◆ 英語の早期教育:  nando ブログ

2008年05月17日

◆ 英語の早期教育

 英語の早期教育について、見解を示す。
 英語教育は、小学5・6年で必修化されるが、現状は不十分である。では、どうすればいいか? 

 ──

 まず、ニュースを示す。
  • 英語教育は、小学5・6年で必修化される。2011年度から。
  • しかし今回、保護者への意識調査をしてみると、保護者の4割近くが「期待しない」という。
  • 7割の保護者は英語活動が効果をあげる条件として求めるのは、いろいろ。
    • 「英語専門の教員の配置」が 71%
    • 「小学校にふさわしい指導法」が 67%
    • 「外国人ネイティブの配置」が 58%
    • 文部科学省などが進めようとしている「CD・DVD教材」や「英語に堪能なボランティアらによるサポート体制」はいずれも20%以下。
    ( → 読売
 もう一つのニュース。
 政府の教育再生懇談会(座長、安西祐一郎慶応塾長)は16、17日両日の集中討議で、今月末にもまとめる中間報告の素案を固めた。英語教育の早期導入では、遅くとも小学校3年生からの英語の授業開始を明記した。
( → 日経
  ────

 さて。私なりに見解を加えよう。

 (1) 開始時期
 英語教育の開始時期は、いつにするべきか? 「早い方がいい」という意見と、「遅い方がいい」という意見がある。
  ・ 「年を食ってからでは間に合わない。だから早く」
  ・ 「英語よりも日本語の方が重要だ。だから遅く」


 実は、この二つは、どちらも正しい。次のように。
  ・ 《 音声 なら 》「年を食ってからでは間に合わない。だから早く」
  ・ 《 言語力なら 》「英語よりも日本語の方が重要だ。だから遅く」

 だから、結論は、こうだ。
 「英語の音声学習については、幼児期(小学2年以前)に開始する。」
 「一方、言語としての英語力については、中学以降で十分」


 つまり、「英語」と言っても、一つではないのだ。次の二つがある。
  ・ 音声としての英語
  ・ 言語力としての英語
 この二つは別々のことである。習得に最適の時期も異なる。

 では、どうするべきか? 具体的には、こうだ。
 「幼児期には、歌を歌ったりして、音声力をつける。なぜなら、この時期を逃すと、習得が著しく困難になるからだ。一方、文法や構文については、中学以降で十分だ。そして、その中間の小学校段階では、冠詞と前置詞の使い方を感覚的に覚えるだけでいい。単語も get, take, go などの使い方を感覚的に覚えるだけでいい。あとは、果物などの名詞をいくらか覚える。」


 (2) 学習方法
 では、具体的な学習方法は?
 私としては、次のように考えたい。
 「理想としては、マンツーマンである。しかし、現実には、それをなせるだけの英語力のある人材がいない。また、いたとしても、十分に予算化できない。とすれば、CD・DVD による教育しかない。もしそれを拒むのであれば、マンツーマンを捨てて、大規模な教壇型の教育になる。しかし、これは、最悪である」


 昔は、パソコンなどの機材がなかったから、大規模な教壇型の教育しかなかった。たとえば、教室でテープレコーダーを使ったり、教師が朗読したり。……こういう教育を覚えている保護者が多いのだろう。
 しかし今では、パソコンが十分に普及している。とすれば、一人一台のパソコンを通じて、CD・DVD による教育をするのがいい。これなら、一人一人の進度に応じて、1対1の感覚を疑似的に構築できる。また、教師も、全国均一で最高水準のものをそろえることができる。

 (3) 現実的な対処
 とはいえ、現実には、すぐ上で述べたこと( CD・DVD による教育)は、実現しがたいだろう。仮にやるとしても、文科省あたりがまともな教材をそろえることができるとも思えない。まず無理。
 となると、親としての方針は、ただ一つ。こうだ。
 「政府には頼らず、親が自前で CD・DVD をそろえる。民間の英語教材を使って、自分の子供にそれをやらせる」

 この場合、かなりの費用がかかるが、仕方ない。「小さな政府にして、税金をなるべく減らそう」という方針を取れば、「政府によるサービスもなるべく少なくなる」というふうになる。その結果は、各人が自力で多大な支出をするしかない。自業自得。
 いわゆる「小さな政府」というのは、「取られる税金が減る」ということだけでなく、「各人の自分自身の出費が多大になる」ということだ。だから、これは、当り前のことなのだ。

 英語を学ぶよりも先に、「自業自得」という言葉の意味を理解することの方が、先決となるだろう。英語力以前に、思考力が欠けていては、どうしようもない。
 なお、「英語だけをペラペラと話せる空虚な頭の持主」など、いくら養成しても、通訳ぐらいしかできない。そのうち「翻訳コンピューター」に取って代わられるだけかも。  (^^);



 ※ 注釈
 本項を読むと、「民間の英語学習機材の業者の売り込みを図っているな」と勘ぐる人がいるかもしれない。ま、たしかにそれで暴利をむさぼる業者も出てくるだろう。
 しかしまあ、政府がまともに教育をしなければ、そういう業者に任せるのもやむを得まい。これも国民の自業自得だ。
 だが、結果的に業者が暴利をむさぼるとしても、各人としては、何もしないでいるよりはマシだ。実際、CD・DVD の機材は、英語学習には有効なのである。(クズをつかまされなければ。)
 昔なら、テープレコーダーで学習したはずだ。そして、それなりに、効果を感じたはずだ。「テープレコーダーなんか不要だ」と言い張って機材を使わないでいると、いつまでも英語音痴になる。
 CD・DVD の機材もまた同様。こちらは、テープレコーダーよりも、はるかに有効である。特に、パソコンソフトでは、優れたものが多い。比較的安価なものでは、5000円程度で買える。それでいて、効果は多大らしい。(各人の下手な音声をフィードバックして修正するから。このフィードバック効果が多大である。)
 だから、大事なのは、しっかりとした教材を、親がちゃんと選んであげることだ。

 ※ 「どれがいいんだ? 教えてくれ」という声も出そうだ。あまり教える気はなかったのだが、それでは不親切だという気がしたので、あとで調べて簡単に紹介した。下記のサイトで。
   → 書評ブログ 「英語の発音教育ソフト」

 別に、「これを買うべし」という趣旨ではない。買った方がいいとは思うが、買ったからといって必ず上達するわけではない。同じ商品を買っても、その効果が出るか否かは、最終的には、本人の努力に依存する。「買えばOK」というほど単純ではない。
 ただし、買わなければ、習熟はまず無理だろう。それでも、「英語の発音なんか知ったこっちゃない」という立場も成立する。その場合、あとで悲惨な立場に立たされることになるが。  (^^);

( ※ 「テープレコーダーで聞くだけ」というのは、有効ではない。自分できちんと発音できることと、他人の発音を聞き分けることとは、一体化している。ちゃんと聞けるから、ちゃんと発音できる。ちゃんと発音できるから、ちゃんと聞くことができる。どちらか一方だけをやっていても、まともな音声能力は育たない。この点、注意。……たとえば water が「ワラ」に聞こえるとしても、日本語で「ワラ」と発音して米国人に water と聞こえるわけではない。日本語と英語とでは発音体系がまったく異なる。そのことを理解して身につけることが大切だ。)

 なお、注意。CD・DVD の機材で効果が多大なのは、子供に限られる。大人が同じ効果を求めても、効果が出るにはかなり長い時間がかかる。
 その意味で、たしかに、英語の早期教育は必要なのだ。老いてから無駄に時間をつぶさずに済むように。(音声だけですけどね。)

 ※
 「年を食ってからでも音声の習得は可能だ」という説がある。そして、その例として、「米国人が日本語をペラペラとしゃべれる」という例を挙げる人がいる。しかしこれは論証になっていない。
 音声的には、英語の方が日本語よりも豊かだ。「ら」行と「R/L」。「じ」と「dg, th, zi」。「あ」に相当する複数の母音。……こういうふうに、音声的には、日本語と英語は「1対多」の関係にある。ここでは「英語圏の人が日本語の音声を学ぶ」のは容易だが、「日本人が英語の音声を学ぶ」のは難しい。そういう非対称性がある。
 だから、「米国人が日本語をペラペラとしゃべれる」という例を見て、「日本人も英語をペラペラとしゃべれる」はずだ、と思うのは、あまりにもそそっかしいのだ。……そして、そのことは、たいていの人が身をもって実感しているはずだ。



 【 補足 】
 上記の論説は、私の個人的な見解を語っているのではなく、脳科学の研究成果に基づいている。
 人間の脳の発達は、年齢に応じた発育段階がある。
 (i) やや高度な脳(音声をパターン認識する能力:言語を聞き分ける能力)は、5歳ぐらいの幼児期に形成される。そして、この時期を逃すと、あとになってからでは形成するのが困難になる。実際、日本語と英語(特に英国語)とでは、音声の使用領域が大きく異なるので、「種類の差」という以上の根本的な違いがある。( → 参考サイト
 (ii) 一方、最も高度な脳(言語力としての脳)は、幼児期に開始され、それ以後、20歳ごろまで急激に発達していく。その後もさらに経験に応じて発達し続ける。
 以上の (i)(ii) は、まったく別の種類の出来事だ。これを「英語教育」というひとくくりの言葉でまとめてしまうのは、あまりにも粗雑な認識である。前者をなすのは、幼児期であり、その時期を逃してはならない。一方、ただでさえ大変な「言語力の養成」( 20歳ぐらいまでかかる)を、母語においておろそかにすれば、母語の習得そのものが損なわれ、あぶはち取らずになる。
 だから、英語の早期教育については、単純な「イエス」も「ノー」も間違いである。何をいつなすべきかについては、十分な区別と配慮が必要なのだ。そして、それは、子供自身にはできない。親がしっかりと対処してあげるべきだ。



 《 重要 》
 英語習得に関して、重要なことを一つ述べておこう。
 「いちいち日本語で訳さず、英語だけで完結すること」

 つまり、翻訳をしてはいけない。英語の和訳とか、和文の英訳とか、そういう変換をしてはいけない。英語を使うときは、英語だけを使う。
 その意味は、「日本語を介在させずに現実と結びつく」ということだ。つまり、ネイティブがやっているのと同じことだ。
 たとえば、 go という言葉を使うときには、「行く」「至る」というような日本語を介在させずに、直接的に思考を現実につなげる。それは「文脈において」ということだ。
( ※ 「文脈」というのは、英文そのものというよりは、その英文を書いている当人という人物の思考としてとらえるといい。たとえば、子供は、英語を学ぼうとして母親の声を聞くのではなく、母親の心を知ろうとして英語を使う。あくまで、英語そのものでなく、英語を語る人の心を知ることが目的だ。その心を理解することが、「文脈において」ということだ。)

 なるほど、最初にその英単語を習得するときには、「行く」「至る」というような日本語で理解していい。しかしいったん理解したあとは、その和訳の「行く」「至る」という言葉を覚えるのではなく、文脈において使い方や文例を覚える。 go to Japan とか、 go hungry とかの文例や使い方を覚える。
 これはつまり、「英語脳を脳内に形成する」ということだ。脳のなかに、日本語脳と英語脳の二つの領域を形成する。それぞれの領域内では、それだけで完結する。そして、ここが大事なことだが、日本語脳と英語脳とのあいだの変換機能はまったく必要ない。むしろ、そういう変換機能は形成しない方がいい。かわりりに、「理解脳」を経由して、間接的に変換する。下図を参照。

   [       理 解 脳       ]
      ↓↑         ↓↑
     [ 英語脳 ]
[ 日本語脳 ]

 英語脳と日本語脳との直接的な交流は遮断されている。ここが開かれるのは、語義を知るときの初回限りである。
 以後は、英語脳は英語脳だけで完結し、日本語脳は日本語脳だけで完結する。両者をつなげたいときには、理解脳を経由する。次のように。
  ・ 日本語脳 → 理解脳 → 英語脳
  ・ 英語脳 → 理解脳 → 日本語脳


 英語を習得するというのは、脳内に英語脳を形成することだ。そして、それは、「英語脳と日本語脳のあいだの交流機能を高めること」ではなくて、むしろ逆に、「英語脳と日本語脳のあいだの交流機能を遮断すること」によって達成される。
 ( ※ これは、早期教育とは関係なく、英語習得一般について当てはまることだ。……たとえば、語呂合わせで英単語の意味を覚える、というのは、まったく役立たずだ。それは、交流機能を養成するだけであって、英語脳の養成にはならないからだ。)



 [ 付記 ]
 英語力の向上について、細かな話をいくつか加える。

 (1) 文法的な能力

 年老いてからでは、うまくできないことがある。それは、(無意識的な)文法的な能力だ。
  ・ 冠詞の使い方
  ・ 過去形や複数形の使い方

 これらのことは、無意識的に自然になされる必要がある。たとえば、 catch の過去形は ed をつけた形でなく、 caught だ。また、さまざまな名詞で、冠詞が付いたり付かなかったりする。
 これらのことは、あくまで無意識的になされる必要がある。たいていは大丈夫だとしても、ときどき、ついつい間違えたりする。書いたあとで、読み直して、「あ、間違いだ」と自分で気づくものだが、このような間違いは、そもそもネイティブならば決してなさない間違いだ。
 つまり、子供の時期を過ぎて、中学生以降で習得したのでは、このようなことについて自然な能力形成は難しい。意識的に単語を選択する言語活動では大丈夫だとしても、無意識的に単語を変化させる言語活動ではついつい間違えてしまう。
 だからこそ、小学生の段階で、無意識的な文法機能についての基礎能力を養っておくべきだ。
 たとえば、 take - took - taken や get - got - gotten という基本変化の形をとりあえず覚えておこう。そうすれば、そのための基礎能力が身につくので、あとで他の変化も容易に追加できる。しかし、この基礎能力がもともと欠けていると、あとで習得しても、変化の仕方のパターンを自然に使いこなすことができない。(頭で覚えていても、自然に使いこなすことができない。)

 (2) 可算名詞・不可算名詞

 名詞も同様だ。それぞれの名詞に「 a をつけるかどうか」というような発想をしていると、英語を使いこなせない。それよりはむしろ、「それぞれの名詞を可算名詞と不可算名詞に区別してカテゴライズして覚える」というふうにしておく必要がある。
 ひとつひとつの名詞が可算名詞と不可算名詞に分類されるのではない。もともと可算名詞と不可算名詞という、全然別の種類の品詞があるのだ。そういう感覚で覚えておいた方がいい。たとえば、「 fish とは魚のことだが、これは可算名詞か不可算名詞かな?」と思うのではなくて、「 fish 」という言葉をもともと集合名詞として覚えるべきだ。そして、そのためには、用例つきで覚える必要がある。「魚」という日本語に訳してから覚えるのは妥当ではない。
( ※ ここからわかるが、英語においては fish は、「一匹、二匹」と数えるようなものではなくて、イクラや小エビのようにひとまとめで認識される物なのだ。たぶん fish というのは、網でまとめて獲って、まとめて処理してしまうものだったからだろう。本当にそうかどうかはともかく、言語的にはそういう感覚がある。)

 (3) 言語力

 (音声や文法でなく意味的な)「言語力」としての英語力ならば、年老いてからでも、十分に向上させることが可能だ。
 ま、60歳ぐらいまでは、大幅に向上の余地がある。使えば使うほど、どんどん向上する。
(受動的でなく能動的に使うのであれば。「読む・聞く」だけでなく、「書く・話す」をすれば。……私のお勧めは、英語の掲示板に出掛けて、自分の意見を書くことだ。けっこう楽しいですよ。)



 《 余談1 》
 余談だが、英語脳をどんどん高めると、日本語脳はいくらか侵食される
 「英語能力を高めると、その分、日本語能力が低まる」
 ということは成立しないのだが、
 「英語能力を高めると、いくらかは、日本語能力が低まる」
 ということは成立する。
 では、英語をやらずに、日本語だけをやっていればいいか? そうではない。実は、英語学習も日本語学習も、ともにやるべきだ。
 たとえば、日本語学習を 10 やって、英語学習を 5 やるとしよう。すると、英語による侵食のせいで、日本語の方は 10 でなく 8 ぐらいの能力しか身につかない。英語に食われてしまう。そのときは、「英語をやめてしまえばいい」のではなくて、「英語も日本語もともにいっぱいやればいい」となる。つまり、日本語学習を 20 やって、英語学習を 10やればいい。その総和は、30にはならず、侵食のせいで 25ぐらいに減じるかもしれないが、ともあれ、侵食の分を補って、余りある。
 だいたい、現代人は、「英語による侵食」を恐れるほど、日本語能力をまともに保有していない。「もともと日本語能力がろくにない」というべきだ。だったら「英語を学ぶのが怖い」とは思わずに、「英語も日本語も貪欲に学んでやろう」と思うべきなのだ。
 
 《 余談2 》
 最近のポピュラーな歌には、日本語と英語がチャンポンになった歌詞が多い。これは興醒めだ。
 先に述べたように、日本語脳と英語脳は分離している。通常、一方のみが働いて、他方は休止している。スイッチが入るようにして、切り替わることはあるが、同時に作用することはない。
 なのに、日本語と英語がチャンポンになった歌詞があるというのは、「日本語脳と英語脳の分離」がうまくできていないことを意味する。
 実際、私はこういうふうに日本語と英語がチャンポンになった歌詞を聞くと、頭がイライラする感じになる。日本語を聞いているときに、突然、英語がまぎれこんで、スイッチの切替を強要する。それだけならまだしも、直後にまた日本語に切り替わる。頭が発狂してしまうような感じがする。(ちょっと大げさだが。  (^^); )
 とにかく、「日本語脳と英語脳の分離」ができていれば、日本語と英語がチャンポンになった歌詞を聞くと、神経が苛立つようになる。なのに、神経が苛立つどころか、平然としてその歌を聴いて喜んでいるとは、どういうことか。
 これはつまり、「私は日本語も英語もろくにできません」ということであり、「私は馬鹿です」と語っているのようなものだ。
 こういう妙ちくりんな歌を聴いて平然として喜んでいるとしたら、馬鹿丸出しというべきだ。「恥を知れ」と言いたいですね。
( ※ こういうチャンポンの歌詞を社歌にしている会社もあるそうだ。朝日・土曜版 be 2008-06-07 による。……恥知らずな会社もあるものだ。ま、それを称賛している朝日もまた、馬鹿丸出しであるが。)
 
 《 余談3 》
 「子供には英語教育よりも日本語教育の方が大切だ」
 という意見がある。これについてはどうか?
 まず、次のことがある。
 「子供には英語よりも日本語の方が大切だ」
 これについては、全面的に同意する。日本語はすべての基礎である。子供にとっては、英語を学ぶより、日本語を学ぶ方が、はるかに大切だ。
 問題は、大切であるということと、教育とのつながりだ。日本語が大切ならば、日本語を教育すればいいのか? ここで問題が生じる。語学の習得には、教育よりももっと有効なものがあるのだ。
 たとえば、アメリカ人の子供は、英語がペラペラだが、英語教育を受けたからか? 違う。英語を使う生活環境のなかに暮らしていたからだ。ここでは「英語習得のためには英語教育が大切だ」ということは成立しない。
 日本人における日本語も同様だ。日本の子供が日本語を習得するには、日本語教育をすればいいのではない。母語というものは、教育で習得するものではない。日本語を習得するには、日本語の生活環境の方が大切だ。
 では、日本語の生活環境とは? 私自身の子供時代を思い出すと、どうやって日本語力を高めたかというと、「読書」だ。次のように。
  ・ 小学生低学年から、親に与えられた児童書。(漢字力も付く。ルビがあるので。)
  ・ 小学生高学年からは、新聞を毎日たくさん読む。
  ・ 中学生からは、大量の読書。(中学生向けの小説類。)
  ・ 高校生でも、大量の読書。(岩波新書などの教養書。)

 このように大量の読書をしたことが、日本語力の形成に役立った。毎日1時間以上を読書に費やしていれば、必然的に日本語力は付く。(ケータイなんかはまったくやらなかった。当時はケータイは存在していない。)
 
 結論。

 「子供には英語よりも日本語の方が大切だ」
 ということは成立するが、
 「子供には英語教育よりも日本語教育の方が大切だ」
 ということは成立しない。なぜなら、日本語力を高めるには、国語教育なんか意味がないからだ。日本語力は、学校で学ぶべきものではなく、生活の場における読書によって獲得するべきものだ。
 英語教育の意味はあるが、日本語教育の意味はほとんどない。学校という場で週にたった4時間ぐらいの授業をするのなら、英語教育の意味はあるが、日本語教育の意味はない。週にたった4時間のだらだらした国語教育で、日本語力が高まるはずがない。日本語力を高めるには、毎日1時間以上、精神を集中して読書することが必要だ。
 日本語の大切さを親が考えるのであれば、「学校で国語教育をしてくれ」と当てにするよりは、まずはわが子に読書の習慣をつけることだ。ケータイやテレビなんかは取り上げて、読書をさせるべきだ。
 そして、子供に読書をさせるためには、親が子供に本を買い与えることも必要だが、親自身が読書することも大切だ。親が読書すれば、子供はそれを見て真似をする。
 「子供の日本語力を高めるには、まず親自身が」
 というのは、なかなかためになる教訓となるだろう。逆に、親がケータイ漬けになっていれば、子供もまたそうなる。
 
( ※ 「精神を集中して読書することが必要だ」と述べた。ただ、精神を集中するには、読む訓練よりも、書く訓練が大切だと言える。)



 【 参考 】
 言語力については、下記(別項)を参照。
  → なぜ言語力が重要か?

 ※ 特に母語としての言語力の向上についての話。
 
 英語と思考との関係については、下記(別サイト)を参照。
  → Open ブログ「英語理解と脳」
 
posted by 管理人 at 20:13 | Comment(5) | 思考法 このエントリーをはてなブックマークに追加 
この記事へのコメント
よろしければ、「英語を学習すると日本語能力がいくぶんか侵食される」ということをもう少しくわしく教えていただけませんでしょうか?
Posted by suda at 2008年05月29日 00:18
 同じ分野で両立は困難だ、ということです。
 肉体で言うと、野球と卓球を両方ともプロレベルでやることはほぼ不可能です。肉体を野球向けに最適化すると、卓球能力が衰える。肉体を卓球向けに最適化すると、野球能力が衰える。もちろん「体力増強」という共通面での強化は可能ですが、細かな点では一方が他方を侵食します。つまり、「独立的ではない」ということです。まったく無影響であるはずがないんですよ。
 これが具体的にはどういうことかというと、実際の個人の実例を見るとわかりますが、それを示すには、「英語の得意なあの人は、日本語がちょっと変だよ」という例をたくさん示さなくてはなりません。実例を挙げるのは失礼なので、ここでは示しません。
 とにかくまあ、「うまい話はない」という原理を理解すれば十分。
 ついでに言えば、「両立は絶対不可能」と述べているのではないので、念のため。「両方で一流になるのは困難」と述べているだけ。
Posted by 管理人 at 2008年05月29日 02:24
邦楽に英語の歌詞・・・。確かに国際的に恥ずかしいです。特に使われてる「英語」の歌詞が和製英語である場合がほとんどで文法的にも全く間違ったものが多いので、素敵な曲でもそれだけで完全に台無しになってしまいます。止めて欲しいです、本当に・・・。私は外国生活ですが、良い邦楽があって現地の人に紹介する場合でも必ず「英語」が無いものに限って紹介しています。そうじゃないと私が赤面するハメになるので。
Posted by taro at 2008年06月09日 04:33
とても勉強になりました。
一点教えてください。
当方ただいまアメリカに滞在し、子供(アメリカ生まれ、現在1歳半)が2歳で日本へ永住帰国の予定です。現在は、母である私が英語で話しかけ、父親が日本語で話しかけておりまして、正直、英語早期教育を行っていると認めております。しかし、これは、英語耳を鍛えるためであり、何も、早期の段階で英検をパスして欲しい、文法を知って欲しいなど全く思っておりません。

現段階の1歳半で子供の発する言語は9割9分英語です。他のお子さんに比べても発する単語数がとても多いです。1歳半で60単語ほど発します。だからと言って、自分の子供の言語能力に私が自信を持っているわけでは全く無く、この状況は偶然であると、常に思うように心がけていますし、実際そうであると思います。

日本に半年後に永住帰国します。やはり、思考の点に関しては、母国語の日本語がとても大切だと考えておりますので、私が彼に発する言葉を英語から日本語へ切り替えるつもりでいます。一気に切り替えると、子供がますます混乱すると思うので、子供が発する言葉を確認しながら、子供のペースに合わせて日本語へ切り替えるつもりでいます。

結果、彼は英語をおそらく忘れてしまうでしょう。

ここで質問なのですが、英語耳を残すのには、どうしたらよいでしょうか。

お返事お待ちしております。
Posted by リル at 2010年06月21日 14:43
 その年齢ふさわしい内容の英語を聞かせるといいでしょう。セサミストリートみたいな。あるいは音楽とか。でも母親が英語ができるなら、母親が英語で話しかけるのがベストでしょう。
 幼少期からなら、バイリンガルは可能ですよ。切り替えるんじゃなくて、並列。英語脳と日本語脳は別々ですから、共存が可能です。
 特に、親が英語ができるというのは、理想的な環境です。親が苦労してバイリンガルになったなら、その環境で子供が容易にバイリンガルになれます。これが一番理想的な環境。(本文中で述べたマンツーマン)
 思考するというのは、書くことですから、書くのは母語である日本語がいいでしょう。でも、日常会話をするレベルなら、バイリンガルは難しくありません。特に、親の頭が良ければ。

 私の一応のお勧めは、3歳ぐらいまでは日本語だけで言語能力を養成し、3歳以降は英語を再スタートして、バイリンガルで話しかけると良さそう。言語の切り替えの場面を自分で理解できるころがメド。
 だけど、私の幼児体験を考えると、私が1歳のころにはもう結構自分の思考ができていました。3歳を待つことなく、1歳か2歳で、その切り替えができそうなので、もっと早い時期からバイリンガルにしても良さそうです。

 あと、書く訓練というのは、英語をやるか否かにかかわらず、今の日本人はまともにできる人は少数派です。10人のうち9人は論理的な文章を書けない。特に、ケータイ世代・ゲーム世代は、悲惨そのもの。英語をやめれば日本語ができるというわけではありません。日本語を鍛える意識的な訓練が不可欠です。

Posted by 管理人 at 2010年06月21日 18:58
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