戦争について経済学的に考えよう。
「戦争には、不況を解決する効果がある」
というのは、本当か? もしそうだとすれば、
「不況を解決するには、戦争をすればいい」
ということになるのだろうか?
──
まず、次のような説がある。
「戦争には、不況を解決する効果がある」
「失業者にとっては、不況より戦争の方がマシだ」
これらの説は、一見、逆説的に聞こえる。だが、かなりの程度、真実を突いている。これを全否定する方がおかしい。
もちろん、究極的には、「戦争はすばらしい」というような賛美は成立しない。
しかしながら、不況下の失業者にとっては、「失業して餓死するくらいなら、戦争で戦死した方がマシだ」という発想も成立する。
( →
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。)
( →
けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで )
この人は、かなり面白い問題提起をしている。ただし、それに対する反論(保守派や左派からの反論)が、ひどいものだ。
一方、この人自身も、真実や正解がわかっていないようだ。
そこで、本項で説明しておこう。
──
まず、すでに述べた話を参考として示しておこう。
→
泉の波立ち 2002年11月30日 「戦争の経済学」 この話の要点は、次のことだ。
「戦争があれば、兵器の生産や兵士の徴用がある。その分、生産活動は増え、労働者は減る。労働需要は増えて、労働供給は減る。かくて、失業は解決する。」
「しかしながら、兵器という生産は、ただの無駄である。失業がいくら解決したとしても、人々の生活が豊かになるわけではない」 ──
具体的な例としては、
第二次大戦勃発時の米国を見るといい。
このときまで、米国は、世界不況後のひどい不況に悩まされていた。しかるに、第二次大戦が始まると、不況はたちまち解決した。むしろ逆に、
超インフレになった。
では、なぜ? 当たり前だ。兵器の生産ばかりをして、民需の生産ができなくなったからだ。爆弾や銃や飛行機や艦船などはたくさん生産されたが、そのほとんどは戦地で消滅してしまった。つまり、「戦争に勝つ」ということ以外には、何ら有益さがなかった。その一方、(兵器生産に押されて)自動車や電器製品などの生産は大幅に減少した。石油などの資源も、兵器用に回されたので、ガソリン価格も暴騰した。こうして、米国の国民の生活水準は、大幅に低下した。
(……ただし、戦時下ということで、人々は甘受した。)
──
では、そのことは、良いことだったか悪いことだったか? 実は、国民の違いによって、良し悪しは分裂した。
・ 有職者 …… 物価上昇の分、生活水準が低下した。
・ 失業者 …… 職を得たので、無収入ではなくなった。 ここでは、「ともに貧しくなる」という道を取った。だが、「貧しい」というのは、「餓死する」というよりはマシだった。つまり、大多数の人は損をしたが、社会の最底辺層である失業者だけは得をした。それまで所得のあった人は、いずれも(実質)所得を減らしたが、それまで所得のなかった人だけは、とりあえず所得を得るようになった。
というわけで、「失業者の解消」という点だけを見れば、「戦争は好ましい」と言える。
では、戦争は本当に好ましいか? いや、そんなことはない。民間用の生産量の総量が縮小したせいで、国民全体の富は減少したのだから、そういう状態を「好ましい」とはとても言えない。(それでも、最底辺層だけは戦争を好ましく感じる。)
──
以上をまとめてみよう。
戦争の経済的効果は、「良い」「悪い」を一概に断じることのできるものではない。次のように分かれる。
・ 有職者(大多数) …… 物価上昇の分、生活水準が低下した。
・ 失業者(最底辺) …… 職を得たので、無収入でなくなった。 とすれば、失業者(最底辺)が「戦争を渇望する」というのは、きわめて正しい。彼らにとっては、生きる道はそれしかない、とも言える。死をめざして戦うことだけが彼らにとって生きる道だ、という逆説。
その一方で、大多数の人々にとっては、「戦争は忌まわしいものだ」というのも、きわめて正しい。大多数の人々にとっては、戦争なんかなくても生きていけるし、不況中に餓死することもないからだ。不況ならば、最底辺層が餓死するだけだが、戦争になれば、自分たちも死ぬことになるかもしれない。だから、大多数の人々にとっては、戦争は悪である。
──
結局、二通りのエゴイストがいるわけだ。
・ 有職者(大多数) …… 失業者を餓死させて、自分が生きる。
・ 失業者(最底辺) …… 自分が生きるために、大多数を戦争に引き込む。 この二通りのエゴイストがいて、どちらもが「死」というババ(≒ えんがちょ)を、他人になすりつけようとしているわけだ。
──
では、それに対する解決策は? 解決策はあるのだろうか?
これは、もちろん、
前項で述べたとおりだ。すなわち、こうだ。
「配分の変更で解決しようとする限り、解決策はない。なぜなら、打ち出の小槌はないからだ。赤字があれば、誰かが赤字を負担しなくてはならない。富の不足の分を、誰かが負担しなくてはならない。最底辺層が豊かになれば、他の人が損をするだけだ。」
「最底辺層を豊かにしようとして、悪平等ふうの政策を取ると、全体の総量が減る。こうなっては、逆効果だ。ともに貧しくなるだけだ。」
「だから、解決策はただ一つ。配分の変更のかわりに、全体の総量を増やすことだ。そして、それには、正しいマクロ政策を取ればいい」 ──
問題と、その解決策はわかった。このあと、より深く考えるために、問題の本質を示そう。
現在は、不況下である。不況下においては、「全体の赤字」「全体の不足」という問題がある。この問題をそのまま放置しておいて、個別に「失業」という問題を解決しようとしても、無効である。配分の変更で解決しようとしても、無効である。病気の根源を放置して、対症療法だけしても、無効である。(前項)
配分の変更で解決しようとする方法の一つに、「戦争」がある。これは、少なくとも失業者にとっては、「解決」となる。彼らは「餓死」から「生存」へと転じる。(わずかな戦死の危険と引き替えに。)
ただし、これは真の解決ではない。戦争は(民需については)全体の縮小をもたらすからだ。(全体の犠牲を代償として、最底辺層だけが最悪の状態を免れる状況。)
では、真の解決策とは? 「失業」という個別の問題を解決しようとすることではなく、「失業」をもたらす根源を解決することだ。それがつまりは、「全体の総量の増加」である。
結論。 「戦争」は、「共産主義」と同様である。つまり、「全体を犠牲にして、最底辺層が救われる」という方法だ。
それは、それなりに有効に見えるかもしれないが、正しい解決策ではない。正しい解決策は、「全体の総量の増加」である。
ただし、その正解を取ることは、きわめて難しい。なぜなら、社会の誰もが、その正解を理解しないからだ。「国が正しいマクロ政策を取ればいい」とは思わず、「一人一人が個別に努力すればいい」と思うばかりだからだ。……そして、そういうふうに間違った発想に染まっている現代社会では、「戦争待望論」が起こるのもやむを得ない。
「戦争待望論」は、一見、狂気に思える。しかしながら、本当に狂気であるのは、社会の大多数の方だ。「一人一人が個別に努力すればいい」と信じて、市場原理という虚構ばかりを唱えて、国が真になすべきことをなさないでいる状況。そして、それを正当だと思っている人々だらけの状況。……そういう狂気的な状況が、物事の根源である。
「戦争待望論」は、おもしろい。それは、自らの狂気によって、社会の狂気をあぶり出すからだ。……その意味で、これは、好ましい文学的批評だ。なぜか? 経済的な真実を語っているからではなくて、社会の狂気という文化的な真実をあぶり出しているからだ。
[ 付記 ] この状況は、ライブドアをめぐる狂気という社会状況に似ている。
ライブドア事件では、どうでもいいような経理の小悪を、さも社会の巨悪のように錯覚する、という狂気があった。この狂気が、事件の本質だった。
不況という事件では、どうでもいいような「市場原理」だの「働く意欲」だの「生産性の向上」だのを、さも不況の根源であるように錯覚する、という狂気があった。この狂気のせいで、「総需要の不足」という真実に気づかなかった。
ライブドア事件では、社会は、おのれの狂気ゆえに、ライブドアを破壊した。
不況という事件では、社会は、おのれの狂気ゆえに、社会そのものを破壊する。自殺のように。それでいて、そのことに気づかない。
「戦争待望論」は、この社会の狂気をあぶり出す。実際、「戦争があれば失業は解消するぞ」という説に、誰もまともには反論できないのだ。なぜなら、それは真実なのだから。狂気に比べれば、汚い真実の方が、圧倒的に優勢である。
そして、この汚い真実を理解することで、その向こうにある正しい真実を理解できるようになる。……それが本項の趣旨だ。
【 補足 】 「戦争待望論」は、ただの比喩だと思えるかもしれないが、歴史的には、これは現実であった。それは、20世紀前半の日本である。
昭和恐慌に続いて、社会は非常にひどい不況になった。農家の娘は女郎屋に売られ、さもなくば一家が餓死するしかなかった。そして、そういう妹たちを悲しく思った兄たちの一部が、2・26事件を起こしたりした。また、一部は、満州に進出して、満州の富を奪うことで、自分たちが豊かになろうとした。
ともあれ、異常に激しい不況期には、国民は政治への期待を失い、軍部に期待するようになる。そして軍部は、その期待に応える。金持ちの富を奪ったり、外国の富を奪ったり、国民を兵士に徴用して失業を解消したりする。……暗黒状態の不況社会に苦しんでいた民衆は、軍部の登場に拍手喝采したものだ。実際、軍部の支配下の社会経済は、古典派的な財政緊縮経済よりも、はるかにまともなものであった。
こうして、日本は大東亜戦争という破滅をめざしていった。そして、それは、避けがたい必然的なことであった。
なぜ必然的か? 現状と同様だ。すなわち、真実に目をふさがれ、狂気の経済学だけを信じていれば、社会は不況という蟻地獄にのめりこむ。それは人々にとっては耐えがたい。だから人々は、蟻地獄から逃れるために、大きくジャンプする。「戦争」という、夢と希望にあふれた、広い空間をめざして。……そのあと、崖から飛んだあとで、真っ逆さまに墜落することになるのだが、少なくとも、崖からジャンプした瞬間には、すばらしい飛翔感を味わえる。
狂気の社会が、戦争をめざすのは、必然的だ、とも言える。
( ※ 現状はどうか? 失業者の数が少ないから、戦争を望む人はまだまだ少ない。しかし、失業者が大量にあふれるようになれば、戦争を望む人が増えるだろう。そして、まさしく、戦争が勃発する。……狂気の社会では、そういうことは十分に起こりうる。「戦争待望論」は、決して荒唐無稽ではない。今はまだ失業者数が臨界点に達していない、というだけのことだ。)
(
cf. →
2006年8月24日 : 戦前の日本と戦争
《 重要 》 )
【 参考 】(書評:戦争の経済学」)
次の本がある。 「戦争の経済学」(ポール・ポースト著、バジリコ刊) この本と、本項との対比を示しておこう。 この本は、キャッチフレーズにあるとおり、「戦争はペイするものなのか?」(戦争は経済に貢献するか)を論じる。要するに、戦争の損得勘定であり、戦争の収支決算だ。でもって、「利益を生むか」「損をするか」を計算する。 しかし、それは、「経済学」ではなくて「経営学」であるにすぎない。国家にとっての損得勘定であるが、企業であれ何であれ、事業の損得勘定をするというのは、「経営学」である。ま、「経済を論じている」という意味はあるが、普通の意味の経済学はまったく関係ない。特に、マクロ経済学ではない。 「マクロ経済学」というものは、損得勘定を計算するものではない。「利益の最大化をめざす」というのは、ミクロ経済学の原理ではあるが、マクロ経済学ではない。 「マクロ経済学」というものは、GDPの増減を考えるものだ。そして、戦争というものは、不況期に限っては、GDPを増やす効果がある。つまり、「不況の解決」である。そういう効果は、まさしくある。 ただし、常にそうなのではない。不況期には効果があるが、好況期には効果がない。好況期には、失業者や遊休設備は存在しない。ここで需要を増やしても、生産増加の効果はない。むしろ、(軍需に投資を奪われて)必要な民間投資がなされなくなるので、中・長期的には成長率が鈍化する。つまり、好況期には戦争はマイナスの効果がある。 こういうふうに、「戦争はGDPを増やすか減らすか」を考えて正解を与えるのが、「マクロ経済学」だ。一方、「戦争はペイするか」を考えるのは、経済学ではなくて、経営学だ。それは、「死の商人」であろうとする政府には有効かもしれないが、そんなことを考えること自体が、馬鹿馬鹿しいと言える。「大量の人を殺して、どうやって儲けるか?」なんてことを考えて、平然としていられるようでは、その人自身がテロリストと同然である。 要するに、上記の本の著者は、「テロリストのおかかえ経済学者」であるにすぎない。ただ、そのテロリストが、普通の民間テロリストではなくて、政府というテロリストなのだ。イスラエル政府や米国政府と同様に。……で、あなたもまた、「戦争で人を殺して儲けてやろう」という邪悪な精神をもつのであれば、こういう馬鹿げた架空シミュレーションをして楽しむのもいいだろう。しかし、通常の人なら、良心があるので、「人を殺して儲けること」というテーマをもった時点で、吐き気がするはずだ。 はっきり言おう。こういうテーマをもって計算する、という学者には、虫ずが走る。過去の似た例で言えば、「原爆で敵国民を効果的に殺すにはこうすればいい」とか、「日本に原爆を落とすのならば京都に落とすのが最も効果的だ」とか、そういうふうに人殺しの効率アップが大好きだったフォン・ノイマンと同様である。優秀な頭を、非人間的なことに使って、平然としている。そのことに無自覚な連中には、まったく虫ずが走る。 こういう連中は、学問というものの目的を、履き違えている。「独自の論文さえ書ければそれでいいのさ」「新しい知見を得られればそれでいいのさ」と思い込んでいるのだろう。殺人兵器の開発をする科学者と同様の精神。彼自身が悪であるわけではないが、良心がマヒしている。こういう連中は、死んだ方がマシである、とすら言える。現実には、自分が死なないで、他人を殺すこと[ 正確にはそれを補佐すること ]にばかり熱中しているが。
( ※ ついでだが、「人殺しをして儲ける方法」なんていうテーマで論じる書物は、絶版にするのが最も良心的な態度だ。こんなものを単に「面白いから」「商売になるから」「自分が儲かるから」という理由で出版する連中は、私としてはまったく理解しがたい。サリンや麻薬を販売するような連中と同様である。……こんなことを面白がって論じる前に、良心というものを働かせてほしいですね。「自分には何か大切なものが欠けているのではないか?」と自問する精神をもってほしい。)
( ※ なお、本書は全体としては、「戦争は儲からないから、戦争なんかやめましょう」という反戦論・平和主義を唱えているように見える。しかし、これは二重の意味で不誠実である。第1に、アメリカやソ連が戦争で大儲けした、という事実[ → 下記 ]を隠蔽している。第2に、「戦争は儲からないから悪い」という理屈は、「戦争は儲かるのであれば良い」という論理と一心同体だ。それはクウェートを侵略したフセインと同様の発想である。戦争を損得勘定で判断する、ということ自体が、根源的に狂っている。それは「人殺しの損得勘定をする」というのと同じだ。聞いただけでも、吐き気がするね。よくまあ、そういう人でなしのことができるものだ、と感心する。著者の頭はもはや人間として壊れてしまっている、と言えるだろう。狂気そのもの。マッド・サイエンティスト。)
( ※ 本項のテーマとの関連で言おう。本項では、「戦争の経済学」を考えながら、「戦争は失業を減らす」という発想について、「自らの狂気によって社会の狂気をあぶり出す」と述べた。一方、上記の同書では、同じ狂気に染まりながら、その狂気を拡大している。人々が「戦争なんかしていいのだろうか」と疑心暗鬼でいるときに、「戦争をするとペイするかペイしないか」と述べる。その結論は明らかで、「侵略戦争をして成功するのが最も利益になる」である。たとえば、過去の欧州白人は、アメリカ大陸を侵略して、インディアンを皆殺しにしたことで、莫大な利益を得た。ソ連もまた、終戦直前に日本に戦争をしかけたことで、たったの一週間の戦争で莫大な領土と資源を得た。ボロ儲けだ。……しかし、そんなふうに「ペイするか」なんてことを論じること自体が、非人間的であり、狂気に染まっているのだ。まずはその狂気を自覚するべきだ。戦争については「ペイするかどうかを考えるべきではない」と。「たとえペイしても戦争というものはそれ自体が狂気的なのだ」と。……といっても、狂人にとっては、「馬の耳に念仏」でしょうけどね。が、せめて一般の読者は、そういう狂気に染まらないでもらいたいものだ。 [ただしネットを見ると、著者に共感して、狂気に染まっている読者もけっこういるようだ。])
( ※ 同書の要旨は、こうだろう。「大義ばかりを掲げて、利益を狙わない戦争は儲からない」。もちろん、これは当り前のことだ。「商業活動ではなく、メセナ[社会福祉]としての事業は利益をもたらさない」ということだからだ。……一方、「民主主義のため」というような大義狙いでなく、「侵略を目的とする」という利益狙いの戦争ならば、儲かることも可能だ。たとえば、「イラクの民主化のため」という大義をかかえるかわりに、「イラクの石油を奪うため」という利益狙いならば、戦争で儲けることも可能だ。具体的には、イラクに核爆弾を落として、イラク国民を皆殺しにしてしまえばよい。核爆弾の使用は広島の例で正当化しているし、全員を大虐殺することもアメリカの歴史で正当化している。アメリカの自己正当化の論理によれば、「イラクに核爆弾を落として、イラク国民を皆殺しにすること」は正当化できる。そして、そうすればまさしく、イラクを侵略して、イラクの莫大な石油を奪うことができる。……ゆえに、同書の論理的帰結は、「イラクを大々的に侵略すれば、戦争は儲かる」ということだ。そこから、「イラクに核爆弾を落として、イラク国民を皆殺しにすること」が推奨される。それがつまり、「戦争の損得勘定」として同書の結論だ。著者は気づいていないようだが、「戦争の損得勘定」で言えば、そうなるのである。要するに、「儲からない戦争」の例だけを見て、「戦争は儲からない」という結論を出しても、ただの虚偽にすぎない。「戦争は儲かることもある」という歴史的事実を直視しない限り、戦争の真実を理解することはできない。)
( ※ 同書の題名は「戦争の経済学」だが、これは誤訳のようなものだろう。原題は The Economics Of War だが、Economics には「経済学」という意味のほかに、「経済的意義」という意味もある。後者の訳の方が正解に近い。というのは、本書のテーマは、戦争のミクロ経済学でもなく、戦争のマクロ経済学でもなく、戦争の収益性だからだ。そんなものは、「経済学」ではなくて、「経済的意義」「損得勘定」と呼ぶ方が妥当である。「戦争の損得勘定」ならぴったりですね。そう訳せば、下賤さがわかるので、誤解もなかっただろうに。……とはいえこの訳は、あえて誤解させようという狙いが見え見え。汚い仕事を高尚に見せようという魂胆が見え見え。)
【 追記 】
上記の批判は、同書の書評としては、核心からは逸れていたので、核心について論じよう。(正面から話題にぶつかる。)
同書では「戦争の経済学」にも触れている。アメリカ経済を例にとって、 「現代では、『戦争のケインズ効果』は成立しない。そのことは、過去の歴史で成立したが、現代では成立しない」 と論じる。これは、「現代のアメリカ」については、まさしく成立する。アメリカのなす戦争は、(ハイテク兵器によってなすものであって、)大量の兵士によってなすものではない。大量の兵士が徴収されるわけでもないし、大量の兵器が生産されるわけでもないから、戦争による失業吸収の効果はない。それゆえ、「戦争のケインズ効果」はない。……その点、著者の主張は正しい。 ただしこれは、論理を歪めるものだ。「そのことはあくまでアメリカにしか適用されない」という肝心のことが述べられていない。 だいたい、本心を探れば、アメリカの経済学者はすべて、ケインズ主義が嫌いである。結論は最初から決められているのだ。「ケインズ主義の効果はない」と。
しかしそれは間違いだ。現代でさえ、戦争のケインズ効果は成立する。そして、そのことを述べたのが、まさしく本項だ。もう一度、本項を読み直してほしい。 戦争は、国家全体では、損失となる。しかしながら、最底辺層たる失業者(やワーキングプア)だけは、失業状態を免れることで、最底辺から引き上げられるのだ。たとえ兵士としての状況がワーキングプアよりもさらにひどい状況だとしても、少なくとも「自分たちだけが食い物にされて、他の人々を富ませるために利用される」という奴隷状態を脱することができる。
ただし、ワーキングプアを食い物にする連中にとっては、戦争は損失である。たとえば、本書の著者のような学者たちにとっては、戦争は二重の損失である。 ・ 自分が徴収されて死ぬかもしれない。 ・ ワーキングプアを食い物にすることができなくなる。 (コンビニや料理店で安いサービスを受けられなくなる。) この意味で、中流以上の人にとっては、戦争は損失である。だから「戦争は悪だ」となる。 しかし、それはあくまで「現代の奴隷制」(ワーキングプア)を前提とした発想だ。「自分は奴隷ではないから、奴隷制は善である。ありがたい奴隷制を破壊する戦争は悪だ」という発想だ。 しかし、そういう発想は、人種差別にも似て、あまりにも身勝手なエゴである。そういうエゴに基づいて「戦争は悪である」などと述べても、そんなのは狂った論理に基づくな発想だ。 そういう発想を、本項は「現代の狂気」として述べる。それが本項の趣旨だ。
( ※ 具体的に論じよう。「戦争」で人殺しをするのは不都合だから、「雪合戦」をすることにする。政府がワーキングプアを兵士として徴用して、兵士たちに雪合戦をやらせる。そのための費用は紙幣増刷でまかなう。……すると、どうなうか? 正真正銘のケインズ効果が起こる。その結果、インフレが生じる。不況状況を脱して、インフレになる。その時点で、兵士の徴用を少しずつ、解除していくといい。そのことで、インフレ状況を保ったまま、経済は少しずつ正常化していく。結果的に、ワーキングプアは就職できて得をするが、他の人々はインフレの分だけ損をする。それでも、その経過期間を経て、経済は完全に正常化する。……これは、「人の死なない戦争」による「戦争のケインズ効果」だ。こういうことは、まさしく成立する。著者は「戦争は悪だ」という結論に凝り固まるあまり、「戦争の経済効果」という点にまったく盲目的になっている。そのせいで、「ケインズ効果」そのものを無視してしまっている。要するに、この本は、経済学の本としてみれば、「真実とは正反対の嘘八百を書く本」である。そのことで、「不況を脱するケインズ効果」とうい真実にまで目をふさいでしまっている。普通の人が本書を読めば、嘘を信じて、泥沼から脱せなくなるだけだ。) ( ※ ついでだが、「不況脱出の方法」としては、ケインズ主義は、次善の策である。それは「不況脱出」というプラスはあるが、「戦争」または「雪合戦」という無駄をなすというマイナスもある。つまり、副作用もある。一方、副作用のない方法もある。それが最善だ。その方法は、別項で述べているとおり。 → ワーキングプア & 古典派の倒錯 )
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【 関連項目 】
→
nando ブログ 「戦争はなぜ起こるか?」
※ この項目では、重要なことを述べている。それは、
「戦争が起こる理由は、会計学ふうに分析すればいい」
ということだ。経済学で戦争の損得勘定をいくら考察しても、戦争が
起こる理由はわからないし、戦争を止めることもできない。なぜなら、
戦争が起こる根源は、経済学的・経営学的な問題にあるのではなく、
会計学的な問題にあるからだ。
この項目を読んでようやく、戦争が起こる理由がわかるだろう。
ではなぜ、それをやる国が今あまり見当たらないのでしょう。
それをやれば経済は成長し、国民は豊かになり、そしてそれを見た周りの国も真似て、どの国もそうしているのでは?
つまり「特効薬はあるのに使われていない」…その理由としては
●皆が迷信にとらわれている
●特効薬を発表したら寄ってたかって潰す、と医薬業界全体の談合がある
●特効薬が効くのに時間がかかりすぎて患者が死ぬ
のどれでしょうか。
ついでに…現状からの需要喚起策として、たとえば太陽光・風力発電や植林に力を入れるというのは正しいでしょうか…大和を作るのと同様の効果はあるでしょうか?
です。かねて何度も主張しているとおり。(「妄想」という言葉で示す。)
●特効薬を発表したら寄ってたかって潰す、と医薬業界全体の談合がある
というのも少しあります。既存の学者は、新しい学説が出ると、時代遅れになって、失業してしまいますから。
> たとえば太陽光・風力発電や植林に力を入れるというのは正しいでしょうか
駄目です。特定産業の振興は「IT振興」と同じで、無意味です。
マクロ政策のためは、ミクロを個別対策しても、無効です。一つが増えれば、別のところが凹みますから。
日本は貿易立国ですからね、国際的な信頼の低下による有形無形の経済力の低下を容認する戦略はない気がします。
高度化した金融商品の前では戦争すら、新しい商品開発の要素になるのではないでしょうか?
単純な議論は、抜け目のないプレーヤの登場によってすぐに混乱する。
膨大な資本を背景にしたプレーヤは強力でしょう。
時代によって戦争の種類も違えば経済に与える影響もちがうでしょうね。
戦争は社会階層を変革すると一元的に論じるのもどうかと思います。
日本は戦争を得ることなく、戦後の一億総中流を実現し底辺を押し上げてきた歴史があります。
戦争のみが、社会階層を変革する手段ではないはずです。
しかし、具体的な「総生産量の増加」の方法の考察も深めていただきたかった。