力の意味は、無意味な言葉をペラペラと語ることではない。しっかりと意義のある言葉を語ることだ。そのためには、言葉によって思考することが大事だ。
 言葉は思考を伝えるためだけにあるのではない。言葉は何よりも、思考するためにある。特に、思考を体系化するためにある。……その意義を、はっきりと理解しておこう。



  【 追記1 】 言語力を鍛える方法

 「言語力を高めるには、どうすればいいか?」
 この質問に答えよう。

 言語力を高めるための方法というのは、あることはある。ただしそれは、「1時間かけて読むだけで、たちまち言語力が向上する」というような安直な方法ではない。むしろ、「野球がうまくなる方法」とか「ピアノが上手になる方法」とかいうのと同じで、激しいトレーニングの方法となる。一種の教育本となるだろう。
 そして、そういう本は、書く方だって簡単には書けないし、読む方だってお金を払って読むべきものだ。だから、ここでは、そういう話は期待しないでほしい。

 かわりに、一番肝心なことだけを示そう。それは、次のことだ。
 「言語力を高めよう、という意思をもつこと」

 これが最も重要である。この意思があればこそ、言語力を高めることができるようになる。

 (1) 各人
 一人一人は、常に、「言語力を高めよう」という意思をもつべきだ。
 たとえば、山頂に登るときには、一番大切なのは、「山頂に立つぞ」という意思である。この意思がなければ、「疲れたからやーめた」「面倒臭いから休もう」「もう帰ろう」というふうになってしまう。だから、常に山頂をめざそうとする意思が必要だ。これが最重要である。
 この意思があればこそ、日々に言語力を鍛えようとする行動が生まれる。たとえば、映画やテレビを見て時間をつぶすかわりに、読書しようとするようになる。なぜなら「言語力を高めよう」という意思が、「読書」という行動を選ばせるからだ。
 意思なきところに道はない。

 (2) 学校
 学校では、どうか? 学校は、生徒に向かって「言語力を高めさせよう」という意思(意識)を常にもつべきだ。
 たとえば、算数なら、単に計算力を高めさせるのでなく、文章問題を解かせようとする。社会科ならば、単に地理や歴史の項目を記憶させるのではなく、「なぜそうなのか?」を論理的に考えさせようとする。理科ならば、単に法則を覚えさせるのではなく、「どうして自然はそうなのか?」という疑問から解決に至る道を、思索的に示すようにする。
 そのいずれにおいても、「思考力」と「言語力」を養成することが目的となる。単にテストの選択問題で正解の番号を選ぶことが重要になるのではなく、自分で論述できる能力を養わせるようにする。
 できれば、学校のテストは、すべて記述式にするべきだ。特に、国語のテストは、(漢字テストも含めて)全面的に記述式にするべきだ。現実には、採点の都合上、そうも行かないだろうが。それでも、理想論として、ここに示しておく。

( ※ ただし、一番の難題は、教師自身が「思考力」をもたないことだ。……実を言うと、パソコンの操作力さえない無能教師がとても多い。アジャパー。 がく〜(落胆した顔)

  【 追記2 】 読書の必要性

 読書の必要性について、別の形で述べておこう。
 書く訓練は大切だが、その前に、読む訓練も必要だ。つまり、読書が必要だ。これは当然のことである。(いちいち書かなかったが。)
 一般に、言語力を十分に獲得するには、非常に長い時間がかかる。日本語をまともに理解できるようになるには、20年ぐらいかかる。ちゃんとした文章を書くためには、さらに長い時間がかかる。(一部には早熟な文学少年・文学少女もいるが、彼らだって論理的な文章を書くのには時間がかかることが多い。)
 というわけで、言語については、「一生これ勉強」だと思いましょう。私だって、ずいぶん年を食ったが、いまだに発展途上である。つまり、まだまだ向上の余地がある。そして、それはまた、思考能力向上の余地でもある。
 思考能力が未発達であるのは、誰しも、やむをえない。ただし、「思考能力を発達させよう」という意図を失ってしまえば、それはもはや、人間らしさをなくした猿と同様である。近ごろの若者が「言語力を衰えさせている」ということは、彼らが「猿のようになっている」ということを意味する。
 そして、本項の狙いは、若者を「猿だな」と馬鹿にすることではなくて、「人間らしくなろう」と唱えつつ、その具体的な方法を示すことだ。
 逆に、悪魔のような人々は、若者たちに、「あなたは利口です。画像処理能力があります。それこそ新しいデジタル人間です」などと述べて、彼らの言語能力を奪い、彼らを猿のようにして、その際、画像というバナナを与えながら、彼らの金を奪う。……こういう連中の手口に引っかからないようにしよう。( iPod こそ最先端だ、と思って、読書量を減らした猿もいる。iPod を聞く猿。ううむ、なかなか絵になる。)
( → cf. ウォークマンを聞く猿 :たぶん現代の若者たちを象徴化した )
( ※ なお、音楽を馬鹿にしているわけではないので、念のため。たまにリラックスするのはいいが、肝心の本体なしに、リラックスのしまくりじゃ、本末転倒だ。)

  【 追記3 】 読書の効果
 
 読書の効果について述べておこう。次の二点が、読書の効果だ。

 (1) 言語訓練
 どんな文章であれ、読まないよりは読んだ方がいい。その分、言語訓練になる。くだらない英語の会話だって、やらないよりはやった方が言語訓練になる。日本語も同様だ。
 その意味で、子供時代には、どんなものでもいいから、とにかく読む習慣をつけるといい。具体的に言えば、古典的名作なんかにこだわらず、おもしろおかしいものを読めばいい。昔なら、チャンバラ。今なら、ハリポタ。
 (ついでだが、漫画では言語訓練にはならない。)

 (2) 思考のお手本
 お手本としての名作を読むといい。
 一つは、言語そのものが優れた文学作品。(具体的には、シェークスピアやゲーテや夏目漱石や三島由紀夫などの文学作品。)
 もう一つは、言語を利用して思考を示す論説文。(そこいらの下手な大学教授の論文なんかじゃなくて、ベストセラーになった古典的名作ふうの科学書。簡便に済ますなら、ブルーバックスや岩波新書でもいいだろう。)
 では、これらの名作は、どんな効果があるか?
 子供時代ならともかく、高校生時代になったら、内容をともなう文章を読む必要がある。その際には、「真似するべきもの」としてのお手本が必要だ。そのお手本を何度も繰り返して読む(体験する)ことで、自分がどうすればいいかがわかる。
 このことを他の例で示そう。たとえば、野球で上達したいなら、単に猛訓練するだけでなく、プロ野球の選手の動きをよく見て、お手本を知るといい。また、ピアノで上達したいなら、単に猛訓練するだけでなく、一流ピアニストの演奏をよく聞いて、お手本を知るといい。
 この二つの例のいずれにおいても、お手本を知ることで、真似するべき対象がわかる。そのことで、独学に比べて、ぐんと上達するものだ。読書についても、同じことが言える。

 …………
 以上の (1) (2) が読書の効果だ。



 [ オマケ ]

 最後に、読者を勇気づける言葉を述べておこう。
 ネットで「言語力」という言葉で検索すると、「私には言語力がないので落ち込みました」という話が多い。
 しかし、落ち込むことはない。なぜなら、世の中の若者の 99%は、ろくに言語力がないからだ。「馬鹿は自分だけじゃない」と思えばいい。
 ま、それでも、慰みにはならないだろう。しかし、大事なのは、このあとだ。馬鹿がたくさんいるなかで、自分だけが努力すれば、自分だけは他人をしのぐことができる。この先、訓練しだいで、いくらでも他人を上回ることは可能だ。
 そもそも、言語力の訓練は、一朝一夕にはできない。それは一生をかけた長距離走だ。18歳ぐらいで他人よりも一歩遅れたとしても、この先、努力すれば、いくらでも挽回可能だ。
 大事なのは、この先の努力である。「現在のところ遅れているな」と落ち込むことではない。「現在のところ遅れているな」と認識したなら、せっせと努力して、懸命に挽回すればいいのだ。
 ま、50歳になってから努力するのでは、挽回するにも限度はあるが、30歳未満であれば、いくらでも挽回は可能である。逆に、「早熟の天才」と称された神童が、のちに大作家になるわけではない。「七つで神童、二十歳で凡人」というのが普通だ。
 言語力については、「一生これ勉強」と思って、日々に努力するのが一番正しい。それは「言語力の訓練」を通じた「思考力の訓練」でもある。



 【 関連項目 】
 
  → 考える力
  本項と似た趣旨の話。

  → 日本語大シソーラス (書評ブログ)
 日本語のシソーラス(類語辞典)として便利な辞典を紹介する。
 「この辞典の出現によって、日本語の文化は劇的に豊かなものになる可能性を持った」と丸谷才一は激賞している。



 ※ 以下は特に読む必要はありません。

 [ 付記 ] (著作権について)
 言語力と思考力は、密接な関係をもつ。従って、まともな人は、他人の言葉を、他人の思考として、尊重する。ここから、「著作権」という発想が出る。
 世の中には、著作権を無視して、無断引用をする人もけっこういる。たとえば、私のサイトの文章を、勝手に無断引用する(引用元を明示しない)人も、けっこういる。そういう人は、他人のものを泥棒しているのと同じである。
 そして、他人の思考を泥棒しても平気でいられるような人は、そもそも、「思考」というものを尊重することができない。そういう人は、もともと思考力などは形成しがたいのだ。
 まともな思考をしたければ、他人の思考を尊重するべきだ。それが自ら思考をするための、第一歩となる。
(しばしば、「好きな作家の文章をたくさん読め」と言われる。そのわけは、そうすることで、文章に対する敬愛が生じるからだ。こういう敬愛は、無断引用とは正反対のものである。)

 [ 余談 ]
 本項を読んで、「これは名文じゃないぞ」と文句を言う人もいるだろう。そういう人は、態度を根本的に改める必要がある。
 本項は、有料の文章ではない。ネット上で無償頒布されるものだ。当然、手間暇をあまりかけずに書いたものであり、一種の草稿にすぎない。そんなものに高い完成度を求める方がどうかしている。
 人からタダで情報をもらったくせに、「品質があまり良くない」などと文句を言う人は、乞食よりも根性が悪い。まずはそういう根性をたたき直したほうがいい。
 そういう文句を言う人は、文章を書くということがどれほど手間のかかる作業であるかを、理解していないのだ。文章というものを尊重する人は、他人がただでくれた文章には、文句を言わないものだ。そして、かわりに、上品な文章を求めて、金を払う。
 とにかく、上質な文章を求めるなら、金を払うべし。別に本項の著者に金を払う必要はない。本屋に行って、上質な文章の本を探して、じっくり読めばよい。古今東西の立派な書籍があるのだから、そういう本をじっくり読めばよい。その上で、自分の頭で考えればいい。……金と時間をかけることこそ、なすべきことだ。「何かをくれ」とねだるよりは、自分から金と時間を差し出して、その対価として、すばらしいものを得ればいい。

 では、金を払わない人とは、どういう人か? 小さなガキのように、おねだりばかりする人だ。あるいは、ケチくさい人だ。一般に、
 「たとえ品質は低くとも、タダならいい」
 と思う人は、ケチである。
 ただし、ケチはケチでも、ただのケチなら、ケチな凡人であるというだけのことだ。どうってことはない。あくまで常識人である。一方、
 「無償公開する文章でも、品質は高くあるべきだ」
 と思う人は、社会常識のないエゴイストである。「自分は何も与えないが、他人は自分に与えるべきだ」と思うわけ。泥棒の正当化。……別名、社会に適応できない人間。引きこもり・オタクなど。……2ちゃんねるで過ごす人は、こういう性質を帯びるようだ。(因果関係は逆かも。)
 一般に、「著作権はなるべく短くあるべきだ」と思う人は、たいていエゴイスト(創作力のないエゴイスト)である。しかしまあ、これは別の話。(別項を参照。下記。)

 → http://nando.seesaa.net/article/50271462.html
 → http://nando.seesaa.net/article/50389606.html
 

posted by 管理人 at 10:51 | Comment(8) | 思考法 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
> 文科省自身が説明することは必要ない。

 と述べたが、これについて関連情報を得た。
 新潮社の小冊子「波」の8月号によると、藤原正彦が著作「国家の品格」で「国語力の重視」を訴えて、これが国民や文科省を動かした、ということらしい。(本人の話。)

 で、この著作には、「国語力で論理力を養う」ということが書いてあるらしい。(ネットで調べた結果。私は未読。)

 とすると、本項の趣旨と、おおむね合致しているようだ。ただ、あの本は一般向けだから、あまり詳しい話までは書いてないと思うが。

 ともあれ、読者の参考のために、一応、ここに補記しておく。
 
Posted by 管理人 at 2007年08月19日 17:04
最後に【 追記 】を加筆しました。 タイムスタンプは、上記。 ↑
Posted by 管理人 at 2007年08月19日 18:34
言語力言語力とおっしゃりますが、ボクの考えでは、そもそも言語とは、本質的には記号なので、その点を無視すると、トンデモない話になってしまう。上に書かれてあることを読む限りでは、どうも主張からその論点がなぜか抜けている気がするんですね。具体的にいえば、例えばiqテストなどのように、ほとんど言葉を必要としないテストで測定される思考というものがあるわけで、いちがいに言語力のみが思考力と直結しているとは、常識的にいっても思いがたい。無論、言語が思考において重要な役割を果たしているというのはたしかです。それはボクは否定しない。けれどそれだけというのもおかしい。思うに、記号に先だってパターンを認識するという思考作業ないし過程が存在しているのではないか。実際、そうでなければ、数学のような高度な思考は不可能でしょうよ。管理人さんは数学に詳しいようなので少し突っ込むと、いわゆるゲーデルの不完全性定理の論証やカントールの対角線論法など言語以前のパターンの直接的な把握というものはやはり無視できない。翻って、初頭教育でも言語よりまずはこうしたパターンの発見について熟達させるべきではないか。例えば、たし算ひとつとっても、厳密にその思考方法を言語化することはできない。せいぜいアルゴリズムの形で表現するほかない。この場合アルゴリズムというのは、結局パターンの発見に基づいていると思われる。結局まとめれば、言語力はゼロから新しいことをするときのヒュ―リスティクな作業には必要だし、生きていく上での知性を形成するものだから、初頭教育で力入れするのは良い、けれどそれのみが思考力を形成するわけではなく、むしろ数学や哲学などの高度に抽象的な学問では、非言語的なパターンを見ぬく思考方法が肝心になってくる場面が少なくないし、実際にポアンカレなどがそのような趣旨の発言をしている以上、欧米のようなパターン発見を教育に組み入れるべき。という主張が正しいとゆとり教育世代のボクなんかは思うんだよねえ。どうでしょうか?
Posted by suda at 2007年08月21日 02:38
長くなったので、分けて書いているけど、だからボクには管理人さんがやや片手落ち、あるいは悪くいうつもりはないけど、牽強付会の気がどうしてもしてしまうんだよねえ。いわゆる論理、ロジックってどうしても言語的な性質を持っているとは思いがたい。それはしかたなく言語の形をとるのであって、本質的には何か別のもの、おそらくはパターン認識に近いものに思われる。もっとも本当かどうかは知らない。脳科学や心理学ではどうなのか。現時点では確実なことは分からないですね。でも今でもいえるのは、少なくとも2本語などの自然言語に多く触れたからといって、論理的な思考ができるかどうかといったら……。これは難しいところだと思うね。言葉を巧みに操ることとそれが何らかの事実の写像となっていることは、違うわけでしょう。おしゃべりなおばちゃん連中(失礼)が驚くほど論理的な一貫性に無頓着ということはよくあることで、藤原なんとかがいうように、国語力が思考力に直結するとは思いがたい。ただ、まあ、書くことが発想の練習になるという管理人さんの主張は悪くはないと思う。つまり一度やれば次からもっと上手くできるし高速化できるということでしょ。これは確かにあると思う。自分の経験を一般化する自信はある。でもじゃあ、強制的に書かせればいいのか、それとも自分が書きたいものを書かせればいいのか、っていう具体的な案がもっと論じられてしかるべき。でも文部省程度の人間には無理かなあ(失礼)。
Posted by suda at 2007年08月21日 02:52
実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。

なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。

今どきの若者は全くしょうがない、
年長者に対して礼儀を知らぬ、
道で会っても挨拶もしない、
いったい日本はどうなるのだ、
などと言われたものだ。

その若者が、こうして年を取ったまでだ。
だから、実年者は
若者が何をしたか、などと言うな。

何ができるか、
とその可能性を発見してやってくれ。

山本五十六
Posted by 田中 at 2017年01月13日 18:11
社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。

口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。

そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。

本田宗一郎
Posted by 田中 at 2017年01月13日 18:12
駅員への暴力「60代以上」がトップ 結果にネットでは「納得」の声

「確かに駅トラブルは、オッサン多いかも」

加害者の年齢は「60代以上」が23.4%で、5年連続のトップとなった。
ここ数年19〜20%を行き来していたため、割合としては微増となる。2位の「50代」も前年度から2%増えた。
両者をあわせると、中高年による暴力行為は43.4%にのぼる。

「分かりきってることじゃないの。駅とか電車内でマナーが悪いのは、50代60代あたり。
混んでるエレベーターでも、我先に降りようとしたりね」

「空港や駅でキレて騒いでいるのって、圧倒的に50〜60代が多いと思う。
10〜20代の若者は多少騒いだりすることがあっても、基本的にマナーがいい」
Posted by 田中 at 2017年01月13日 18:13
 現在広く使われている「草食男子」は、その言葉をつくった彼女がもともと
もたせていた意味とはかけ離れたものになってしまっているからだ。

 深澤氏がもともと「草食男子」という言葉にもたせていたのは、家父長的で女性を見下す割には
家事や栄養管理のスキルをもたず、麻雀やゴルフぐらいしか余暇にやることがなくて
ひとりっきりでも充実した人生を送っていけるような趣味ももたない、団塊・バブル世代の
オヤジとは真逆の感性をもった若者たちを讃える意味だった。

 「モテることを自分の価値として、女性をトロフィー扱いするような団塊・バブル世代のオヤジたちに対して、
女性をリスペクトでき、人間として対等に付き合える新しい世代の男性たちのことを正しく理解させたかった
というだけなんですよ」
Posted by 田中 at 2017年01月13日 18:18
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